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Last Crown  作者: 香山 結月
第2章 星明かりと瑠璃唐草
237/507

48-1 星原夏天

 月見月は、一年の中で一番暑い。

 新年から数えて八番目の月で、日差しが強くて歩くだけで汗が零れる。それでもガランスの気温は低い方で、セレストの方が暑いそうだ。それは人づてに聞いた。七夜月の間にガランスに戻って来た亜莉香は、その暑さを知らない。

 中旬を過ぎれば暑さが和らぐとは言え、暑さに慣れない。


 二度目の夏を迎えて、あまりの暑さに今年は月の初めから浴衣で過ごすことにした。

 昨年は袴姿で頑張って過ごしたが、今年は無理をしない。全速力で走れなくても、熱中症で倒れる事態は免れる確率が増すはずだ。

 裏門の近くの建物の影に立っている亜莉香の、目の前を行き交う人の半分は浴衣姿。扇で仰いだり、薄い布を被ったりして、直射日光を避けている。中には上半身裸の男性が荷車を押していたり、日傘を差した優雅な女性が歩いたり。人混みの人々は暑くても笑っていて、羨ましく思いながら息を吐いた。

 袴より浴衣の方が涼しいけど、やっぱり暑い。


 暇すぎて、自分自身を見下ろした。

 淡い白地の浴衣の裾では、紺の魚が泳いでいた。水の波紋の模様の中を優雅に泳ぐ魚のように、今すぐに水の中を気持ちよく泳ぎたい。

 浴衣に合わせた帯はごく薄い藍色の浅葱色で、結んである帯締めは瑠璃色。両手で持った小さな手提げは着物の端切れを合わせた手作りで、中には必要最低限のものが入っている。日焼けをしないように白足袋と草履を履いているが、足の裏に冷たい氷が欲しい。

 実際に裸足で氷の上を走り回ったら、霜焼けするのはセレストで実証済みではあるが。

 少しでも怪我を負ったり、具合が悪くなったりすると、心配してくれる人達がいる。そのため近くを通り過ぎる精霊達に、容易に下手なお願いは出来ない。

 例えば今から雨や雪を降らすとか、辺り一面が凍るとか。


 暑さで頭が回らなくなってきたところで、馬が目の前に止まって顔を上げた。

 低い円錐形の笠を身に付けた二人が太陽を背にして、片手で太陽の眩しさを遮る。


「フミエさんと…ヨルさん?」

「いつも疑問形で聞くなよ」

「大丈夫ですか?」


 問いかけられて、上手く笑えた気はしなかった。

 あまり暑そうに見えない二人は、前回会った時と変わっていない。着物の色や柄こそ変わって生地は薄くはなっているが、袴姿で平然としている。

 相変わらずヨルの短髪はくせ毛で所々はねていて、上品な鼠色の着物に黒に近い灰色の袴姿。対してヨルの腰に腕を巻きつけて、馬の後ろに乗っていたフミエは薄い黄色の着物。大柄の白い撫子が描かれて、深い紫の袴を合わせていた。

 フミエの撫子と光跡花の簪の挿す位置が低くなり、笠に配慮して髪をまとめている。耳で揺れる黄色のガラス玉が、小さな飴玉のように見えて可愛らしかった。

 蜜柑のような橙色と蒲公英のような黄色の瞳に見つめられて、亜莉香は言う。


「…暑いです」

「だろうな。いつから待っていたんだよ」

「あまりの暑さに途中で休憩を挟もうと、早めに向かったのです。でも時計がなくて、どれくらい待っていたかは分かりません」


 小さな声で亜莉香が答えている間に、フミエは慣れた様子で馬から下りた。背負っていた風呂敷を解いて竹筒を取り出すと、亜莉香の両手に押し付ける。


「これ、飲んで下さい。ただの水ですが」

「いや、でも――」

「いいから、素直に水を飲め。今にも倒れそうな顔をしているからな」


 呆れながら言うヨルも馬から下りて、フミエを見ると困った顔をしていた。鏡がないから自分の顔は確認こそ出来ないが、これは相当悲惨な顔をしているかもしれない。

 そういえば先程から、行き交う人の視線を感じていた気がしなくもない。

 お礼を言って受け取って、竹筒の水で喉を潤した。

 一息ついて、亜莉香は肩の力を抜く。


「生き返ります」

「こんな所で倒れたら、後で恥になるぞ。それも暑さにやられて倒れる奴なんて、滅多にいないだろ。一人で待っていたのか?」

「いえ、その…ルカさんが途中まで一緒だったのですが」


 不思議そうなヨルの質問に、竹筒を持ったまま視線を泳がせた。

 言えない。これから向かう先のケイの店で、ルカが現在どうなっているのか。数十分前までの一緒にいたけど、連れて行く事が叶わず置いて来てしまったことを。


「…後で合流します」


 詳しく説明したくなくて、濁して口を閉ざした。

 顔を見合わせたヨルとフミエは、何も聞かずにいてくれた。居心地の悪くなった亜莉香はひとまず、中身が少なくなった竹筒をフミエに返す。

 まあ、とヨルが手綱を握ったまま話し出す。


「何でもいいけど。この暑さで、道端で倒れることはないようにしろよ。俺は用事を済ませて来るから、終わったら迎えに行く。数時間でフミエの用事も終わる予定だろ?」


 風呂敷を手に持ったフミエが頷く前に、確認を込めた視線が亜莉香に向けられた。

 本日のフミエの用事は、必要な帯と小物の購入。

 前回購入した反物は亜莉香が仕立てて、すでにケイの店に運んである。イトセを中心に帯や小物は集まっていて、数時間で終わらせる予定を組んでいた。


 あくまで予定で、実際に終わる保証がない。

 数日前から、イトセは少しでも長くフミエを捕まえておく気だった。お茶目なイトセの無茶ぶりに、何故か乗り気のルイが途中で加わって、ケイに至っては先を見越して色々と準備をしていた記憶がある。今日を誰よりも楽しみにして張り切っていたユシアの顔も思い出して、亜莉香は重い口を開いて問いかける。


「終わらせたいは思っていましたが、お二人とも明日は早いのですか?」

「俺の質問の答えになっていない、その質問は何だよ」


 遠回しに用事が長引く可能性をぼかした質問に、疑われても仕方がない。

 ため息を零しつつ、ヨルは律儀に答える。


「俺は時間を気にしない。フミエは?」

「私も昼までに戻れば問題ありませんよ?」

「それなら一晩泊まっても問題ないですね」


 ほっと安堵して両手を合わせて見せた亜莉香に、ヨルもフミエも瞬きを繰り返した。

 何か言われる前に、ちょっと困ったと言う表情を浮かべる。


「何だか私の知らない所で、お二人の宿泊が決まってしまいまして。寝る場所も食事も用意するから、是非泊まって欲しいと。最悪フミエさんだけでも泊まって頂ければ、帰りはこちらで何とかするとも仰っていまして」

「…誰が?」

「最初に言い出したのは、これから向かう店の孫娘さんですね」


 さらっと答えたのは、隠す必要がないからだ。頭が痛そうに、ヨルは左手を眉間に当てた。話についていけないフミエに微笑み、亜莉香は続ける。


「途中から話が大きくなりまして。本当は前もって話を通すつもりだったのですが、ルイさんが言わない方が面白そうだからと。必要な物はもう用意してあって、一応ルイさん経由で、お二人が泊まる可能性が高いことをイオちゃんには伝えてあります」


 ちゃん付けで良かったかな、と頭の中で考えた。ヨルは気にせず問う。


「イオから…何か言付けあったか?」

「特には聞いていませんが、ルイさんからは預かっています」


 ルイの名前で、ヨルは凄く聞きたくない顔をした。話をする上で伝えて欲しいと言われ、最初に口が重くなった原因でもある言付けを、亜莉香は口にする。


「ヨルさん宛に――帰りたかったら一人で帰ればいいよ、と」


 伝えるように頼んだ本人は満面の笑みを浮かべていたが、亜莉香は真似できない。眉間に皺が寄ったヨルが、一人で帰ることはないと分かった上での言付けだった。

 ヨルの口角が引きつっているが、亜莉香に何か言っても無駄だと悟っている。

 静かになった空間で、途中から納得した表情を浮かべたフミエは呟く。


「だから今朝、お爺様とお婆様に着替えを持って行くように言われたのですね」

「そんなことを言われていたのかよ」

「それからイオさまに、昼前には売り切れてしまうと話題になっている和菓子を頼まれました。中央市場に最近出来たお店らしいです」

「それは別に買わなくていいだろ」


 呆れたヨルがフミエと話し始めて、亜莉香から視線が外れた。

 イオに頼まれた和菓子の話になって、泊まる話はどこかへ行ってしまった。二人とも泊まらないとは言わなかったので、裏で手を回していた面々の苦労は無駄にならない。

 無事に一日が終わることを願って、亜莉香は今後の予定を組み直すことにした。

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