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Last Crown  作者: 香山 結月
第2章 星明かりと瑠璃唐草
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47-5

 選択肢を間違えた。

 両手で丸いグラスを包み込み、亜莉香はテーブルを挟んで向かい側を覗き見る。

 向かいに座って包丁を持っているのはカイリで、落ち着いた藍色の花が咲く着物に淡い白の帯。空色の髪を緩く結んで、慎重に長方形の寒天を切り分けていた。

 その隣で冷たい煎茶を飲んでいるのがツユで、組んだ足の間では娘のマホリが眠っている。一歳にも満たない小さなマホリは、安心しきった顔で起きる気配がない。カイリと同じ柄の着物で可愛らしい寝顔を見せているのに、ツユは始終無言で眉間に皺を寄せていた。

 ツユの格好は昨日と変わらず、若干疲れた表情にも見える。

 その向かいでテーブルに肘をつき、頬を支えていたネモフィルが口を開く。


「いい加減、機嫌を直しなさいよ。ツユ坊」

「その呼び方はやめろ」


 怒りのこもった声に、ネモフィルはため息を零した。

 ほんの数分前に顔を合わせてから、ツユの機嫌が悪くなる一方だ。

 襖を開けたのはカイリで、亜莉香とネモフィルを見つけるなり部屋の中に誘った。帰れ、と叫んだツユの声を聞かず、ネモフィルは部屋に上がり、亜莉香も引きずられる形で部屋に転がり込んだ。

 迷惑なはずなのに、カイリはわざわざお茶とお茶菓子を用意してくれる。

 寒天を均等に切れて満足した顔で、盛り付けた透明なガラスの皿を亜莉香に差し出した。


「どうぞ、冷たいうちに召し上がって」


 申し訳なく思いつつ、亜莉香はお礼を言って受け取った。

 カイリが他の二人に配っている間に、手元に寄せた寒天を眺める。四角い形の寒天は下にいくほど透明で、綺麗な琥珀色の上の部分に、天の川のように金箔が散りばめられている。透明なガラスの皿は薄っすらと瑠璃唐草の模様が施され、薄くて軽い。

 手を付けるのが勿体ない亜莉香の隣で、ネモフィルは寒天に添えられていた楊枝を手に取った。慣れた手つきで一口に切り分けて、遠慮なく口に運ぶ。


「うん。美味しい。アリカも食べたら?」

「食べたら、すぐに帰ってくれ」

「急がなくていいですよ」


 温度差のあるツユとカイリの言葉を聞いてから、ぎこちなく笑って亜莉香も寒天を一口食べた。寒天の歯ごたえがあり、仄かな甘みが口の中に広がる。

 ほっと肩の力を抜き、頬が緩んで思わず呟く。


「美味しいです」

「良かった。他のお茶菓子も用意しましょうか?」

「いいわね。折角だから、ウルカとセイハも呼んで来る?」

「やめてくれ」


 本気で嫌がっているツユに、冗談よ、とネモフィルが意地悪な笑みを浮かべた。もう一口寒天を食べてから、そう言えば、と軽く話し出す。


「ツユ坊の具合はどう?身体に異常はない?」

「…特には、な」

「なら良かったわ。ここにいるアリカに、きちんとお礼を言いなさいよ。わざわざガランスから来て、貴方の命の恩人でもあるからね」


 きちんと、を強調したネモフィルに、余計なことは言わなくていいと言いたかった。助けたのではなく、巻き込んでしまった方が正しい。あの場で人質の立場にされたのは、きっと近くにいたからという理由だけ。他の人だった可能性もあるわけで、ツユにお礼を言われる必要はない。

 正座をしている膝の上に両手を置くと、藍色の瞳と目が合った。

 何か言われる前に、亜莉香が先に口を開く。


「私は特に何もしていませんので、お気になさらないで下さい」

「そういうわけにはいかないだろう」

「それなら、何もなかったことにして下さい」


 少しだけ怪訝な表情を浮かべたツユに、心を込めて言う。


「誰にも、あの時のことは知られたくないのです。あの時の私が何をしたのか、何を言ったのか。友人にも話したくないので」

「誰にだって、一つや二つ隠したいことはあるものね」


 付け足すようにネモフィルが言えば、ツユは何かを察してくれた。分かった、と言って、亜莉香から視線を逸らした後に、煎茶で喉を潤す。

 成り行きを見守っていたカイリはツユの横顔を盗み見て、亜莉香に微笑んだ。


「夜会の時はご挨拶を出来なかったけど、シンヤ様のご友人のアリカ様ですよね?」

「はい。あの、挨拶もしないで、申し訳ありませんでした」

「初対面ではないのだし、我が家の中で畏まられないで。ネモ様と一緒にいらしたから驚きはしたけど、もう一度お話しできて良かったです」


 優しいカイリの声に、咄嗟に下げた頭を亜莉香は元に戻した。

 年上であるにもかかわらず、柔らかい物腰で敬語を崩さない。貴婦人に相応しい振る舞いで接するカイリに、ネモフィルは気軽に話しかける。


「今日はこの後、客の見送りをするのだっけ?」

「ええ、もう少ししたら。遠方のお客様からお帰りになりますので、例年通りお見送りに行かないといけませんね」

「だから帰れと言っただろ」


 ネモフィルに対しては強気なツユに、カイリが微かに笑う。


「でも、ネモ様がいらっしゃると家の中が明るくなりませんか?」

「五月蠅くなる、の間違いだ」

「あらあら、そんなことを言っていいの。私を敵に回すと、痛い目を見るわよ」


 楊枝の先端を向けられ、悪者が言いそうな台詞に、ツユが口角を引きつらせた。口元を隠して笑うカイリは嬉しそうで、笑みを絶やさない。

 にっこりと笑ったネモフィルは楊枝を下げて、寒天を切り分けながら言う。


「まあ。痛い目に遭わせるのは今度にして。今日は想涙花の様子を見に来ただけよ。もう一つの苗床が駄目になって、こっちは無事だと確認したかったの」

「今日も綺麗に咲いていましたよ」


 ツユの代わりにカイリが答えて、ネモフィルは寒天を口に運んだ。


「なら、帰りに池の中を見て帰るわ。一部は貰って行くわね。他の苗床を探したいから。もしこっちで想涙花に変化があったら、必ず私に教えて」


 はい、と頷いたのはカイリで、話を聞いていたツユが眉間に皺を寄せて問う。


「そのために、わざわざ来たのか?」

「そうよ」

「警備隊や結界はどうした?」

「私が一緒なのに、それが通じるはずないじゃない。いつも通り裏口から入って来たわよ」


 愉快なネモフィルの受け答えに、ツユが片肘をテーブルにつけた。頭が痛そうに左手を額に当て、いい加減にしろと言わんばかりの瞳を向ける。


「門の方には、お前が来たら通すように言ってある。と、何度も言っただろうが」

「面倒じゃない。裏口の方が早くて、誰にも迷惑をかけない」

「急に来られる方が迷惑だと言っている」

「私は迷惑と思っていませんので、好きな時にいらして下さいね」


 ツユを裏切ったカイリに、ネモフィルは微笑んだ。

 いつも急に現れるネモフィルに、振り回されるツユを憐れむ人は亜莉香以外いない。人にしか見えないが精霊で自由なネモフィルとカイリの仲は良くて、ツユだけが除け者状態にされがちだ。

 両手でグラスを持ち、黙って三人を観察していると、亜莉香はカイリと目が合った。

 それで、と前置きして、胸の前で両手を合わせたカイリが話し出す。


「アリカ様と隣の部屋の彼が、どういう関係なのか。そろそろ伺ってもよろしいですか?」

「…どういう?」


 何かを期待している瞳に、何を言えばいいか分からなかった。

 何故か、お茶を飲もうとしていたネモフィルが吹き出した。

 隣の部屋の彼と言われれば、襖を挟んで隣の部屋の隅で、座ったまま寝ていた透の姿が脳裏に浮かぶ。絶対に起きないから、とネモフィルに言われるまでツユが見張っていて、本人は寝息を立てて気持ちよさそうに眠っていた。

 亜莉香が声をかけても起きなくて、叩き起こして話をするのは早々に諦めた。起きたら水鏡を通じて話せばいいとネモフィルに言われて、今に至る。

 口元を拭ったネモフィルは、咳き込みながら会話に混ざる。


「あのねえ。恋愛小説のような期待している関係じゃないわよ」

「シンヤ殿にも言われたのに、まだ妄想していたのか」

「も、妄想だなんて…して、いませんよ?」


 呆れたネモフィルとツユに言われて、カイリの声は段々と声が小さくなった。心なしか頬を赤らめて、あからさまに目を泳がせる。

 どんな妄想をしていたのか。訊ねる前に、ネモフィルが亜莉香を振り返った。


「実はアリカは王族の血を引いていて、シンヤとトシヤに挟まれた泥沼の三角関係の中、新たな相手役が出現」

「ネモ様…そ、それくらいで」

「新たな相手は生き別れの血の繋がらない兄。身分違いの相手と、幼馴染の騎士の三人から求婚される主人公は誰を選ぶのか、とか言うあらすじの主人公にアリカを重ねていたのよ。確か、本の名前は――」

「月の乙女の恋物語、ですか?」


 すらっと口から出た書名に、ネモフィルとツユが同時に驚いた。瞳を輝かせたカイリが亜莉香を見て、テーブルに両手を置き、身を乗り出す勢いで迫る。


「もしかして、お読みになりましたか?」

「えっと…はい」

「全部、ですか?」


 あまりの近さに瞬きを繰り返して、全三十巻あった本を思い出した。

 途中で挫ける人がいると噂には聞いていた小説は、ルカに軽く紹介されて興味本位で読み始めた。話は長いし、登場人物は多い。外伝が本編とは別にあり、最後まで読む人は少ないとも言われたが、読み始めたら面白くて全て読んだ。


「全部、ですね」

「外伝も?」

「はい。一応読んだのですが、よく行く図書館には数冊無くて。外伝を入れたら、全部とは言えないのですが――」

「お貸しします!」


 途中で遮られて、今日一番の深い海色の瞳の輝きを見た。

 グラスを持っていた両手を掴まれて、反射的に身を引こうとしたのが遅れた。カイリの勢いに押されつつ、亜莉香は戸惑いながら訊ねる。


「その、ご迷惑ではありませんか?」

「そんなことありません!本編では詳しく語られなかった兄の過去。主人公の親友の恋物語。最終回でようやく結ばれた主人公と騎士の後日談などありますが、全部持っていますので、どれでもお貸し出来ます。どの外伝でしょうか?」

「その三冊を読んでないです。私が読んだのは身分違いの彼の幼い頃の話と、学生時代の友人の初恋の話だけで、残り三冊は探しても見つけられなかったので」


 正直に答えれば、カイリの手に力がこもった。


「是非、読んでください!特に後日談は私のお勧めです。中盤の主人公と騎士のすれ違い、凄くどきどきしませんでしたか?」

「しました。あのまま一生、二人が会えなくなるのかと思ったくらいです」

「ですよね!身分違いの彼がぐいぐい迫って、兄も親身になって支えてくれて。三人共それぞれ魅力的だけど、やっぱり騎士の彼が一番で!」

「主人公が別れを告げた後半で、追いかけて来てくれた時には泣きそうになりましたね」


 語り出したカイリにつられて、亜莉香も声を上げていた。

 おかしな状況になったと亜莉香とカイリを見比べたツユと、本能的に口を固く閉ざしたネモフィル。カイリの声は止まらない。


「私もあの場面が好きです!寝る間も惜しんで読み進めて、何度も読み返しました。主人公の危機には、絶対に助けに来てくれる騎士が一番だけど、残りの二人も脇役達も個性があって、それぞれ必死に生きていて」

「主人公の背中を押してくれる親友、凄く格好良かったですよね?」

「勿論です!脇役と言えば、出番の少なかった騎士の友人の彼も気になっていて――」

「…これ、いつまで続くのかしら」


 小さく零したネモフィルが、そっと寒天を口に運んだ。白熱していくカイリに、亜莉香は話を合わせる。楽しい会話が飛び交えば、困った表情を浮かべていたツユのことなど知る由もなかった。

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