47-2
身支度を整え、置き手紙を残した。
襖の隙間から覗いた和室では、布団で顔を半分以上隠したトシヤと、枕に顔を押し付けたルイが熟睡していた。全く起きる気配がなく、置き手紙はルカの枕元に置いた。玄関から出ようとして、草履を取りに行く。ネモフィルに鍵をかけるのを頼もうと縁側に戻れば、ここから出ればいいと言われた。
今度こそネモフィルの右手に触れて、縁側から外に出る。
警備隊の目をかいくぐり、誰にも見つからないように移動する。ネモフィルは心底楽しそうに案内して、時には水の魔法で雨を降らして視線の先を変え、時には亜莉香を置いてわざと音を立てた。
辿り着いたのは、竹林の中に隠されていた平屋建ての屋敷。
竹林から覗く屋敷はひっそりと静まり返って、竹垣に囲まれていた。瓦屋根と格子が特徴的な門はガランスでも見覚えがあり、門の前に警備隊が控えている。竹垣の角にも警備隊がいて、非常に厳重に守られた場所だと誰でも分かるはずだ。
「本当に、この中に入るのですか?」
「当たり前じゃない。リリアも透も、この中よ。折角来たのに今更帰りたくなったの?」
「そうではなくて、この状況でどうやって入ればいいのかと」
竹に身を隠し、亜莉香は顔を覗かせる。傍にいるネモフィルは堂々とした態度で、竹に背を預けたまま視線を屋敷に向けた。
「これくらい、どうってことないじゃない」
「よく見れば結界まで張ってあるのに、ですか?」
「あら、気が付いた?」
流石ね、とネモフィルが微笑んだ。
褒められて悪い気はしないが、目の前の難題に対する回答を得ていない。結界なら通り抜けられる気がしたが、人の目を欺く魔法を亜莉香は知らない。
何を言えばいいのか、眉間に皺を寄せた。
小さな笑い声が聞こえて、ネモフィルを見る。
「何か、おかしかったですか?」
「いいえ。あんまり苛めるのは可哀想だと思っただけ。心配しなくても、真正面から入るつもりはないわ。私だって、人に姿を見せるのは気を遣うのよ」
背を預けるのをやめたネモフィルは、来た道を戻るように屋敷と反対側に歩き出す。
「道はこっち。裏口から行きましょう」
「裏口で行くのなら、最初からそっちを目指せば良かったのでは?」
置いていかれないように後を追いながら、亜莉香は言った。
何故か竹林の中をぐるぐる回るように、進んだかと思うと急に方向が変わる。同じ場所を行ったり来たりして、急に立ち止まったりもする。
不思議に思いながらも背中を追えば、世間話をするようにネモフィルが軽く問う。
「アリカは、よく狭間に行くの?」
「いえ。ガランスにいる時は知らないうちに迷い込んだこともありますが、基本的には行きません。何故ですか?」
「狭間の中でも平然としているから、普段も渡っているのかと思ったのよ」
渡る、の単語が頭の中に残った。
意味を質問する前に、何かを探しているネモフィルは話し出す。
「狭間との波長が合う人間はね、時々いるのよ。そう言う人間は狭間が近くにあると何か感じて、道に迷うことなく上手く渡る。アリカも、それが出来るかと思ったの」
「狭間を渡るとは、自由に狭間を行き来することでしょうか?」
説明に耳を傾けて、亜莉香は確認した。
ネモフィルが立ち止まって、竹と竹の間に顔を寄せる。首を左右に動かすと、ここじゃない、と呟いてから振り返った。困った顔をして、唸り声を出す。
「ちょっと、違うかしら?」
「どういうことですか?」
「そもそも狭間とは、不安定な川のようなものなの」
何もない空間に右手の人差し指を出すと、ネモフィルは大きめの円を描いた。
魔法による青い光を放ちながら、水が生まれて循環する。ゆっくりと流れる川を作り上げて、その上に一粒の氷を浮かべた。
「常に揺れ動く狭間では気を抜けば流されてしまうし、道を見失えば出られなくなる。けど狭間を渡れる人間は川のような狭間で、船に乗って自分の望む別の場所へ行けてしまう」
流れていた氷の粒が小さな筏の形になった。舵がなければ、風もないのに動き出し、流れに逆らって漂う。
「ちょっと狭間を出入りするとは、訳が違うの。狭間と波長が合うから、上手に波を読み取って渡る。自由に行き来すると言うより、狭間と言う大きな川を渡れる人だと、私は言いたいのだけど…分かったかしら?」
「多分、分かったと思います」
自信なくも言えば、ネモフィルは安心したように息を吐いた。
「影渡り、と言って通じるなら、話が早いのだけどね。今ではもう、その呼び名を名乗る人間はいないから」
「影を渡る、と書きますか?」
「そうよ。書いて字の如くでしょ」
にやっと笑ったネモフィルが、亜莉香の後ろの竹林に何かを見つけた。あった、と小さく零したかと思うと、瞳を輝かせて、そそくさと移動する。
振り返った先にあるのは、竹と竹の間の闇。
それは影のようでもあり、時折揺らめいて見えた。
普通の影ではなく、その闇を抜ければ空間が変わる。何度か目にしたことのある狭間への道は、日中では比較的見やすい。
道を見つけたネモフィルは顔を覗き込み、中を確認して独り言のように言う。
「問題なく、裏口に行けそうね」
「その狭間から、ですか?」
「勿論。狭間を通るのは、精霊である私の特権よね」
うふふ、と左手で口元を隠して笑うネモフィルと目が合った。瞳には悪戯を仕掛ける子供のような無邪気さがあり、悪気は一切ない。
いいのかな、と言いたい気持ちを呑み込んで、ふと気になったことを訊ねる。
「精霊は誰でも、自由に狭間を渡れるのですか?」
「精霊は渡るとは言わないわ。人と違って流されることも、道を見失うこともない。ただの通り道の感覚で、光に引き寄せられて浮かんでいるうちに、必ず外には出られるの。まあ、出口を間違えることはあるけどね」
狭間に入ろうとしていたネモフィルが、首だけ亜莉香に向けた。
「フルーヴだって、狭間の中ではどこに出口があるか分かっていたでしょう?」
「確かに、分かっていましたね」
「こっち、というのを何となく感じるのよ。もし狭間で帰れなくなったら、精霊に案内して貰えばいいと覚えておきなさい」
「そんなに簡単に、狭間で精霊を見つけられますか?」
「貴女なら呼べば駆けて来る小兎が、一匹や二匹いるじゃない」
即座に思い浮かんだ小兎二匹に、亜莉香は思わず口元を押さえて笑った。
呼ばなくても付いて来てくれるか、見つけてくれる。いつだって心強い味方である精霊に感謝して、手招きしたネモフィルと一緒に狭間に入る。
出口は入ってすぐで、ほんの数分後には外に出た。
外に出たはいいが、そこは木の上。太い枝に乗った状態だと気が付いた途端に、咄嗟に幹にしがみつき、数メートルの高さに小さな悲鳴が上がった。
精霊であるネモフィルは宙を歩けても、亜莉香には無理だ。
悲鳴を聞いて振り返ったネモフィルが、青白い顔の亜莉香を確認して瞬きをした。
「空中歩行、出来なかったのね」
「普通は出来ません」
「ごめんなさい。透はどんな状況でも氷を張って足場を作るから、それを当たり前だと勘違いしていたわ。ちょっと待って」
右手を唇に当てたネモフィルが、指の隙間から息を吐いた。
瞬く間に足元に現れたのは、魔法の氷の階段。直線の階段は真っ直ぐに地面に向かっているが、手摺もなければ幅も一人分しかない。
亜莉香の元に戻って来たネモフィルの手を借りて、滑り落ちないように足を踏み出す。太陽の光を反射するほど、氷の階段は透明で綺麗。十何段の氷の階段を下りて、安心して座り込んだ。
一気に疲労を感じて、顔を上げられない。
心配して見下ろすネモフィルを見られないまま、亜莉香は言う。
「狭間って、どこにでも道が繋がっているのですね」
「そうなのよね。だいたいは同じ場所だけど、それが常に同じとは言えないし、急に現れたり消えたりすることもある。でも良かったわ、今回はしっかりした枝の上で」
しみじみとした声に顔を上げ、口角が引きつった。腕を組んで傍に立っていたネモフィルは、亜莉香がどれほど焦ったか分かっていない。
「しっかりした枝の上じゃなかったら、私は落ちていましたよね?」
「その前に、私が手を貸したわよ。もしも落ちても、この高さなら即死は免れたでしょう?怪我をしたならフルーヴを呼び出せばいいし――」
「この話、これくらいでやめましょうか」
ぼそっと呟いた亜莉香に、ネモフィルは不思議そうに首を傾げて話をやめた。
魔法や精霊の存在で、どんなことで何とかなってしまう。それは有難いが、想定外の出来事はいつだって驚く。
きっと感覚が麻痺してきた。
ここ数日の予想外の一つだと思えば、幾分か落ち着ける。
亜莉香は立ち上がって、辺りを見渡した。
木の上から地面に下りれば、すぐ近くには竹垣。竹垣の傍に植えられた木々は青々とした葉で覆い茂っている。竹垣とは反対側は木造平屋建ての見覚えがある外壁で、その距離は数メートル。
屋敷の敷地に移動したと認識して、亜莉香は問う。
「ここは、どこですか?」
「正真正銘、屋敷の裏よ。警備隊が守っている門が唯一の出入口とされているけど、私が見つけた特別な裏口が狭間の道なの」
なんてことなく言った言葉に、ふと疑問が芽生える。
「狭間を通れば、誰でも屋敷の中に入れるのですか?」
「うーん…そうじゃないのよね」
なんて説明しようか迷って、ネモフィルは一呼吸を置いた。
「結界の中の狭間は、ちょっと複雑になるの。本来なら、狭間の出入りは自由よ。ただ、この屋敷には何重という結界が貼り巡られている。その結界のせいで、他の精霊でも人でも狭間から入ろうとすれば弾かれる。私はそれを許可された身だからこそ、狭間を通って中に入っているから――裏口は私だけの特権と言えるわね」
「ネモがいれば、裏口を利用出来ると?」
「この屋敷の場合は、一応ね。私が一緒なら、透だってウルカだって、ツユ坊だって。狭間で迷わず、誰にもばれずに外に出て帰って来られるわ」
足取り軽く歩き出したネモフィルに続いて、亜莉香も足を踏み出した。
今挙げた三人は、確実に一度は狭間を通って外に出たに違いない。よく会話に出て来る透以外の二人を思い浮かべて、ネモフィルが姿を見せているのは誰なのか考えた。
瑠璃唐草の家紋を背負っているのは、二人だけの話じゃない。
どこまで姿を見せているのか訊ねようとする前に、外壁の角まで進んで足が止まった。
「ちょっと、待ってね。人がいないか念入りに確認するから」
背中を向けたまま、ネモフィルが角の先の様子を覗き込む。
後ろ姿だけ見れば怪しく見えた。何もしない亜莉香は暇で、ぼんやりと空を見上げる。晴れた空を鳥が飛んで行き、ちらほらと精霊が風に流されていた。
午後にはセレストを旅立つことを考えると、実感が湧かない。
あっという間に、時間が流れた。
ガランスを出てすぐにトシヤと気まずくなったのが、遠い昔のことのようだ。ルカとルイが喧嘩したり、孤児院で語り部であるメルから話を聞いたり。ウルカとお茶をしたり、透を迎えに行ったり。目まぐるしい数日は、セレストに来てこその体験だった。
名前を呼ばれて、我に返る。
亜莉香を見ていたネモフィルが、不思議そうに首を傾げた。
「どうかした?」
「いえ――何でもありません」
微笑みながら言えば、あまり気にせずネモフィルが言う。
「それなら、こっちへ来てくれる?」
何だろう、と思いながら、亜莉香はネモフィルの隣に移動した。




