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こんこん、と窓ガラスを叩く音が聞こえた。
ゆっくりと起き上がれば、縁側と和室の境にある障子に人影が見える。朝日が昇り、部屋の外は明るい。日中は横三つに分かれて真ん中がガラスの障子を、今だけは移動式の障子で隠して部屋の中を薄暗くしていた。
寝室の大きなベッドの上、亜莉香の隣には静かな寝息を立ててルカが寝ている。
亜莉香とルカの間には兎姿のフルーヴが丸まっていて、布団の中に隠れて見えない。動かないのでフルーヴも寝ているはずだと思えば、遠慮がちな音がもう一度聞こえた。
その人影から、誰か来たのか予想してベッドから下りる。
窓際に寝ていたので、ほんの数歩で障子に辿り着き、数センチだけ開けた。
顔を覗かせて、眩しい朝日に目を細める。目が合ったのは青いサファイアの瞳で、縁側を挟んでガラス戸の外にいた。見えない地面があるようだ。強めに叩こうとしていた手が止まり、亜莉香に優しく微笑む。
「おはよう。よく眠れた?」
「おはようございます。まあまあ、ですかね」
答えながら縁側に出て、笑みを浮かべた亜莉香はガラス戸を開けた。
朝の風が髪を撫で、髪飾りを付けていない髪を押さえる。ガラス戸を開けると、鳥の音や葉の揺れる音がした。太陽が空に昇り、光が差す場所もあれば影がある場所もある。
昨日のことが夢のような、平穏な朝の始まり。
ネモフィルがガラス戸に背を預けるように立って、縁側から見える景色を眺める。
「気持ちのいい朝ね」
「そうですね。朝になりましたね」
しみじみと言って、昨日のことを思い返す。
鈴は破壊した。
振り下ろした日本刀によって、二つに割れた。鈴を壊した直後は放心状態となり、亜莉香が座り込んでいる間に、ヒナは透に薬を放り投げて姿を消した。ヒナがいなくなれば霧が薄まり、駆け寄ったトシヤに名前を呼ばれるまで動けなかった。
いつの間にか日本刀は手の中から消えて、右手首の偽物の王冠だけが残った。
あまりにも悲しくて、何も言えなかった。
ただただ涙が止まらず、その後は流されるままにエトワル・ラックに背を向けた。お面を付け直した透や毒で苦しんでいたツユを置いて、何も考えず亜莉香は部屋に戻った。
途中でネモフィルは姿を隠して、何をしていたのか知らない。
機嫌の良い横顔に、そっと問いかける。
「透は?」
「今は寝ているわ。ツユに命令された警備隊に見張られながら、ツユの自室の隅で座ったまま寝ているの」
可笑しそうに笑って、ネモフィルは続ける。
「周りには、お面を付けている怪しい人間と認識されているみたい。一応ツユの信頼を取り戻して、ひとまず体力と魔力を取り戻すために休息中。あれだけ魔法を使ったのに、寝ているだけで回復しちゃうのよ」
しぶといわ、と馬鹿にするように付け足した。言葉とは裏腹に嬉しそうなネモフィルを見て、亜莉香まで嬉しくなる。
空を見上げれば鳥が飛び、どこまでも自由な空を瞳に映す。
ネモフィルも空を見て、明るく話す。
「ツユもウルカも無事よ。ヒナ、だっけ?よく調べたら、あの毒はそこまで危険な毒じゃなかった。薬は本物で、数時間休めば元気になる。ウルカは魔力を使い過ぎて、暫くは安静にしていないとだけど。運よく警備隊に死者が出なかった」
「それは良かったです」
「リリアも、ようやく自由になったのよ」
軽いネモフィルの声に、一瞬だけ返事に迷った。
「…そうですか」
「貴女が気に病む必要はない。確かにリリアが住んでいた家は失われ、帰る場所を失くしたかもしれない。けど、貴女は私の願いを叶えてくれた。透を呼び戻して、リリアを助け出してくれた。それは紛れもない事実よ。心から、感謝している」
心を見透かされて、寝間着の着物を両手で握った。唇を噛みしめて、零れそうになる涙を耐える。ネモフィルと目を合わせないで、明後日の方向を向いて鼻をすすった。
「私の選択は、正しかったのでしょうか?」
「それを決めるのは、私じゃないわ」
諭すように、ネモフィルが言った。
「現実は時に残酷で、何かを得るために何かを失うのは当たり前の話。それでも自分の心を、正しさを決めるのは貴女自身よ。貴女はリリアの居場所を奪ったと考えているようだけど、それすら貴女の勝手な思い込みかもしれない。他人に自分の気持ちを押し付けては駄目よ。貴女が思っているよりリリアは強く、全てを受け入れる覚悟があった」
だから、とネモフィルが一息ついた。一歩前に出たかと思うと、くるりと振り返り、目が合った亜莉香に右手を差し出す。
「今から、会いに行きましょう!」
「今から、ですか?」
突然の提案に驚いて、亜莉香は瞬きを繰り返した。
「そうよ。私が何か言うより、本人と直接話をした方がいいでしょ?他人の気持ちなんて、目に見えなくて厄介な代物なのだから」
「でも、リリアさんも今は休んでいるのでは――」
「大丈夫よ。暇をしているのを確認してから、私はここに来たの。貴女が起きていたら、連れて来ると約束したわ。これは決定事項。リリアは今、警備隊に見張られている。だから精霊である私が、誰にも見つからないように案内してあげる」
自信満々なモフィルの言い分は分からなくもないが、亜莉香は自分自身を見下ろした。
さっきまで横になっていて、寝間着姿では外に出たくない。髪はぼさぼさ、顔を洗ってもいなくて、ゆっくりと後ろを振り返った。
寝室からも和室からも物音はしないが、何も言わずにいなくなるのは良くない。
昨晩の件は何も話していなくて、これ以上心配をかけるような真似はしたくない。
少し考えてからネモフィルに向き直り、遠慮がちに訊ねる。
「あの、少しだけ準備をする時間を頂いても?」
「構わないわ。あまり時間をかけないでね」
差し出していた右手を振ったネモフィルに、頷いた亜莉香は急ぎ足で部屋に戻った。




