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咄嗟に右手首の王冠を護るように、亜莉香は左手で王冠に触れた。
手首に収まっている金の王冠は、小さくも存在感がある。様々な美しい花の模様が施されて、埋め込まれている大きな宝石は三つ。 真っ赤なルビーと青いサファイア、そして緑のペリドット。
サファイアに指先が触れると、温かみを感じた。
折角見つけた王冠を手渡さなければ、ヒナは容赦なく薬の小瓶を割る。ツユは助からない。頭では分かっていても、実際に行うことに身体が拒む。
目を逸らさずに唇を噛みしめると、首を傾げたヒナが言う。
「勘違いしているみたいだけど、私が欲しいのは左手の物よ」
「左手…?」
注がれた視線に、亜莉香も視線を落とした。
微かな鈴の音が呼んで、ぼろぼろの真っ白なリボンを目に映す。剥げてしまった金の装飾の鈴と、月の光を吸収して光って見えた王冠を見比べてから、間抜けな顔でヒナを見た。
「えっと…王冠じゃなくて、ですか?」
「そんな偽物、要らないわよ」
「「偽物!?」」
一部始終を見ていた透とネモフィルの声が重なって、その場に響いた。呆然とした亜莉香を置いて、騒がしい声が飛び交う。
「本物じゃないのかよ!」
「そんなはずないわ!それはリリアの家にあったのよ!」
「それに見た目はそっくりだぞ!」
「本物とか、偽物とか!貴女が分かるなんて、信じられるわけがないじゃない!」
「…そこまで言うなら、自分達で確かめなさいよ」
呆れた声が混じったヒナの言い分で、透は勢いよく亜莉香を振り返った。思わず身を引く前に、右手を掴まれて身動きが取れなくなる。
ヒナとネモフィルの視線を集めて、透が真剣な顔を王冠に寄せた。
沈黙が恐ろしくて、遠慮がちに訊ねる。
「…どう?」
「よく見たら、本物ではない」
「嘘でしょう!?」
悲鳴のような声を上げたネモフィルに対して、ヒナが日本刀の向きを変えて言う。
「少し貴女は黙っていなさい」
「そんなことを言われる筋合いは――」
「黙れ」
冷たく低い声に、ネモフィルが息を止めて口を閉ざした。
口出しをするなと、睨みつけて醸し出す雰囲気は恐ろしい。それを唯一気にしないのが透で、亜莉香の手を離すと、右手に日本刀を持ったまま頭を掻く。
「鈴を渡せば、代わりに薬をくれるのか?」
「そうよ」
ヒナが即答して、身体の向きを変えた。
「私はそれを破壊したい。その鈴が何か、貴方には分かっているようね」
「リリアの家を護っていた鍵だろ?」
当たり前のように答えた透に、ヒナが頷く。
「その鍵が無くなれば、あの地は闇に落ちて、いずれ消えるわ。永遠に誰も、あの地を訪れることはない。あの場所は力を集め過ぎた」
「まあ、それは分からなくもない。あれだけ長い時間、魔力を溜めていたんだ。けど、破壊する必要があるか?あのままでも問題はないだろ?」
「もうすでに、均等は崩れ始めているのよ」
透とヒナにしか分からない会話に、亜莉香は置いていかれた。聞いていることしか出来なければ、一瞬だけヒナは亜莉香を見て、話を続けた。
「闇は光を求め続ける。中途半端な力が溢れ出て誰かが辿り着くより、闇に落として少しでも早く消えるように仕向けた方がいい。このままだと…誰が力を得るか分からない」
「その誰かが、同じ相手だと恐ろしい話だな」
答えようとしたヒナは、一度口を閉ざした。ため息をついて、肩の力を抜く。
「今のまま何もしないよりは、ましな解決策でしょ。均等はもう、何をしたって元には戻せないのだから」
「お前、悪い奴じゃないのか?」
突拍子もない透の質問に、ヒナが僅かに目を細めた。
「そんな話していない」
「そうだけどさ。わざわざ王冠が偽物だって教えてくれて、鈴を破壊するのは誰かに力を与えさせないためだろ?その誰かが俺が考えている奴と同じなら、敵は一緒で仲間みたいなものだろ?」
呑気な発言に、闇を纏ったヒナが日本刀を構え直した。敵意はないと言わんばかりに、まあまあ、と話しかけながら、透は手にしていた日本刀を見下ろした。
「言う通りにはするから、一つ提案させてくれよ」
「提案?」
「鈴を破壊するのは、俺でもいいだろ?」
話を理解していないのは、眉をひそめたヒナだけじゃなくて、亜莉香も同じだった。何を言い出すのかと、顔を上げた透を見つめて話を聞く。
「鍵である鈴は特別製で、そう簡単に破壊できるとは思えない。俺なら組み込められた魔法を読み取って、確実に破壊出来る」
「それでも構わない」
「ま、待って!」
どんどん話が進んで行きそうで、咄嗟に亜莉香は口を挟んだ。今度は王冠ではなく鈴を護るように右手で握りしめて、透から一歩離れて距離を取る。
平然としている透の顔を伺って、本当に、と声が掠れた。
「それでいいの?あの場所にはリリアさんの家があって、千年前から守られていた場所で、透にとっても凄く…凄く、大切な場所じゃないの?」
「それでも、鈴の破壊は絶対だ。亜莉香は反対なのか?悪いけど、亜莉香から鈴を奪ってでも破壊する。ツユのためにも、な」
付け加えられた後半の言葉に、胸が抉られた気がした。両手を胸に寄せて、そうじゃない、と否定する言葉を言わせず、透が困った顔を浮かべる。
「勝手をしてリリアに怒られるのは慣れているから、亜莉香が心配することはない。これは、俺の意思だ」
「ちょっと、話し合いは手短に済ませてよ」
「分かっている。亜莉香、一から説明している暇もないだろ?鈴を渡してくれ」
見るからに不機嫌な顔になったヒナに言い、透は左手を差し出した。その手を見て、亜莉香はもう一歩下がって、首を横に振る。
「私は…そんな簡単に、承諾出来ない」
「それでもいい。だから鈴を俺に――」
「鈴を見つけたのは、私だよ」
言いながら悲しくなって、無理やり笑おうとしたが無理だった。涙を耐えて顔を上げて、戸惑う透の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「その鈴がリリアさんの家を護っていた鍵なら、開けたのは私。その結果で鈴を破壊しないといけないなら、最後まで責任を持つべきは私じゃないの?」
「亜莉香…」
「鈴を破壊しないと、ツユさんを助けられない。そのために破壊しないといけないと、ちゃんと分かっている。分かっているからこそ、私が壊さなきゃ。リリアさんに怒られたとしても、透が無理やり奪おうとしても――これは、私が招いた結果でしょ?」
微かに視線を下げた透は、左手を下げて開いていた口を閉ざした。手にしていた日本刀を鞘に戻したヒナを見れば、どちらでも構わないと言わんばかりに肩を竦めて見せる。
「選ぶのは私じゃない」
「分かっています。破壊すれば薬を渡して頂けますね」
恐れることなく問いかけると、ヒナは微笑んで言う。
「いいわ。鍵さえ破壊されれば、私の目的は果たされる。けど、あまり時間をかけない方がそこの彼のためよ。薬があるとはいえ、時間が経てば後遺症が残るから」
それと、と一呼吸を置き、腕を組んで透を見た。
「破壊する武器なら、その刀が最適よ。鍵を作った人間が緋の護人であるなら尚更、ね」
忠告と助言を受け止め、亜莉香は透に向き直る。ヒナの言いたいことを十分に理解している透が眉間に皺を寄せて、あからさまにため息をついた。
「俺に譲る気はないのか」
「…ごめん」
「謝るなよ。ほら、使えよ」
差し出された日本刀を受け取ると、それは微かに温かさを宿していた。埋め込まれたサファイアが淡く輝き、対応するように右手首の王冠のサファイアも輝いた。その輝きは瞬きすれば消えて、左手のリボンを外した。
数歩前に出て、白いリボンごと鈴を水の上に置いた。
リボンは漂い、水に沈んだ鈴が氷の表面で止まった。
鈴の前に立ち刃先を向ければ、水面から白く淡い光が浮かび上がり、儚い文字となる。
言葉を紡ぎ出せば、もう戻れない。鈴は破壊されて、リリアの帰る場所を奪うことになる。それでも、と揺るぎない意思を心に刻む。
選んでここまで来たのは、間違いなく自分自身だ。
後悔はもうしている。でも引き返すつもりはない。深呼吸をして、瞳を閉じた。
「私は私の…心のままに」
浮かび上がった文字ではなく、心に浮かんだ言葉を口にした。
覚悟を決めて、両手で日本刀を握る。何が起こっても大丈夫なように身構えて、光の文字を静かに読み上げる。
「【――幾星霜の時を経て】」
水面に光の線が走って、一瞬で瑠璃唐草の紋章が広がった。咲き誇る花の中心に亜莉香がいて、中心から外側にかけて白から青だった色が変わる。
まるで近くに誰もいないような、周りは静かで声がしない。
日本刀も光り輝き、光が満ちて言葉を重ねる。
「【汝の役目は果たされた】」
微かな鈴の音がした。亜莉香の声に答えて、鈴を逃がさないように周りの水が包み込む。淡く青い光を帯びた無色透明な水は、大きなシャボン玉。刃先を上げると、見えない何かと繋がっているようで、付かず離れずの距離を保って舞い上がる。
ふわふわと、鈴は宙に浮いている。
鈴の背後に浮かぶ光の文字を見て、涙が瞳を濡らして頬を伝った。
「【誓いは泡沫の夢と消え、秘密は永遠に閉ざされる】」
消えてしまう、と思った。金の鈴と一緒に大切な場所が、その場所で起こった出来事が、何もかもが消えてしまう気がして、悲しくて仕方がなかった。
大切だと思うほど、思い入れのある場所じゃない。
思い出なんてない。
果たす誓いも、暴く秘密もない。
鈴を壊せば、あの場所は闇に溶けて消えしまう。取り返しのつかないことをすると、分かっている。本当は何もかも逃げ出したいのが本音だけど、無理やり感情を抑え込む。
リリアの居場所を奪う。
頭を過ぎった考えに、涙で文字が霞んだ。声が震えないように、小さく息を吸う。
「【誓いに祈りを、秘密に感謝を。終わりを告げる今この時に、我は祝福を与えよう。汝の想いが届くよう。汝の望みが叶うよう。我が名の――】」
声が小さくなりながら、日本刀を掲げて狙いを定めた。
鈴は動かない。全てを受け入れ、破壊されるのを待っている。日本刀を振り落とすと同時に、最後の言葉を紡げば終わる。
終わらせるため以外の選択肢は、この場にない。
止められない涙を拭う術もなく、手に力を込めた。
「【亜莉香の名の元で】」




