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驚いてしゃがんで、恐る恐る亜莉香は振り返った。
湖の中心にあったはずの霧が薄くなり、蹲っている人影が数人見える。霧を切り裂いた人物は日本刀を振り上げた後で、軽々と脇に払い、目の前の誰かを見ていた。
間違いなく日本刀を手にしているのは透で、目の前にいるのは血まみれの少女の形だ。
ウルカの姿を認識した警備隊が声を上げた。その傍に駆け寄ろうとするも湖の表面は暗く波打ち、誰もが足を踏み出せない。誰か中心まで行ける人間はいないか、声が飛び交う間に、中心から僅かに淡く水色の光が広がって見えた。
それは蕾だった花が咲き開くように波打った。
数センチの水面を残して、湖の中が凍りつく。
ウルカの氷とは違い、表面の水を残した透の魔法。澄んだ透明な湖をそのまま凍らせて、表面の水が夜空の星々を反射して幻想的な光景を作り出す。
ほんの数秒で状況を変えてしまう魔法の凄さに、呆気に取られて亜莉香は言葉を失う。
強度は分からないが、氷が張ったことに誰も気が付かないほど静かな魔法だった。透の魔法で湖が凍ったのなら、どれだけの人が乗っても平気ではないかとも思えた。
立ち上がろうとすればトシヤが駆け寄って、身体を支えてくれた。
隣にルイが並んで、険しい顔で湖の中心を見据える。
「アリカさん。どうしてこの場にいるのかは聞かないから、あの場所まで行ける方法を知っていたら教えてくれる?」
「えっと…」
「おい、ルイ。アリカに何かさせるつもりじゃないよな」
喧嘩腰のトシヤが睨むと、ルイは無言を貫いた。
このままではトシヤとルイの言い争いが始まりそうで、騒ぐ警備隊が亜莉香達を無視してくれるのをいいことに、ルイの横顔を見つめて声を落とす。
「あの、ルイさん。別に何もしなくても、もうルカさんの所まで行けます」
当たり前のことを言ったつもりが、暫しの沈黙が訪れた。両脇の二人が意味を理解するのに時間がかかって、慌てて説明を付け加える。
「私が何かしなくても、もう魔法はかかっていて。透の魔法だと思いますが、既に湖は凍っているのですよ。表面上はそう見えなくても、湖の水底まで凍っているようなので、ただ走って行けばいいだけで…」
段々と声が小さくなって、間違っていないか心配になった。
試しに亜莉香自身が証明させてみようと提案する暇もなく、話を最後まで聞かなかったルイは駆け出す。
星空の上を走るようにして、ルカの元に向かった。
座り込んでいたルカをルイが抱きしめたのは遠目からでも分かり、ルイを先頭にして、ようやく湖の変化に気付いた警備隊が中心へと向かい出す。
ほっと安心した亜莉香の名前をトシヤが呼んで、顔を見上げた。
トシヤの視線は湖のままで、声も表情も優しいはずだ。それなのに、支えていた肩の力がこもった気がする。
嫌な予感を感じた亜莉香に、トシヤがゆっくりと話し出す。
「俺は今すぐ、この場にいる理由を教えて欲しいんだけど?」
「それは、その…」
「身体は濡れているし、一人でいるし。ルカと一緒にいたはずだよな?」
淡々とした声で事実を問われて、必死に頭の中で言い訳を考える。
逃げるように離れようとすれば、身体の向きが変わって、向き合う形となった。じっと見つめるトシヤを押しのけようにも、先手を打たれて両手首を掴まれては下がれない。
顔だけでも限界まで背けて、目を合わせずに言う。
「ちょっとした…手違い、でしょうか?」
「手違いで、どうしてこっちに来るんだよ」
「…どうしてでしょうね?」
「どこ行って来たのか。一から順に説明して欲しい。いつの間にか手首には、何か付けているみたいだしな」
「手首?」
単語を繰り返して、今更の違和感に気が付く。
狭間を出るまでは、右手首にサファイアに花びらが張り付いた王冠を通していた。左手には白いリボンと鈴が付いた灯籠を手にしていたが、いつもなら狭間を出ると灯籠は消えてしまう。
そのはずが、左手首には白いリボンと鈴だけが残っていた。
落とさないようにリボン結びで、白いリボンに括り付けられた鈴は地上に出てから一度も鳴っていない。王冠に張り付いていた花びらは、亜莉香がその姿を確認すると、サファイアの表面で溶けるように消えた。
ようやく役目を終えた道標の花びらが消えたことに驚くより、リボンと鈴が気になる。
「なんで、これがあるのでしょうか?」
「それは俺が聞きたい。どこかで拾ったんだろ?」
「拾ったのは灯籠だけで、リボンと鈴は灯籠に付いていたのですよ。そもそも最初はネモと狭間に向かって、その途中で灯籠を拾って、リリアさんの家の池で王冠を見つけて――」
途中で顔を上げて、にっこりと笑っていたトシヤと目が合った。
濁そうと思っていたことを素直に話してしまったと、後悔するのはすでに遅い。ほとんどの経路を言った後で、亜莉香の口角が引きつった。
笑っている顔が怖くて泣きそうになると、掴んでいたトシヤの手が離れた。
代わりに両頬を引っ張られて、怒っているトシヤの顔が迫る。
「な、ん、で。狭間に行ったんだろうな?」
「ひゃって、わたひも、何かひひゃくて」
「だからって、一人で行く必要ないよな?」
「ひ、一人じゃなかったれすぅー」
上手く口が回らない亜莉香は、必死にトシヤをどけようとした。努力は空しく、トシヤの力に敵うはずがない。
涙で瞳が潤んだ頃、ため息をつきながらトシヤは力を緩めた。
亜莉香は両手で頬を包み込んで、唸りながら視線を下げる。頭が上がらないのはトシヤの言い分も分からなくもないからで、これ以上の小言を聞きたくない。
周りにはトシヤ以外いなくて、周りにいたはずの警備隊は湖の方へ行ってしまった。
静まり返って、この場には二人しかいないのだと意識すると顔が熱くなった。セレストに来てから何度も二人きりはあったはずなのに、透を迎えに行ってから色々あり過ぎて、心配してくれる人と言えば最初に思い出していた。
トシヤの気持ちを聞いたわけじゃない。
自惚れるなと思うのに、考え出したら止まらない。
このままではまずい。じりじりと後ろに下がろうとすれば、小石につまずいて身体が傾き、湖に向かって倒れそうになった。
咄嗟に手を伸ばしたトシヤに抱きしめられて、近さに身体が硬直する。
お礼を言わなきゃいけないのに、着物にしがみついて耳まで赤くなった。
「大丈夫か?」
「だい、じょうぶです」
平然とした声が耳元で聞こえて、弱々しく返事をした。
トシヤに顔を見られたくなくて、目を閉じて心臓が静まるように祈る。走った時とは違って、鳴りやまない心臓の音がとても五月蠅い。
意識しているのが一方的だと思えば恥ずかしいのに、もう少し、と両手に力を込めた。
首筋に何か当たって、小さく驚いた声が出ると同時に、トシヤに勢いよく引き離される。背中を向けた顔は見えなくて、右手で口元を隠していた。
「あー…そろそろ、ルイ達の所に行こうぜ」
「…はい」
真っ赤な顔のまま、トシヤの隣に並んで歩き出した。
顔色を伺ったタイミングは同じで、目が合った途端にお互いに目を逸らした。トシヤの頬は僅かに赤かったが、おそらく亜莉香の顔が林檎のように赤い。首筋の感触は忘れられず、よく分からないまま左手を添えると、小さくも綺麗な鈴の音が聞こえた気がした。




