46-2
空気に触れた途端に泡が弾けて、亜莉香は思いっきり息を吸った。
地上に出たと安心して、一瞬だけ身体が沈みかけた。水の中にいるのを意識して漂い、少し呑み込んだ水のせいで咳き込む。
ネモフィルは繋いでいた手を離して、亜莉香の腰に回した。
「大丈夫?」
「なん、とか…」
「それなら良かったわ。ちょっと、見ていないで手を貸しなさいよ」
ツユ坊、と不機嫌に言った。
途中から亜莉香ではない別の誰かに向けた言葉と、ネモフィルが呼んだ名前に下がっていた顔を上げる。
少したれ目で藍色の瞳はネモフィルを映して、驚いた表情をしていた。
片手には日本刀を握りしめ、着物と袴は無地の落ち着いた藍と黒。ぼんやりと眺めていると、その顔や雰囲気が透とよく似ている。並んだら兄弟に見えても不思議ではないのだと、呑気なことを考えた。
ツユの手前には男性がいて、その顔は見覚えがある。
ミスズ、と夜会で呼ばれていた。
その左手はツユを守るように横に出し、右手には日本刀を構えていた。警備隊である共通の黒い袴姿で、胸元には露草の青い宝石が煌めく飾り。夜会で困っていた時に、ウルカが探していると助けてくれて、温厚で優しい印象は変わらない。ツユよりは明るい藍色の眼差しには、驚愕の色が浮かんでいる。
何も言わない二人に見下ろされて、亜莉香は湖の中に戻りたい気持ちになった。
誰だって、突然湖から人が現れたら驚くだろう。星明かりで明るい夜と言っても、顔がはっきり見えるわけじゃない。驚くのも無理はなく、逃げたり叫ばれたりしなかっただけ、ましな気がしなくもない。
何を考えているか分からないネモフィルは頬を膨らませて、ツユを睨みつける。
「何よ。その死人を見たような目は」
「…ネモ、なのか?」
「貴方の目は節穴なの?私という美女を見間違えるわけ?」
喧嘩を売りそうな勢いで言い、ネモフィルの眉間に皺が寄った。右手で濡れていた前髪をかき上げて、ふと何かを思いついた顔に変わる。
にっこりと微笑んだ笑みは、恐ろしいほど美しい。
「信じられないなら、ツユ坊の恥ずかしい昔話をしてもいいのよ。私が覚えている話、全部。今、この場で、赤裸々な告白を」
一つ一つを区切りながら脅すネモフィルに、ツユの顔色が変わった。
青白い顔になって、口角を引きつらせる。ネモフィルが何を知っているのかは想像するしかないが、ツユにとっては思い出したくもない記憶を握っているに違いない。
憐れになった亜莉香が眺めていると、ツユ様、とミスズが声をかけた。
呼びかけられて、ツユは自分を取り戻す。
一つ咳を零してから、ネモフィルの雰囲気に押されまいと話し出した。
「昔話を聞いている暇はない。何故、こんな所にいる」
「どこにいたって、いいじゃない。私は流れる水のように、どこにでもいて、どこへでも行ける存在なのよ」
うふふ、と楽しそうなネモフィルに背中を押されて、亜莉香は両手を出して地面を掴んだ。身体が安定して安堵の息を吐くと、目の前の誰かが片膝をついて手を差し伸べた。
ツユではなくて、ミスズが、少し困った顔をしていた。
遠慮がちに手を重ねると、湖から出るのを手伝ってくれた。ネモフィルも手伝ってくれ、座り込んだ亜莉香の隣で仁王立ちになる。
ツユの方が背は高いはずなのに、見上げるネモフィルは負けてない。
無言の睨み合いが続いて、表情の固いツユがゆっくりと口を開いた。
「今の状況を、分かっているのか?」
「当たり前でしょう。私を誰だと思っているのよ」
「なら、何故この場に来た。お前を信じて、母上を頼んだのに」
苦しそうに言ったツユが両手を強く握りしめ、ネモフィルは目を細めて見つめた。張り詰めていた空気を溶かすように、優しい口調になる。
「安心して。ウルカは無事よ」
「何を根拠に――」
「私より何倍も強くて、頼れる人が傍にいる。手違いがあって貴方の元を訪れたと思ったけど、それすら手違いではなかったのかもしれないわね」
ツユの言葉を遮ったネモフィルはそっと後ろを振り向き、亜莉香も視線を向けた。
湖に張っていたはずの氷は砕けて、その一部が浮いている。大きさは様々で、どれも歪な形ばかりだ。深い闇を抑え込む湖は広く深く、その中心には黒い霧が集まっているように見えた。
全てを飲み込む黒い霧の中に、透達がいるのだろう。
怯えていたフルーヴを頼んで、ルカを置いて来てしまった。疲れ切っていたウルカや、外に出たばかりのリリアも、まだ霧の中にいる。
透がいるから大丈夫だと、ネモフィルの言葉を信じている。
信じる気持ちがあっても、不安は消えない。
この場にいるのが灯だったらと、嫌でも考えてしまった。緋の護人として戦えたら、自分の思う通りに魔法が使えたら、出来もしない想像ばかりする。
悔しくて、現状がもどかしい。
両手を握りしめて奥歯を噛みしめた亜莉香の名前を、ネモフィルはそっと呼んだ。
「近くにトシヤ達がいるから、貴女の無事を伝えて来なさい」
「でも――」
「心配、しているわよ」
霧から目を背けて振り返った亜莉香に、ネモフィルは子供を諭すように言った。
慈愛に満ちたサファイアの瞳には、途方に暮れた姿が映る。何も出来なくて悲しいけど、この場にいない人達の顔を思い浮かべて、静かに息を吐いた。
深呼吸をするたびに、気持ちが落ち着く。
ネモフィルの言う通り、心配しているのは亜莉香だけの話じゃない。近くにいるツユも、ウルカを心配している。ルグトリスと戦っていた警備隊だって、その人たちを想う家族だって、きっと誰かが誰かを心配して気にかけている。
小さく頷いてから、亜莉香はゆっくりと立ち上がった。
ぎこちなくも微笑めば、あっちよ、とネモフィルが指差した。
その方角は、岸に沿って数十メートル離れた場所。何やら騒がしい人だかりがあり、トシヤとルイの声が聞こえるのに今更気が付いた。
ネモにお礼を言い、ツユとミスズに一礼して駆け出す。
近づくたびに聞こえるのは、必死に引き止めようとする数人の声。足止めされているのは警備隊相手に日本刀を構えたルイと、その一歩後ろで日本刀を握りしめてはいるが下ろしているトシヤ。
本気で斬りかかろうとするルイに、応戦しようとしていたのはニチカだった。
殺意すら感じるルイに、いかつい顔が焦っている。他の警備隊を後ろに下げて、何とか湖に入らないように説得しようとするニチカが言葉を重ねても、ルイは聞く耳を持たない。
ルカが心配なのは目に見えて分かるが、このままでは一戦交えそうな雰囲気があった。
走りながら息を吸い込み、亜莉香は叫ぶ。
「ルイさん!」
名前を呼んだルイより早く、振り返ってトシヤが驚いた顔になった。
滑り込むようにニチカの前に出て、殺意の消えないルイに向き合う。
「おち、つきましょう」
両手を広げて、息絶え絶えに話しかけた。
「ひとまず…その刀を、ですね――」
「落ち着くのは、僕じゃなくてアリカさんの方じゃない?」
呆れが声に混ざって、ルイの表情が僅かに変わった。困ったような、何とも言えない顔になり、日本刀の剣先を地面に下げる。
肩の力を抜いたルイを確認して、安堵が押し寄せた亜莉香は両手を胸元に寄せた。心臓が五月蠅いのは全速力で駆けたからで、ルイに武器を向けられたからじゃない。
その次の瞬間、背後で突風と眩しい光が破裂した。




