45-6 Side瑠璃
狭間を歩く人間が、一人だけ。
ペンギンの姿になったネモフィルからは、抱えている亜莉香の表情が見えない。重たいとも、下りろとも言わずに、ただただ優しく包み込まれて、寄りかかって瞳を閉じた。
池に落ちた亜莉香は汚れて酷い匂いがするのに、触れられても嫌な気分にならない。とても不思議なことに、居心地が良い。
それは亜莉香の右手に王冠が通されているせいか。左手に持っている灯籠の温かな光のせいか。光に包まれている感覚があって、安心すると同時に瞼が熱くなった。
自分の生まれた話をしそうになって口を閉ざすと、亜莉香が無理に聞き出すことはなかった。申し訳ないような顔をして、亜莉香はネモフィルに近寄った。
もういいよ、と言った。
たった一言で、全てが許された気がした。
誰も知らない、ネモフィルの秘密。それは透と出会う前、ネモフィルが生まれるきっかけを作った女性の記憶。生まれ育った家も大事だった家族も、何もかも奪われた記憶。生まれる前から記憶を持つ精霊は珍しくて、その記憶は悲しみで溢れていた。時代で生まれた大きな力に巻き込まれた、何の力もなかった女性の悲しい叫びがあった。
亜莉香は気が付いただろうか。話している途中で、ネモフィルが全く違う女性を思い浮かべたことを。その女性の見た目は、亜莉香と異なる。
どちらかと言えば、ネモフィルに似ている。
今より胸もなければ度胸もないが、大事なものを心に詰め込んでいた。故郷が好きで、家族が好きで、笑って泣いて、日々を懸命に生きていた。
それが呆気なく壊されて、小雨の降る死ぬ間際に願った。
全部流れてしまえばいい、と。
大雨が降って激流する川のように、何もかも流して最初から無かったことに。喜びも悲しみも、愛しさも憎しみも、今までの過去も描いた未来も。全てを消したかった。
破壊衝動、とも言えたはずだ。
その願いが強すぎて、闇に染まってルグトリスになる可能性もあったはずだ。
結局は女性の記憶を引き継いで、水の精霊として生まれ変わった。精霊として日々を過ごして、透やリリアと出会って、光の存在としてセレストを護っている。
敵が現れれば、毎度のことのように水魔法で流した。
傷みも苦しみも、ルグトリスの闇も流す。
もういいのだろうか、と考えてしまった。
精霊として生まれ変わったのだから、透と契約を交わした。セレストを護り続けたい気持ちは揺るがないが、ずっと女性の強い願いがあって、何もかも流すことこそ、ネモフィルの役目だと思っていた。
何もかも流すだけじゃなくて、それ以外のことも考えていいのだろうか。
心に大事なものを集めて、遠い昔のように日々を過ごして。
精霊だけれど、透やリリアを家族のように大事にして。
時には恋をしても罰は当たらないのだろうか。滅多に会えなくても、顔を合わせれば喧嘩になったとしても恋をして、笑って泣いて、懸命に生きてもいいだろうか。
誰にも聞けない。誰にも言えない。
それでも許されるなら、素直に生きたい。
今を生きている、と出会ったばかりの亜莉香は言った。優しく抱きしめてくれる両手は、柔らかくて温かい。人は儚く命短いものだけど、願わくはネモフィルの知る記憶の中の彼女のように、幸せに笑っていて欲しい。
大好きだと想う人達を護るために、この身に宿る力を使いたいと強く願った。




