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Last Crown  作者: 香山 結月
第2章 星明かりと瑠璃唐草
221/507

45-3

「出られたー!」

「フルーヴ、あんまり遠くに行くなよ」


 先に地上に出たトシヤに続いて、亜莉香も氷の塊の隙間を抜けた。

 大人一人が通れる幅の隙間は、這いつくばって進むしかなく、狭間の中に差し込んだ光と繋がっていた。距離は短くても、途中で氷に変わって両手両足が冷たい。

 立ち上がって、かじかむ両手を合わせて息を吹きかける。

 体感温度は低くて、息が白くなった。


 周りは騒がしく、氷の上で戦いが続いている。警備隊と思われる人達がルグトリスと戦っている最中なのは分かるが、誰一人として亜莉香達の存在には気付かない。襲って来るルグトリスもいなくて、呑気に夜空を見上げると星々が瞬いていた。

 綺麗だと、目を奪われていると名前を呼ばれた。

 振り向けば、ほんの数時間前に別れたはずの人達の姿がある。


「ルカさん、ルイさん…」

「星を眺めている余裕はないだろ」

「まあ、何事も余裕を持つことは大事だと思うけどね」


 腕を組んだルカは呆れて、両手を後ろに回していたルイは笑みを浮かべて言った。

 口を揃えて、おかえり、と続く。ただいま、の一言と共に、どこも怪我をしていない姿に安堵した。いつも通りの二人に歩み寄り、寒さを忘れて亜莉香は笑う。


「お二人とも、お怪我がなくて良かったです」

「怪我をするほど、無茶はしてないからな」

「そうそう。もしも怪我をしても、すぐにフルーヴが治してくれたしね。何より僕達が前に出るより、警備隊の人達が頑張っているから」


 軽く視線を横に向けて、ルイは微笑んだ。


「僕達の出番がなくて、正直暇だよ」

「さっき疲れた、と言ったのは誰だよ」

「そりゃあ、疲れるでしょう?ずっと立ちっぱなしで、早数時間。警備隊の人達みたいに交代する人はいないし、たまには休憩しないと」

「その割に、結構長い休憩だけどな」

「ルカの結界の中なら安心安全でしょ。このまま朝を迎えちゃう?」


 にやっと口角を上げて軽口を叩くルイに、ルカが冷ややかな視線を向けた。

 亜莉香が辺りを見渡すと、確かに結界が見えた。白く淡い光を発して、高さはなくても広さはある、大きな四角い箱の中にいる。

 立っている場所から前方に奥行きがあり、ルカとルイの数メートル後ろに目を向けた。


 氷の表面の両手をついた女性がいて、隣にはネモフィルがいる。

 女性が身に纏っている着物は質素な暗い色で、帯は落ち着いた銀色。深い緑の帯留めをして、髪を緩く三つ編みにしている横顔は、間違いなく領主の奥方であるウルカ。

 唇を噛みしめて、声をかけられない雰囲気を醸し出していた。

 対してネモフィルは傍に膝をつき、ウルカの背中に手を回している。大丈夫だと優しく語り、安心させるように繰り返す。

 これはどんな状況だと判断する前に、トシヤが隣にやって来た。


「戦況は?」

「こっちが優勢かな。トシヤくん達がいなくなってからも敵は減らないけど、奥へは進ませていないよ。問題は湖を覆っている氷がいつまで保てるかだね。ネモに頼まれてルカが結界を張ったけど、氷の魔法に関して僕達が出来ることは何もない」


 即答したルイは、降参するように両手を上げた。

 ルカが小さく頷き、淡々と付け足す。


「氷の魔法と、俺とルイの魔力との相性は悪いからな」

「相性が良くても、魔力を合わせるのは大変だけどね。魔法を発動する前に同時に言葉を紡いだのなら兎も角、今更合わせる方が難しい」

「出来なくはない話だけどな」


 困った表情を浮かべたルイの発言に、ひょっこりと透が加わった。

 ルカとルイの視線が亜莉香の後ろに向けられて、振り返ると透はリリアの腰に腕を回して支えていた。肩を小さくしていたリリアは両手でパーカーのフードを押さえて、顔が見えないように僅かに俯いている。

 唇を結んで何も言わないリリアとは違い、真面目な声で透が言う。


「かあさ――じゃなくて、ウルカ様の魔法に上書きして、交われば良いわけだ。魔法を合わせるのとはちょっと違うけど、今の魔法を維持したまま強度が強くなる」

「それって、誰にでも出来るわけじゃないでしょ?」


 ルイが訊ねると、透は首を縦に振った。


「今の状況なら、第一に氷の魔法が使えること。第二にウルカ様の魔法と同等か、それ以上の魔法を扱えることが最低条件」


 空いていた右手で数えるように指を動かした透の瞳に、緊張した面立ちになっていた亜莉香の顔が映った。何かを探るように見つめられて、両手は袴をぎゅっと握る。


「この場でそれが可能なのは俺か…精霊の力を借りれば亜莉香にも可能だな」


 何となく予想した言葉に、亜莉香は唾を呑み込んだ。後ろからルカとルイの視線を感じても何も言えず、静かに透の声が続く。


「けど、まあ…やり方の分かる俺がした方が手っ取り早いだろ。俺は少しの間、戦闘には加われないから、戦える奴はルグトリスを倒してくれると助かる」

「なら、僕とトシヤくんは外に行こう。ルカはこの場に残ってね」


 分かっている、と承諾したルカを置いて、ルイはトシヤの背中を叩いた。

 引き止めたい気持ちを隠して、亜莉香がトシヤと目を合わせられたのは一瞬。仕方がないと微笑んだトシヤはルイと共に結界の外に出て、瞬く間に警備隊とルグトリスの戦闘に紛れ込んだ。

 その姿は遠く、手の届かない場所に行ってしまった。

 何も出来ない悔しさに、亜莉香は奥歯を噛みしめる。

 トシヤと入れ替わるようにルカは亜莉香の隣に立ち、それで、と透に話しかけた。


「今すぐに、どうにかするんだろ?」

「どうにかするしかないのが、現状だな。氷を張って、ここら一体のルグトリスを倒して、セレストの結界を強化し直さないと壊されそうだ」


 右手で頭を掻いて、面倒くさい、とも書いてある顔で透は空を見上げた。


「因みに、この結界の中は外から見えないよな?」

「ああ。会話も聞こえない」

「それを聞いて安心した」


 肩の力を抜いた透が亜莉香とルカに笑いかけて、ずっと頭に付けていたお面で顔を隠す。

 それからリリアを連れて、ウルカとネモフィルのいる場所に向かった。ネモフィルと顔を合わせるなり罵倒が響いたが、透は笑って流して、リリアをネモフィルに押し付ける。ウルカには優しく話しかけて、その向かいに片膝をついて座り、両手を氷の上に乗せた。

 リリアやネモフィルに見守られて、透の身体が淡い水色の光に包まれている。

 数メートル先の光景を眺めながら、亜莉香は口を開いた。


「私だけ…何も出来ないのですね」

「アリカは瑞の護人を連れ戻しただろ?」

「そうかもしれませんが…」


 隣のルカの顔を見られないまま、声は小さくなって本音が零れる。


「今、何も出来ないのが空しいのです。ルカさんみたいに結界を張れるわけでもなく、トシヤさんやルイさんみたいに戦えるわけじゃない。無理なのは分かっているけど、何かしたくて、何も出来ないのが心残りで」


 足元の視線を戻せば、裸足で真っ赤になっていた。

 いつの間にか冷たさの感覚を忘れて、自分ではどうしようもない感情を抱える。


「何かをしたいのに、何がしたいか自分でもよく分からなくなったみたいです」


 透を呼び戻したのは、ネモフィルに頼まれたから。リリアに会いに行ったのは、待っていると言われたから。

 じゃあ今は、と考える。


「今の私に、何が出来るのでしょうか?」

「知らねーよ」


 ばっさりと突き放されて、ルカのため息が聞こえた。

 数秒無言の居心地の悪い空気になり、亜莉香はあからさまに落ち込んだ。自分で答えを出すべきことだったと謝罪する前に、慌ててルカが言う。


「いや、その…違くてさ。俺がこうしろとか、ああしろとかは言えないけど、アリカはいつも自分のするべきことを正しく選んでいるとも思う」

「するべきこと、ですか?」

「自分の意思を持って?うーん…自分で選んで、行動しているだろ?」


 しどろもどろになりながらも、ルカは必死に言葉を選ぶ。

 何を伝えたいのか分からなくて、亜莉香はじっと見つめた。


「自分で選んで何かをするのは、今までの積み重ねがあってこそだと思う。その積み重ねが時間であり、経験であり、今までの自分で。その自分をアリカは素直に受け止められているから、真っ直ぐに行動しているように見える。それこそ、今は何がしたいか分からなくても、必要な時に正しい道を選んでさ…自分でも何が言いたいか分からなくなってきた」


 眉間に深く皺を寄せたルカが、遠くを見つめてぼやいた。

 つまり、と要約しようとして悩むルカに、亜莉香は声を落として訊ねる。


「私は、私を受け止められていたのでしょうか?」

「少なくとも、わざわざこの場にやって来て、護衛の仕事を増やしている馬鹿領主の息子よりな」


 真顔になったルカが言い、亜莉香は瞬きを繰り返した。

 名前を出さなかったが、思い浮かんだ人物は一人しかいない。それも亜莉香の脳内では楽しそうな様子で、ナギトとサクマを振り回して笑っている。


「シンヤさんが近くにいるのですか?」

「見つからないように、俺とルイは全速力で反対側に逃げたけどな」

「見つかったら、やっぱりまずいですか?」

「いや、からまれるのが面倒だっただけ。大人しく守られていればいいのに」


 トシヤとルイがいると思われる方角に目を向けたルカに倣い、亜莉香も視線を向けた。

 人が多くて、どこにいるのかは分からない。警備隊もルグトリスも入り混じって、もはや誰が味方で敵かも分からなくなりそうだ。

 倒れている人はいないが、ルグトリスは湖を囲む林から現れては、中心へ向かって進もうとする。無限に湧き上がるようなルグトリスとは違い、警備隊の人には限りがある。

 星明かりを反射する氷の一部は、怪我をして流れた血で暗く見えた。

 氷が揺れた気がして身体がふらつくと、ルカがすかさず亜莉香の手首を掴んだ。


「大丈夫か?」

「はい…多分、ですが」


 曖昧な返事をして、妙な胸騒ぎを覚えて片手を心臓に当てた。

 背筋が凍るように、段々と辺りが冷たくなる。息の白さが濃くなって、氷の下の暗闇が広がったように見えた。

 裸足のせいか、冷気を直に感じる。

 透やウルカ様の魔法のせいじゃない。

 聞き覚えのある少女の耳障りな笑い声が微かに聞こえて、頭に痛みを感じた。ルカの心配する声を他所に、どこからともなくフルーヴが飛び乗って、亜莉香の頭にしがみつく。

 小さな兎は震えて、亜莉香の名前を呼んだ。


「ありか、怖いの」

「フルーヴ、いきなりどうした?」

「わからない。わからないの」


 怖い、とフルーヴが答えた。

 問いかけたルカは意味が分からず、首を傾げた。

 亜莉香だけが、その意味を理解する。氷の下の狭間から追いかけて来る恐ろしい少女の姿が、はっきりと脳裏に浮かんだ。簡単に諦めてくれるとは思っていなかったが、異変に気付いているのは亜莉香とフルーヴだけ。


 透は魔法の上書きに忙しくて、ネモフィルが急かしている。

 疲労困憊のウルカを隣でリリアが支えて、トシヤとルイは敵と戦っている。

 怯えているフルーヴや、結界を張って守ってくれているルカには頼れない。


 どうする、と自分自身に問いかけた。

 瞼を閉じれば、血まみれの少女の姿が鮮明に思い出せる。リリアの家に現れた時は血塗れだったが、最初に会ったのは崖の上。

 セレストの結界を破って闇に落とすと、リリアを探していた少女は言っていた。

 少女の目的を明確に知りたくて、無意識に足が動いた。

 結界の中にある氷の塊の隙間、狭間の出入口の傍に寄る。隙間の暗闇は変わらずに存在していて、狭間に繋がっている。

 狭間に行けば、少女に出会えるはずだ。一人で立ち向かうには怖い相手だけど、と振り返って濃紺の髪の美女を見つめた。

 唯一、助けを求められる精霊がいる。透に怒鳴っているだけにしか見えなくて、亜莉香が声をかけたら喜んで付いて来てくれる気がした。

 愛称ではなく、必要なら呼べと言われた名前は心に刻み込んである。

 決して忘れることはなく、誰にも聞こえないように囁く。


「ネモフィル」


 周りの騒音に掻き消されても不思議ではなかった音量で、即座に振り向いたサファイアの瞳と目が合った。亜莉香の意思を伝えていないのに、雰囲気が一変して何かを企む表情は楽しそうで、嬉しそうな笑みでもある。

 透の後ろで仁王立ちになって、片手で髪を靡かせたネモフィルは口を開く。


「さて、何をする?」

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