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Last Crown  作者: 香山 結月
序章 薄明かりと少女
22/507

05-3

 アリカさん、と名前を呼ばれて、読んでいた本から視線を上げる。

 扉の方を振り向けば、ルカとルイの姿があった。夢中で本を読んでいた姿を見られ、何となく気恥ずかしくなった亜莉香に、ルイは笑いかける。


「そろそろお昼だから、呼びに来たよ。お昼、食べたいのはある?」

「いえ、特にはありま――」


 せん、と言う途中で、ぐう、とお腹の音が鳴った。

 静かだった部屋に音が響いた。すいません、と恥ずかしくて少し赤くなった顔を、亜莉香は持っていた本で隠す。ルイが笑っているのは笑い声で分かり、ルカはため息をついた。


「アリカさん、お腹減っていたみたいだね」

「はい…すみません」

「そんなに謝らなくていいよ。誰だってお腹は空くし、朝は何食べたの?」 


 ルイの質問に、亜莉香は本を顔から離した。両手で抱きしめるように本を持ち直し、少し考えて答える。


「今日は…食べてないですね。食べ忘れていました」

「なんで食べ忘れるんだよ」


 呆れたルカの声に、もしかして、とルイが話し出す。


「ルカが急かしたから、食べる時間なかった?」

「いえ、そういうわけでは。今朝は確か、頭の中に朝食の単語が思い浮かばなかっただけで、ルカさんのせいではないです」


 はっきり否定すると、ルカが少しだけ安心した表情を見せた。

 そっか、とルイが呟いて、微笑む。


「お腹が空いているのは事実だろうから、今から僕がルカの分と一緒に昼食を買って来るよ。ルカとアリカさんは、下の休憩所で待っていて」

「それなら俺が――」

「大丈夫。すぐ戻るから、ルカはアリカさんといてよ」


 それに、と言いながら、ルイがルカの耳に口を寄せ、何かを言った。

 ルカの顔が苦々しい表情に変わり、ルイはにっこりと笑顔を浮かべていた。何の話をしているのか、亜莉香には聞こえない。首を傾げていると、分かったよ、とルカが口にしていた。


「さっさと買って来いよ。お節介」

「うん、そうする。アリカさん、ちょっと待っていてね」


 ルイは軽い足取りでいなくなった。

 その後ろ姿を見送って、深いため息を零したルカが、亜莉香を振り返った。


「借りる本はあったわけ?」

「え、あ、はい。花図鑑と料理の本を」


 手に持っていた本と、近くのテーブルの上に置いていた花図鑑を見ながら言った。そう、と素っ気なく言い、ルカは花図鑑の前まで進んだ。

 花図鑑を手に取って、軽くページをめくる。

 すぐに本を閉じて、無言で右手を差し出した。


「えっと…?」

「そっちの本も貸せ」


 戸惑いつつ手渡せば、ルカは本に興味を示さず、花図鑑と同じように軽くページをめくった。二冊の表紙を確認して、無言で亜莉香に本を差し出す。


「もういいのですか?」

「貸す本は覚えたから、問題ない。返すのは鳥待月が終わるまででいい」

「とりまちづき、ですか?」


 聞き慣れない言葉を、聞き返しながら本を受け取ると、ルカが疑うような視線を向けた。


「まさか、鳥待月を聞いたことがない、なんて言わないよな」

「…聞いたことがないです」


 ルカの見えない圧力を感じて、亜莉香の声はだんだん小さくなった。

 視線が下がった亜莉香に気が付かず、ルカは本棚から一冊の本を手に取った。数ページをめくって、これ、と言って亜莉香に差し出す。

 差し出されたページを見て、驚きつつ顔を上げる。


「これ、は?」

「一年を十二に分けた、月の名前。書いてある通りだけど、今は四番目の鳥待月。新年の始めを最初に、暮新月、雪消月、夢見月、鳥待月、早苗月、水張月、七夜月、月見月、紅葉月、時雨月、雪待月、暮来月」


 淡々と話すルカの言葉を聞きながら、亜莉香はページに書かれている単語を目で追った。

 忘れないように、小声で繰り返す。


「くれしづき、ゆきげづき、ゆめみづき、とりまちづき、さなえづき、みずはりづき、ななよづき、つきみづき、もみじづき、しぐれづき、ゆきまちづき、くれこづき」

「覚えるなら、本を自分で持てよ」

「え…あ、すみません!お借りします!」


 慌ててルカから本を受け取り、凝視しながら同じ言葉を繰り返す。

 必死に覚えようとしている亜莉香を見て、ルカが言う。


「その本も借りる?」

「うぅ、もう少しで覚えられそうなのですが」


 唸りながら答えて、何度も同じ言葉を呟く。

 亜莉香が一歩も動く気配がないので、ルカは一人部屋を見渡して、別の本を手に取る。数分間、動かなかった亜莉香が顔を上げれば、ルカはベッドに座って本を読んでいた。

 亜莉香の動く気配を感じて、ルカは亜莉香を見た。


「覚えた?」

「一応、覚えましたけど。また忘れそうです」

「なら、こっち借りて行け」


 亜莉香の持っていた本を奪い、代わりに絵本のような薄い本を渡す。

 何だろう、と思いながら本の中身を確認すると、子供向けの歳時記が書いてある絵本。季節のこと、月のこと、どんな行事があって、どんなことをするのか。具体的に優しい絵を交えて書いてある本に、亜莉香は目を輝かせた。


「これ、お借りしてもよろしいのですか?」

「だから渡した」

「ありがとうございます」


 お礼を言って、また本を眺める。

 金の装飾がある、可愛くて、綺麗な一冊の絵本。眺めているだけで楽しく、何度でも読みたくなる絵本を見つけて、はしゃぐ亜莉香の様子に、ルカが僅かに微笑む。

 その微笑みは一瞬で消え、すぐに持っていた本を本棚に戻した。

 本に夢中だった亜莉香は、あのさ、と小さな聞こえて、背を向けているルカを見た。亜莉香の方を振り返らず、少しだけ遠慮がちにルカが言う。


「他に、読みたい本は?」

「他に、ですか?そうですね…この国のことが分かる本が、読んでみたいです。分かりやすい本だと、嬉しいのですが」

「この部屋にはないから、別の部屋だな」


 言い終わらないうちに、ルカが扉の方に向かった。部屋から出て行くのだろうな、と見送っていると、ルカが亜莉香を振り返った。


「いつまでそこにいるわけ?本を取りに行くついでに、休憩所行かないの?」

「い、行きます!」


 一緒に行く、なんて考えもしなかった亜莉香は、慌ててカーテンと窓を閉め、ルカの元に向かう。本を落とさないようにぎゅっと両手で抱きしめながら、先に歩き出したルカに置いて行かれないように、一歩後ろを歩く。

 ルカは迷うことなく、二階に続く階段へ向かって歩く。

 歩きながら、朝、と言う単語が亜莉香の耳に届いた。聞き返す前に、ルカが申し訳なさそうな声で言う。


「少し、言い過ぎた」


 ごめん、と微かな声が続いた。

 何のことを謝られたのか理解出来なくて、ぽかんとした表情を浮かべた亜莉香は訊ねる。


「あの、私、何か言われましたっけ?」

「…」

「すみません、覚えてなくて。でも、ルカさんが気にするようなことは、言われてないと思います、けど」


 自信なさげになっていった亜莉香の言葉に、ルカは何も言わなかった。黙ったまま階段の前まで進み、上る前に立ち止まる。

 眉間に皺を寄せ、不機嫌そうな顔で振り返ったルカは玄関近くの一つの部屋を指差した。


「そこ、休憩室。そこで休んでいれば?」

「え、一緒に――」

「一人で行けるから」


 拒絶するような言葉に、それ以上の言葉を言えなかった。

 ルカはさっさと踵を返して、一人で階段を上る。その背中を追いかける勇気はなくて、亜莉香は立ち尽くすしかなかった。怒らせるようなことを、言ったつもりはなかった。けれどもあからさまに怒ったように見えたルカの様子に、怒らせたのは明白で、その理由が分からない。


「どうしよう…」


 泣きそうな声で呟き、亜莉香は視線を下げた。

 仲良くなれそうな気がしたのに、それが台無しになった。休憩室で待っていればいいのかもしれないが、それでは駄目な気がする。ルカと話をしなくては、と思った。

 階段の真ん中で立っているのは気が引けて、亜莉香は手摺の隅に移動してしゃがみこむ。


 一人になって蹲っていると、昔のことが蘇る。


 随分前にも、人を怒らせたことがあったこと。その時も、怒らせた理由が分からなくて、相手はずっと怒ったまま。怒声は長く続いて、周りにいた人に迷惑をかけて、気が付けば一人ぼっち。

 また、繰り返してしまったのかもしれない。

 また、一人になるのかもしれない。

 泣くな、と思うと、目頭が少し熱くなった。


「何やっているんだよ」


 呆れた声が頭の上に降り注ぎ、亜莉香はゆっくり顔を上げる。

 ルカさん、と掠れた声で名前を呼べば、少し驚いた顔のルカが瞬きを繰り返した。


「何?蹲って…具合でも悪いのか?」

「そういうわけでは、ないです」


 ただ、と視線が下がって亜莉香は言葉を続ける。


「私がいると、人を不愉快にさせるから。ルカさんにも迷惑をかけてしまって、申し訳なくて。早く仕事を探して、家を出ないといけないのに」

「どんくさそうなのに、そんなにすぐに仕事なんて――いや、何でもない」


 言葉を途中で止めて、ルカは言葉を濁した。

 途中まで聞こえた言葉に、朝の出来事を思い出す。


 今朝、食器を洗っている時に交わした会話。

『アリカさん。草むしりが終わったのなら、今度は何をするの?』

『まだ、考えている途中でして、仕事を探さないと、とは思っているのですが』

『仕事なんて出来るのかよ』

 ルカが呟いた言葉。


 やってしまった、と言わんばかりにルカは腕を組み、亜莉香の隣で手摺におっかかった。言葉を選びながら、口を閉ざしていた亜莉香に話しかける。


「いや、どんくさくても仕事は出来る、と思う。どんくさいのも、意識すればどんくさくなくなる、はずだ。つまり、言いたいことは、その。あれだ、あれ」


 上手くまとめられないルカが、必死に言葉を重ねる。

 怒っていない、と分かっていても、亜莉香はおそるおそるルカを見上げた。


「ルカさん、もう怒っていませんか?」

「怒る?別に、怒ってねーよ。あ、ルイみたいに常日頃、笑えなんて言うなよ。苦手なんだよ、そう言うのは」


 ルカが疲れる、と言わんばかりの息を吐いた。

 よかった、と本心が亜莉香の口から零れる。


「何が?」

「ルカさんを怒らせてしまったので、一刻も早く家から出て行かないといけない、と思っていたので。もう少し、私はあの家にいても大丈夫です、よね?」


 不安そうに言えば、ルカが肩の力を抜いた。


「それ、俺の許可いる?家主が許可したわけだから、いればいいだろ」

「それでも。誰かに迷惑をかけてまで、あの家にいてはいけない気がして」


 あはは、とから笑いをしながら、亜莉香は何もない目の前の空間を見つめ、唇を噛んだ。

 迷惑は、とルカは真面目な声で続ける。


「かけたくなくても、かけてしまうものだろ。迷惑一つかけないなんて、無理な話だと、俺は思うけど――これ、さっき言っていた本」

「え?」


 唐突に話が終わり、ルカが文庫を差し出した。

 目の前にある文庫を受け取ると、ルカが素っ気なく言う。


「この国の言い伝えを集めた本だけど、比較的読みやすい話ばかり集めてあるから、暇つぶしになるだろ。座ってないで、休憩所でルイを待とうぜ」

「あ、はい」


 ルカが歩き出したので、亜莉香は急いで立ち上がった。

 追いかけようとして駆け出した身体が、バランスを崩して重心が崩れる。


「――っ!」


 転んだ瞬間に、本が床に散らばった。

 派手な音にルカが振り返れば、散らばった本と真っ赤な絨毯の上で、仰向けに頭から倒れこんだ亜莉香の姿。手をつく暇はなく、頭から床にぶつかって、痛さですぐには動けない。

 亜莉香の持っていた本を拾いながら、ルカが亜莉香の傍に戻って来てしゃがんだ。


「…大丈夫かよ」

「大丈夫、です」


 亜莉香は顔だけを上げた。真っ赤なカーペットのおかげで、大した怪我はしていない。大した怪我はないが、カーペットの上に、楓の葉を見つけて、目が離せなくなった。


 同じ赤、ではなくて、少しオレンジの混じった楓の葉が一枚。

 歩いていた時は気が付かなかった楓の葉を指差して、亜莉香は問う。


「ルカさん、楓の葉っぱは、あそこにありましたっけ?」

「楓の葉っぱ?」


 首を傾げながら、亜莉香の指差す方を見たルカが、確かに、と呟いた。


「あるな、葉っぱ」

「前からありましたっけ?」

「いや、ない。あったら気が付くはずだ」


 ゆっくりと立ち上がったルカだったが、何かを考える顔になって、再びしゃがんだ。

 なるほど、とルカが言いながら、もう一度立ち上がって楓の葉の前まで進む。再びしゃがみこんで、右手で楓の葉に触れながらルカは黙って考え出す。


 その間に起き上がった亜莉香は、他の楓の葉を見つけた。


 よく見れば、一枚だけ玄関と階段の間のカーペットの上にあったわけじゃない。

 玄関の前に一枚、カーペットから外れて、数枚。

 それぞれが一定の距離を置いて存在していて、まるで道を指し示すように階段の真横に続いている。楓の葉を目で追って、亜莉香は立ち上がってみた。


「あれ?」


 立ち上がると、楓の葉は見えなくなる。

 しゃがむと、また楓の葉が見えた。

 ルカが考え出した理由が分かった気がしたが、それよりも階段の真横に続く楓の葉っぱが気になって、少しずつルカから離れて階段の真横に移動した。


 立っていると、何もない階段の側面。


 右手の人差し指を口に当て、少し考えるが、何も浮かばない。

 しゃがむと、目の高さにも楓の葉があった。ルカも平然と触っていたので、特に気にすることなく亜莉香は手を伸ばす。触れた途端、楓の葉が赤く淡い光を放った。


「な、何!」


 光が強くなって、小さな悲鳴が上がった。

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