45-1
終わりの見えない深い森の中を、亜莉香は全速力で駆ける。
右手でリリアの細い手首を掴んで、頭の上には兎の姿のフルーヴを乗せて。目で追っているのは、木々の間で見え隠れする青い花びら。
無我夢中で足を動かす亜莉香に、後ろにいたリリアが声を上げた。
「ま、待って!」
「止まったら捕まってしまいます!」
「ありか!」
フルーヴが叫んで、ふわりと舞う花びらを指差した。
その先は、深い闇。
花びらが呼んでいるように光って、道標になってくれている。振り返る余裕はなくて、迷わず闇に飛び込み、一瞬で景色が変わった。
足の感触も変わって、後ろに引っ張られて足が滑った。
派手に頭をぶつけて転んで、仰向けの状態で何もない空間を見る。痛さで生きていることを感じて、右手で頭を押さえた。こぶが出来たかもしれないが、身体に怪我はない。安心したのは一瞬で、起き上がって手を離したリリアの無事を確認する。
「ご、ごめんなさい!大丈夫ですか?」
「ちがっ――うの、私の、足が」
途切れ途切れのリリアは座り込んで、胸元を押さえて苦しそうに言った。
土で汚れていた足には切り傷があり、薄っすらと血が浮かび上がっている。出来たばかりの傷は森を駆け抜けた時のもので、額には汗が滲んでいた。
亜莉香がフルーヴの名前を呼ぶよりも早く、治癒魔法の光が辺りを照らした。
女の子の姿に変わったフルーヴが怪我を治す間に、履いていた足袋と草履を脱ぐ。リリアの傍に膝をつき、怪我が治った足に履かせる。
「ひとまず、これで我慢してください」
「でも」
「私より、今必要なのはリリアさんです」
断言した言葉に、リリアは言い返す気力もなく小さく頷いた。
全速力で走った亜莉香より疲労困憊で、息をするのも辛そうだ。休もうにも場所はなく、亜莉香は敵が追って来るはずの方向に目を向けた。
今はまだ、誰も来ない。
少女の隙をついて逃げ出せたのは、幸運だった。
リリアの住む家まで案内してくれた花びらが庭の中で眩しいくらい光って、少女を足止めしてくれなければ、今頃捕まっていたかもしれない。もう消えたと思っていた花びらに助けられても、森を抜けて狭間に戻れても、安心するにはほど遠い。
少女の動きは鈍いが、絶対に追いかけて来る。
笑い声が直接頭に響くように届くのが、その証拠。
急がなければと思えば、顔を下げたリリアが口を開く。
「先に、行って」
掠れた声が聞こえて、亜莉香は動けないリリアを見た。
「私は、あの場所からずっと、出ていなかったの。これ以上は走れない。足手まといになるだけ、だから」
お願い、と悲痛な想いが続いた。
フルーヴは怪我を治し終わって、どうすればいいのか分からない顔をする。亜莉香に意見を求める様子に、深呼吸をしてから答える。
「フルーヴ、今すぐに助けを呼んで来て貰えますか?」
「でも…」
「私はリリアさんと一緒で、一人ではありません。フルーヴだけなら、誰よりも速く、この狭間を抜けて地上に行けるでしょう?」
大丈夫だと言葉を込めて、亜莉香は優しく微笑んだ。
「フルーヴを信じているから、お願い。私達も地上を目指すから、フルーヴは先に行って、トシヤさん達を…透を、私達の所まで導いて」
唸り声を上げたフルーヴの瞳に涙が浮かんで、泣かないように耐えて兎の姿に戻る。
「うん!行ける!ひとりでも、行く!」
「ありがとう」
自然とお礼が口から零れて、青い河の色の瞳と目が合った。
大きく頷いた小さな兎は花びらを追い越して、瞬く間に消えてしまう。
いなくなったフルーヴを見送ってから、亜莉香はリリアの肩に右手を回した。支えながら一緒に立ち上がって、一歩ずつしか動けなくても歩き続ける。
立ち止まるわけにはいかない。
真っ直ぐに前を見据えると、リリアが泣きそうな声を出した。
「ごめんなさい」
「謝らないで下さい。私が勝手に押し込んで、敵を連れて行ってしまったような感じでもありますので」
口にすると、実際にその通りなのだと認識した。
改めて考えれば、リリアが一人でいた時、あの場所にいて見つかることはなかったのだ。誰かが見つけない限り、亜莉香が見つけない限りは安全だったのではないか。
やってしまった、と今更の後悔が胸を占めて、足が重くなった。
申し訳ない気持ちがいっぱいで、謝罪を述べる。
「本当に…私の方が余計なことをして、大変申し訳ありませんでした」
「違うの。私が強かったら、透や灯様のように戦えたら、こんなことにならなかった。こうなることは予想出来たのに、私は何もせずに待っているだけだったから」
段々と小さくなって、リリアが唇を噛みしめた。
話は噛み合っていないが、口を開くと謝罪の言葉しか出てこない気がして黙り込む。裸足になって冷たい地面を踏みしめながら、待っていてくれる花びらを追いかけることに集中した。
ほんの少しずつ誘導する花びらは、決して遠くへは行かない。
一定の距離を保って、どこかへ誘う。
どこへ向かっているのか。いつになったら着くのか。随分と遠く離れた場所に行き、道に迷った子供のような気分でいると、不意にリリアが話し出した。
「こんな風に…誰かと一緒に、あの家を出るとは思ってもみなかったの」
静かに亜莉香の耳に響いた声に、思わず疑問を口にする。
「ずっと、あの場所にいるつもりでしたか?」
「それが私の役目なら、それが正しいと思っていたわ。あの場所で王冠を護り続けて一生を終える。それしかないと、思っていた」
過去形で言って、だって、と小さく声が震えた。
「――変わるのは、何よりも怖いでしょう?」
同意を求めたリリアは息を吐いて、悲しそうに何もない闇を見た。切ない横顔を見た亜莉香が口を挟む前に、後悔が混ざった声で続ける。
「いつかは誰かに見つかるかもしれない。いつまでも隠れているわけにはいかない。頭ではわかっていても、身体が動かなかった。何度も森を出ようとしたところで、いつも次を待ってしまう。次こそ、今度こそ。そう願っている間に、透や灯様は手の届かない場所に行ってしまった」
私は、と言いかけた言葉を呑み込んで、リリアは瞳を伏せた。
「私は、臆病者で弱いから。結局、いつも何も出来なかった。何も、変われなかった」
「そんなことは――」
「そうなの」
亜莉香の声を遮った声は冷たく、淡々としていた。
「千年前から、変われなかったのは私だけなの」
話を無理やり終わらせたリリアが口を閉ざして、足音だけが辺りに響いた。
静まり返って、追って来る敵のことより、隣にいるリリアの方が気になった。リリアとは初対面に近くて、何も知らないようなもの。千年の魔女の御伽噺は聞いたが、それだって断片的な情報だ。
千年という長い月日を、たった一人でどんな風に過ごしていたのか。
考えたところで、答えは出ない。
「変わるのが怖いのは、少しだけ分かります」
上手く話せる自信のないまま、亜莉香は口にした。まとまっていない感情を持て余して、言葉を選ぶ。
「私はずっと、受け身で、何でも諦めることが多かったのです。今のままで、現状維持でいれば、周りを傷つけることも、自分が傷つくこともない。そう思って変わらないことを望んでいました。それはきっと、悪いことではないと思います」
今でこそ考えることはなくなった想いに、少しだけ懐かしさを覚えた。
「変わりたい、という気持ちがなかったわけじゃないです。もしも、なんて考えることも多くて、今とは違う自分になれたら。なんてことを、考えたこともありました」
でも、と息を継ぐ。
「その気持ちすら、今までの私がいてこその気持ちじゃないですか?変わりたいと望んだ時に、もう自分は変わり始めていて一歩踏み出している。変わらなくちゃいけない、と決めつける必要はなく、変わりたいと願うことが大切な気持ちだと、私は思うのです」
今までの年月を否定したくなくて、はっきりと言った。
いつの間にか亜莉香を見ていたリリアの、薄い灰色で微かに揺れる瞳に微笑んだ。長々続いた話を締め括りたくて、静かに問いかける。
「変わりたいなら、今からだって遅くありませんよね?」
「今、から?」
「はい。だって、私達は今を生きているのですから」
今、を強調して、踏み出した右足は軽かった。
後ろから敵が襲って来ようと、前には闇しかなくても構わない。心は穏やかで、温かな気持ちを感じる。
不意に前から暖かな風が吹き、優しく亜莉香の髪を揺らした。
少しだけ空高く舞い上がった花びらの奥で、走って来る人影が見える。リリアの名前を呼ぶ透の必死な姿に、亜莉香の口角は上がり、リリアは肩を震わせて立ち止まった。
涙を浮かべた瞳には透の姿しか映っていなくて、両手を胸の前で握る。
迷っている表情に、亜莉香はリリアの後ろに回って、強めの力で背中を押した。
「あ、亜莉香さん!?」
「臆病者でも、弱くても、何も出来なくても。千年前から変わりたくて、変われなくても。今の気持ちに嘘をつく必要はありません」
亜莉香を振り返ろうとしたリリアに、透を知っているからこその言葉を重ねる。
「セレストに着いたら、一番にリリアさんに会いに行くつもりでしたよ」
誰が、とは言わなかった。
大丈夫だと、声にしなくても伝わった。
迷いながらも前を見て、名前を呼ぶ人物に向かってリリアは駆け出す。上手に走れなくて転びそうになる前に、勢いよく透はリリアを抱きしめた。
決して離さないと言わんばかりに力強く、抱きしめられたリリアが息を呑んだ。
透がリリアの耳元で何か囁き、リリアは耐えていた感情が抑えきれなくなる。声を上げて泣き出して、人目も気にせず透にしがみつく。
離れた場所で二人を見守っていた亜莉香には、二人だけの会話は聞こえなかった。闇の中で抱き合う二人は光のようで、とても眩しかった。
やっと逢えた、と声が零れると、何故だか頬を涙が伝った。




