44-3 Side透
狭間の途中で亜莉香と別れて、ポケットに手を突っ込んだ透は一人で小石を辿る。
リリアを探しに行くと言った亜莉香を地上でネモフィルと合流させようとしたら、小さな兎はやって来た。亜莉香に懐いていた兎は見たことのある精霊だったが、透のことは全く覚えていない。
一人じゃなくなって安心した顔を見るに、内心探しに行く不安があったに違いない。亜莉香と兎を見送って、透だけが地上を目指して一人で歩き続けている。
何度も窓まで行き来したことがある道は、何年経っても変わらない。窓まで続く道を見つけたのは数百年も前の話で、生まれ変わる度に窓を覗いていた。
知らない世界を覗き見て、リリアやネモフィルに話していたのは二十年以上前の話。
窓を壊してしまったので、もう二度と向こう側に行くことはない。
それで良かったのだと、心の底から思えた。後悔はない。そもそも向こう側に行ったこと自体が、透にとって予想外の出来事だった。
「絶対に灯のせいだな」
誰もいないのをいいことに呟いて、ため息を零す。
生まれ変わっていると言っても、全てを覚えているわけじゃない。心に刻んだ千年前の最初の記憶や、一つ前の記憶ならまだしも、それ以外は曖昧だ。
鮮明に思い出せる記憶は、リリアやネモフィルと笑い合った日々。
目蓋を閉じれば、セレストで過ごした温かった時間が懐かしい。
ここ数年は新鮮で、刺激のある毎日だった。魔法のない世界で、今までの知識なんて通用しない。知らない世界、知らない人達の中で過ごしながら、心の中ではいつも自分のいるべき場所を求めていた。
亜莉香が迎えに来なくても、数日後には窓を越えていたはずだ。
予定よりは早まったが、折角だから戦いに参加する。
水花祭りの夜と言えば、恒例のようにエトワル・ラックが狙われる。いつからだったかは忘れたが、襲われてもネモフィルがいるのだから心配無用。
問題は亜莉香の方で、リリアを見つけられるかは半信半疑だ。
そもそも亜莉香は、灯と似ていない。瞳の色が違っても、見た目は最初の頃の灯そっくりだとしても本質が違う。灯は生まれ変わる度に魔力を上げ、透の先を行く存在だった。負けたくないと思えば思う程に、どこか異常で歪な気配があった。
魔力を使い過ぎるまで戦い続けて、いつも傷ついていた灯。
千年の時の中で顔を合わせたのは数回、いつも笑っていた。
亜莉香の魔力を封じたのは、灯と同じ道を辿らせないためとも言える。馬鹿な使い方をしなければ、もう少し長生き出来るはずと思いつつ、最初の頃は区別出来なかった。
昔は灯と言い間違えて、亜莉香を混乱させてしまったこともある。本人は覚えていないかもしれないが、透は覚えている。別人だと認識するまで時間はかかったが、亜莉香は一度も怒ることはなかった。
ただ少し困った顔をして、微笑んでいただけ。
成長する姿を傍で見ていたからこそ、亜莉香を灯と同一人物だとは言えない。その魂が同じでも、亜莉香は記憶を持たずに淡々と日々を過ごしていた。
それが幸せだったかと聞かれると、答えられないのが悲しいことではある。
考え事をしながら歩き、小石の先にあった光を抜けた。
瞬き一つで景色が変わり、竹林の中に出る。青々とした竹が覆い茂る場所はエトワル・ラックの近くであり、振り返れば何もない。
狭間はいつも同じ場所ではない。ゆっくりと辺りを見渡せば、竹と竹の隙間に闇がある。
そこを通れば同じ道に戻れるが、戻る気はさらさらない。戦いが終わっても亜莉香が戻って来なければ迎えに行くことにして、何となく空を見上げた。
空高く伸びる竹林の、遥か遠くの空の星々が輝いている。
色鮮やかな星は美しく、自然の光が地上を照らす。一つ一つは小さな光も、集まれば大きな光となる。空全体が明るくて、この光景を拝めるのは年に一度だけ。
「…て、星を眺めているわけにはいかないよな」
現実を思い出して顔を下げ、頭を掻く。
契約を結んでいるネモフィルが、透が帰って来たことに気が付いていないはずがない。何も言ってこない方が恐ろしいのは、長年の付き合いで分かっている。
あの短気が怒りを爆発させるのは、間違いなく時間の問題だ。
急いでエトワル・ラックに向かおうとして、近くの竹の根元に着物とお面を見つけた。無地で濃紺の着物と、皺がくっきりと描かれているふくよかな表情のお面。髭があり、笑っているように見えるお面も着物も、以前の透がよく身に付けていたもの。
誰の仕業かと考えれば一人しか思い浮かばず、有難く着物の袖に手を通した。
すぐに顔を隠せるようにお面を頭に括り付けて、少しだけ顔からずらしておく。
気合を入れて駆け出せば、身体は自然と加速した。緑の精霊が傍に寄ると力を貸して、思いっきり踏み込んだ。通り過ぎる景色を見向きもせず、一直線にエトワル・ラックを目指して駆け抜ける。
湖であるエトワル・ラックの周りには、警備隊やルグトリスがいた。
戦っている連中は後回しにして、エトワル・ラックの中心で戦っている数人を見つけた。その中で地面に両手をついて、魔法で凍らせた湖の表面を維持する女性は、二十年前を最後に顔の見ていなかった人。
母親だった女性の傍に、おそらく弟だった青年。
立派に成長した青年には二十年前の面影があり、母は少し老けた。父の姿はないが元々戦いに向いていない人だったことを思い出せば、この場にいない方が納得する。日本刀を振り回して戦う青年は小柄な少女を相手に苦戦して、必死に母を護っている。
何故かネモフィルが人の姿で母を護っていて、少女を睨みつけていた。
少女をよく見れば人には見えず、ルグトリスに近い存在だ。
全身から溢れ出る黒い光が、肩より長く明るい黄色の髪を曇らせる。白い菊の花が描かれた黒い着物に、身軽な身体で右手には小さめの刀。
狂気に満ちた表情は、血に飢えた表情でもあった。
時折少女の身体から黄色の光が放たれ、小さな雷の魔法を繰り出して妖しく笑う。楽しそうに可笑しそうに、少女は戦いを楽しんでいる。
気に喰わないなと思いながら、湖の傍を走り抜けた。
数人の引き止めるような声が聞こえた気もするが、それらは無視した。走りながらお面で顔を隠して、右手に意識を集中させる。
ほんの一瞬にして、手の中に温かく小さな存在を感じた。
足を踏み出した氷の上には瑠璃唐草の紋章が浮かび、手の中の存在が青い光を発する。
光は形を変えて、現れたのは日本刀。
しなやかな曲線の儚い白銀の刃は細身で美しく、手に収まった柄は深海のような深い青。刀身の手物には王冠の模様が刻まれ、その中心には青く澄んだサファイア。その近くには小さいが、光の反射で幾つもの瑠璃唐草の模様が薄く浮かび上がる。
現れた日本刀を握りしめて、空高く舞い上がった透は日本刀を頭上に掲げた。
少女の頭を目掛けて一撃を与えるつもりが、奇襲は気付かれて掠っただけで終わった。驚きながら身を引いた少女に、続けて攻撃を仕掛る。踏み出して、片手で突き出した日本刀の剣先が少女の肩に食い込んだ。
少女の顔が歪み、空いていた左手で日本刀を掴む。
引き抜こうとした日本刀から赤い血が滴り、透を睨みつけた少女が低い声を出す。
「誰?」
「名乗るほどの者じゃない。名前が聞きたかったら、先に名乗るんだな」
答える気もなく言えば、肩の痛みを感じない少女は乾いた声で小さく笑った。
「誰でもいい。どうでもいい。主様の邪魔は誰にもさせない。王冠も、宝石も、この国にあるもの全ては主様のもの――」
段々と早口になった少女の左手が黒い光に包まれ、素手で日本刀を折ろうとする。
それくらいで折れるような代物ではないが、引き抜こうにも少女が手放さない。全身からも黒い光が溢れ出し、このままでは闇が広がって、この地のルグトリスの力が増していく。
勝利を確信した顔をしたかのように、少女の口角が上がった。
さてどうしよう、と呑気に考えた透に向かって、後ろから叱咤の声が飛ぶ。
「どうしよう、なんて考えている暇ないでしょう!」
響いた声に透の肩が上がって、顔だけを動かしてネモフィルを見た。
母の隣に立って両手を力一杯握りしめ、薄っすらと涙を浮かべて身体を震わせる美女の威圧感が凄まじい。ネモフィルがその場にいるだけで明るく見えて、実際は精霊としての光を抑えきれずに発していると冷静に判断した。
それすらネモフィルに伝わったようで、怒りが爆発する。
「そもそも奇襲に失敗しているんじゃないわよ!連絡はずっとないし、帰って来るのは遅いし、あんたがいなくなって私がどれだけ大変だったか分かる!?」
「そ、それは申し訳ないと――」
「五月蠅い。五月蠅い!謝る暇があるなら、現状をどうにかして!!」
ネモフィルが叫んで、色々考えるのをやめた。
謝罪と言い訳は後にして、話を聞いていた少女に向き直る。次の行動を待っていたかのような雰囲気を感じて、透は日本刀を握っている手に力を込めた。
「なあ、そろそろ放してくれない?」
「嫌」
「なら、仕方がないよな」
お面の下で表情を消した。少女の右手には刀があるが、それは小さく透に致命傷を与えるには急所を狙うしかない。対して透も日本刀を握られたままで、攻撃を与えられない。
動けないが、戦う術は一つじゃない。
「【銀の刃に宿るは貴き雫】」
滑らかに口から零れた言葉に、日本刀が淡く青く光った。
「【この地に宿るは清き力】」
エトワル・ラックの表面も輝き出して、青い精霊達が傍に寄って来る。少女の闇を恐れて近づかなかった精霊が透に触れ、魔力を与えてくれた。元々持っていた魔力と精霊が与えてくれる魔力の流れを、日本刀に集中させて足に力を込める。
どんな魔法を使うか、目の前の少女は何も知らずに瞳を輝かせた。
その眼差しには悪いが、期待に応えられる気がしない。これから紡ぐ魔法は攻撃するための魔法ではなく、鎮魂歌とも言える祈りの魔法。
「【迷い囚われ動けぬ者達よ。汝の悲しみ、苦しみ、憎しみ、嘆き、痛みは全て我が引き受ける。空に集う雫は憂いて、渇きを潤し汝の心を解き放つ】」
空高い頭上で白い光が集まって、一瞬だけ瑠璃唐草の紋章が浮かび上がった。
それはエトワル・ラックよりも大きく、瞬きをした途端に消えた光。光に気が付いた者は少なく、その数少ない一人である目の前の少女は目を見開いていた。
少女が驚く声を出して透を振り返る前に、言葉を連ねる。
「【この声届く生きる者達よ。汝を癒し、清め、潤し、力を与えて、痛みは全て我が引き受ける。空に集う雫は喜び、この地で汝の心に光を宿す】」
「何を言って――」
「【悲しき者を我は許す】」
戸惑った顔になった少女を無視して、はっきりと言い切った。
「【小さき者を我は護る。瑠璃草の紋章を持つ――我が名にかけて】」
静かに言い終わると同時に、日本刀から雫が落ちた。
その雫が合図となって、星空からぽつりと雨粒が零れる。ぽつり、ぽつりと降り出した雨のような、小さく淡い白と青の光の雫は儚くも美しい。
白い光はルグトリスの動きを止め、青い光は傷ついた人々の怪我を治す。
魔法の雫がエトワル・ラックだけに降り注ぎ、戦況は大きく変わるだろう。ルグトリスの動きは鈍くなっていき、戦っている者の勢いが増すはずだ。
目の前にいた少女に雫が当たって、痛みを感じたように身体を抱えた。その隙を見逃さずに問答無用に日本刀を引き抜いて、よろけた少女に向かって構え直す。
非情だと周りから思われても構わない。
闇に落ちてしまった少女を助ける術はなく、義理もない。
未だ勝利を確信している少女を冷ややかな瞳で見下ろして、お面の下で呟く。
「ごめんな」
掲げた日本刀を避ける素振りはなく、力一杯振り下ろした。銀の刃は少女に首に斜めに食い込んで、首が呆気なく落ち、身体だけが残る。
「あーあ、取れちゃった」
身体は崩れることなく、首と身体が離れた少女の声がした。
普通の人なら死んでいる状況に、驚いた声ではない。
少女の首が動いて透を見つめた。大きな黄色の瞳の奥に、どこまでも続く深い闇。後ろでネモフィルの悲鳴が聞こえたけど、今は少女から目を逸らせずに肩を落とす。
「なんだ、お前はやっぱり死なないのか?」
「死なない。死ねない。死んではいけない。私の役目は、まだ終わってない」
「役目…?」
「死んでも生きて、生きることは死ぬことだから。私は死なない。死ねない。役目を果たして、主様に褒めてもらうの」
楽しそうに同じことを繰り返す少女に、呆れた透は首を傾げた。
意味の分からないことを繰り返す少女は、首を刎ねても、おそらく心臓を日本刀で突き刺しても死なない。身体がばらばらになっても心が繋ぎ止め、動き続ける人の形をした闇の者。
誰もが遠巻きに眺める異常な光景に足が竦んでも、透の身体は平然と動いた。落ちていた少女の五月蠅い頭を掴んで、一部始終を見ていたネモフィルを振り返る。
「なあ、ネモ。とりあえず、これをどこか遠くに運んでくれないか?」
「嫌に決まっているでしょう!自分で何とかしなさいよ!」
「だよなー」
軽く言って、口の止まらない少女を見た。
闇の者を永遠に葬り去る方法など知らない。こんな風に仕掛けてくることは度々あった。その都度追い返して、何度だって戦って追い払って。
何かを企んでいることは間違いない。
少女の言う役目が気になるが、話してくれるとは思えない。
五月蠅い少女に冷ややかな目を向けて、凍れ、と念じた。掴んでいた髪の毛から澄んだ水色の氷に包まれ、笑い声が小さくなる。頭が凍ると身体にも影響が出て、首元から凍りついていった。
何だかな、とぼやいた。
二十年前とは、何かが違うのだ。
それを明確に理解することは不可能で、心の中に小さな違和感ばかり増える。護人のことも、闇の者のことも、透の知らないところで何かが変わって動いている。今まで繰り返された出来事から外れて、知らない道に迷い込んだ気分。
考えていても仕方がない。ぱっと地面に落とせば少女だった何かが砕けて割れて、身体も一緒に粉々になった。氷の破片が風に吹かれて傍を通り過ぎ、見送ることなく踵を返してネモフィルの元へ向かう。
「みーつけた」
小さくも嬉しそうな声が耳元でして、透は勢いよく振り返った。




