44-1
息が苦しくなって空気を吸えば、水を吸い込むことなく呼吸が出来た。
浮遊感を感じて、亜莉香はゆっくりと瞳を開ける。とても不思議なことに、瞳に映ったのは無色透明な水。小さな魚が目の前を優雅に泳ぎ、落ち葉が漂う。遥か彼方まで続く空間に終わりは見えず、奥に行くにつれて濃紺の果てが見えた。
水底に沈んでいく落ち葉のように少しずつ、身体は暗闇の世界に沈んでいく。
魚を目で追って見上げれば水面があり、その奥に青空と誰かの影が見えた。
その影は小さくなって見えなくなり、下を見れば一歩先に透の背中がある。左手首は掴まれたまま、透に声をかけられるか迷ったのは一瞬で、小さく口を開けた。
「…透?」
「どうした?」
水の中を泳ぐようにして身体の向きを変えて、透は亜莉香と向き合った。沈んでいくことを平然と受け入れて、微笑んでいる透に亜莉香は問う。
「これってどんな状況?」
「どんなって、沈んでいるだけだろ?」
「そうだけど…沈んでいたら、セレストに帰れるの?」
「そのうち底に着いて、窓を探す。沢山の窓があるけど、セレストに繋がっている窓は一つだ。亜莉香がやって来た窓と同じ窓がどこかにあるから、俺達はそれを探して通り抜ければ帰れるはず」
何てことなく言って、透は身体の向きをまた変えた。
いつ底に辿り着くか分からないのに、透の背中には迷いがない。周りは徐々に暗くなっていき、透の姿は僅かに光っているかのように明るい。それは亜莉香も同じようなもので、暗闇の中でも自分自身の姿が見下ろせて、ここがどこか呑気に考えた。
池の中、と言うには深く沈んでしまっている。
池からどこかに繋がって、狭間にいると言われた方が納得出来た。
どんどん沈んで、時々宙に浮く窓の傍を通り過ぎる。四角い窓や三角の窓、カーテンで閉められた窓や、頑丈な鍵の掛かった窓。金色の縁で高価な窓や、今にも壊れてしまいそうな木の枠の窓。
幾つもの窓を見送って、時間の感覚がなくなった。
もう何時間も沈んでいる気がした頃に、真下に光る小石が一つ見えた。
そこに底があり、先に降り立った透に続いて亜莉香の足が底に着く。透は本当に底があるのか何度か足で確かめて、亜莉香は周りを見渡した。
暗闇しかなくて、足元には光る小石しかない。
窓もないと思えば、手を離した透が亜莉香の名前を呼んだ。
「さて、窓を探そうぜ」
「どこにもないよ?」
「探せばあるだろ」
行こうぜ、と気楽な透に導かれて、亜莉香は歩き出す。
歩いていると、確かに窓があった。背の届かない高い位置にあったり、底すれすれの低い位置にあったり。マンホールのように底に存在している窓があったり、底と水平に存在している窓があったり。
どこかにあるはずの窓だけが、全く見つかる気配がない。
遠くから窓を見つける度に、違う窓だと分かっても近寄った。一つを見つければ、すぐ傍に違う窓があることもあれば、暫く歩かないと見つからない時もあった。
様々な窓を一つ一つ確認して前に進みつつ、セレストへ繋がっている窓を探す。
見るからに楽しそうな透の隣を歩き、亜莉香はため息交じりに言う。
「中々見つからないね」
「まあな。この空間にどれだけの窓があって、幾つの場所と繋がっているかは俺も知らない。けど、世界はこれ以上に広いってことだよ」
不安の欠片もない透の言い分に納得はしても、見つからない不安が消えない。
「このまま見つからなかったらどうしよう、なんて考えてもいないでしょ」
「当たり前だろ。そのうち見つかると思っているからな」
「その自信って、どこから来るの?」
呆れた声も混ざって言えば、透は前を見据えながら答えた。
「だって、隣には亜莉香がいるだろ」
瞬きを繰り返した亜莉香に対し、優しい声が続く。
「ここにいるのは、俺一人じゃない。今は亜莉香がいるから、前に進み続けることが出来る。この空間だけじゃなくて、どこにいても、誰といても。一人ぼっちじゃなければ、俺はどこへでも行けて、行きたい場所に行けると思う」
だから、と一呼吸を置いて、透は亜莉香を振り返った。
両手を頭の後ろに回して、にやっと笑う。
「歩き続ければ、俺達は絶対に帰れる。だろ?」
「そういうもの?」
「そういうもの。まあ、探している窓がなかったら、別の窓でも通ってセレストに帰ろうぜ。似ている窓なら同じ世界だろうし、間違っても引き返せばいい話だろ」
大丈夫だと、言葉にしなくても気持ちが伝わった。
現状を楽しんでいるようにも見える透が傍にいると不安は薄れて、何となく離れないように傍に寄る。肩が触れ合う距離でいると、さっきより息がしやすくなった。
「…次はどんな窓だろうね」
「せめてガランスかシノープルに続く窓でもあれば、そこから帰ってもいいよな。近くに水があれば、俺の魔法で遠距離移動が可能だし」
「透って、そんなことも出来るの?」
「ネモよりは遅いけど、水が繋がっている場所なら移動可能範囲ではあるな。水を集めて大洪水を引き起こすのも得意ではあるけど、披露する場が滅多になくてさ」
笑っている透はとても簡単なことのように言うが、大洪水など起こして欲しくない。ネモフィルも同じようなことを言っていた気がして、契約者同士が似た者同士なら、いつか亜莉香とピグワヌも同じような関係になるのかもしれない。
食い意地を張るような所は似ないようにしようと心に誓えば、不意に透が足を止めた。
何事かと透を見れば満足そうな顔をして、立ち止まった亜莉香と目を合わせる。ゆっくりと数メートル先を指差して、透の視線の先を追う。
「ほら、見つかっただろ」
現れたのは暗闇に溶け込む、黒い窓枠の丸い窓だった。




