43-5
窓に足をかけ、音を立てずに着地しようとしたら、誰かに背中を押された。
驚いた声が出て、前のめりになりつつも、両手を床に付けずに済んだ。ほっと安心したのは一瞬で、顔を上げれば店主と目が合い、亜莉香は苦笑いを浮かべるしかない。咄嗟に言い訳を言えずにいると、店主は何事もなかったかのように電話を終えた。
ほんの少しでも視線が外れた隙に姿勢を正して、亜莉香は喫茶店を見渡す。
何度も通った喫茶店に、大きな変化はない。深い茶色で統一された椅子やテーブル、カウンター後ろの壁に飾られた様々なティーカップ。
振り向いた窓の外は、澄んだ水色の晴天だった。
温かな日差しが降り注ぎ、ちらほらと行き交う人々。制服姿でお喋りしながら歩く女子高生の集団やスーツを着た男性、当たり前だった光景が眩しくて目を細めた。
「良かったら、何か飲みませんか?」
声を掛けられたのだと、気が付くのに数秒かかった。何故か笑みを浮かべている店主を振り返り、緊張した亜莉香が口を開く前に店主は言う。
「丁度、昨日の残りのケーキがあります。他のお客様が来る前に召し上がって下さい」
「いえ、でも…」
「食べて頂けないと、ケーキは廃棄するだけになりますので」
そこまで言われると拒否するのは難しくなり、亜莉香は重たい足を引きずって一歩踏み出した。定位置でもあったカウンターの隅から一つ空けた席に座ると、準備していたかのようにケーキが差し出される。
真っ白な皿に、真っ赤な苺のショートケーキ。
艶やかな苺を二回、ふわふわのスポンジと真っ白なクリームで挟んである。おそらく昨日の残りではないと分かっても、今更返すことはなく素直に受け取った。
金のフォークで一口食べると、優しい甘さが口の中に広がった。
肩の力が抜けて、フォークを皿に戻す。
「あの…突然お邪魔して、ケーキまで出して頂いて、本当に申し訳ありません」
「こちらが勝手にしたことですので、気にしないで下さい」
それに、と言いながら、店主が熱々のマグカップをケーキの皿の傍に置いた。甘ったるい匂いはココアの匂いで、亜莉香の視線は熱々の飲み物に注がれる。
「時折、この店には不思議なお客さんがいらっしゃいます。どんな方が来てもケーキを出して、珈琲を飲んでもらう。それがこの店です」
「珈琲、ですか?」
マグカップの中は間違いなくココアで、珈琲ではなく聞き返した。
店主はカウンターで開店の準備をしながら、物腰の柔らかい笑みを浮かべて頷く。
「貴女には、珈琲ではなくココアを用意しました。それも熱々の、その方が相応しい気がしたのですが、甘いものは嫌いでしたか?」
「…いえ」
「それは良かった」
饒舌な印象はなかったはずの店主との会話に、亜莉香は戸惑って口を閉じる。甘いココアの味は変わらずに美味しいのに、全く知らない場所にやって来た気分だ。知っている場所、知っている人のはずが何かが噛み合わない。
その何かは、店主の一言で判明した。
「お名前を、伺っても?」
たった一言で、体の芯まで凍りついたように動けなくなる。
「言いたくなかったら、答えなくても構いません。無理やり聞き出すつもりはないのですが、時折やって来るお客様達はいつも一期一会で、突然現れてはいつの間にかいなくなってしまいます。力になれることはなかったかと、いつも感じてしまうのですよ」
店主の声が半分も耳に入らない。動揺していることに気付かれないように、両手でマグカップを包みこんだ。顔を下げて、唾を呑み込む。
目の前にいる店主は、亜莉香を知らない。
店主だけが忘れてしまった、とは思えない。
喫茶店には何度も透と足を運んだし、店主とも何度も話した。忘れっぽい透と違って、店主は事細かいことまでよく覚えている人だった。
帰るのを恐れていた元の世界に、亜莉香を覚えている人がいない。透以外の人々が忘れてしまった世界なら、両親も何も覚えていないのかもしれない。突然いなくなって迷惑をかけたなんて心配する必要はなくて、最初からいなかった存在に変わってしまった。
それを悲しめばいいのか。喜べばいいのか。
自分の感情が分からなくなって、奥歯を噛みしめた。
不意に喫茶店の扉の開く音がして、亜莉香の思考は停止する。
「…亜莉香?」
疑問形で名前を呼ばれて、ゆっくりと振り返った。
久しぶりに再会した少年の背は変わりなく、開いた口が塞がらない。黒い短髪に、大きく見開かれた黒い瞳。学生服の下に前開きの水色のパーカーを着こんで、下は指定の長ズボン。靴は新品のように綺麗な青い靴紐のスニーカーで、相変わらず可愛らしい容姿。
無理やり笑み作って、亜莉香は口を開く。
「久しぶり」
「久しぶり――じゃないだろ!なんでここにいる!?」
叫びながら透は近づくや否や亜莉香の両肩に手を伸ばした。半場無理やり向き合って、お互いに視線を逸らさない。
「あっちで何かあったのか!?また、こっちまで逃げなきゃいけない事態が――」
「落ち着いて。私は透を迎えに来ただけだよ」
肩の力を抜いて、亜莉香はため息交じりに呟いた。
両手を膝の上に乗せて、動揺している透の瞳を覗き込む。
「ネモが透を呼び戻してと、私にお願いしたの。だから一人で、ここまで来た」
「亜莉香がこっちに来なくても、俺は自力で帰ったのに」
「あんまりにも遅いのが、悪かったと思うよ?」
違うかな、と同意を求めると、透は手を離して、カウンターに右肘をついて頭を抱えた。左手を小さく上げて、店主の顔を見ずに言う。
「マスター、悪いけど俺にもココア頂戴。冷たいやつ」
「畏まりました」
空気を読んだ店主が少し離れてから、亜莉香は身体の向きをカウンターに戻した。
早く透と一緒にセレストに戻らなければいけないのに、今は透と話をするのが先だと思った。混乱しているようにも見える透が、まともに話せるようになるまで静かに待つ。
ココアで喉を潤していると、隣の席に座って顔を上げない透が小声で訊ねた。
「…そっちは今、いつだ?」
「七夜月。水花祭りの日と言った方が分かりやすい?」
小さく頷いた透の視線は下がって、亜莉香が横目で透を見ても交わることはない。その表情は悲しげで、悔しそうに両手を強く握る。
飲んでいたココアを置いて、そっと訊ねる。
「こっちは、いつなの?」
「三月も終わり。今は春休み」
「それなのに制服?」
「補習の帰りだったから、家に帰らず昼を食べに来た。まさか亜莉香がいるなんて、夢にも思わなかったけど」
ようやく顔を上げた透がぎこちなくも微笑み、ごめん、と小さく謝罪した。
「わざわざ迎えに来てくれたのに、怒鳴ってごめん」
「もういいよ。気にしていないから」
本当に、と小さく付け加えた。
冷たいココアが運ばれて、グラスに氷が当たった音が喫茶店の中で響いた。店主は声を落として、外に行って来ます、と声をかけていなくなる。
その背中を亜莉香だけが目で追って、店の前の掃き掃除をする店主を扉越しに眺める。
冷たいココアに手を伸ばすと、瞳を伏せた透は一口飲んでから話し出した。
「マスターとは、何か話したか?」
「うん。少しだけ…私のこと、何も覚えてなかったよ」
淡々と述べた事実に、胸の痛みはなかった。
「誰も私を、覚えてないのかな?」
「…そうだな」
素っ気ない回答を受け止めて、そっか、と小さく言った。
それならそれで仕方がない、としか思えない。思い出して欲しいとは思わなくて、今だからこそ、一つ一つを確認する。
半分以上無くなったココアのマグカップを両手で包み込んだまま、深く息を吐いた。
「私がいなくなったのは、高校一年の冬だった。冬だったのに、ガランスは春で桜が咲いていた。あれから一年以上が過ぎて、今のセレストでは夏。それなのに、こっちは春。凄く変な感じがする」
「季節がずれているみたいだ。どっちが先かは、俺にも分からない。少なくとも亜莉香がいなくなった冬から一年ちょい過ぎたのが、俺の時間の感覚」
手に持っている僅かな振動で、ココアに波紋が起きた。
じっと見つめてから、そっと問う。
「透は…今、十七?」
「この二月に、な」
「誕生月一緒だったのに、私が年下になったね。私は十五でガランスに行って、季節が戻ったと思ったから…今、十六のつもりなの」
実際どうなのだろと、ふと考えた。
ガランスで過ごしていた日々に時間を重ねて、どこで年を重ねるのが正しいのか。生まれた日は覚えているから、ずれた時間を足してしまうべきなのか。
それは何か違う気がした。
春が巡る度に、一年が過ぎる。
誕生日に執着心がないから、それくらいの感覚の方がしっくりした。ココアから顔を上げて、亜莉香は口角を上げる。
「今の透は、私より年上だね。ちょっと信じられない」
「信じられないって何だよ」
ぶすっとした顔になって、透はグラスの傍に置いてあったストローを挿した。グラスを片手に肘をついて、顔だけ亜莉香の方を向く。
「そもそも、いつだって俺が年上だ。俺は亜莉香の兄だからな」
「血は繋がっていないのに?」
「関係ない。俺は緋の護人の兄で、瑞の護人。何回生まれ変わっても、親が違っても――亜莉香は俺の大事な家族だろ」
微笑んだ後に、透はカウンターを向いてココアを飲んだ。隣を見ないように配慮して、何も言わずストローで氷のグラスを回す。
透から視線を外して、亜莉香も前を向いた。
いつだって、慈しむ眼差しをくれたのは透だけだった。
両親と目を合わせたことなんて数える程で、二人に会ったところで亜莉香の存在は記憶から消えている。生みの親は何も覚えていなくて、初対面の相手として接するだろう。
正真正銘、赤の他人。
赤の他人より隣にいる透の方が傍に居て、家族と言ってくれた。
胸に悲しみを感じたのは、今日まで透の想いを何一つ知らなかったこと。透が家族として扱ってくれたことに、何も気付けなかったこと。
半分以上残っていたショートケーキを口に入れて、悲しさと一緒に飲み込んだ。
「相変わらず、この店のケーキは美味しいね」
「話を切ったな。折角俺が格好いいこと言ったのに」
「私も透のこと家族だと思っているよ」
素直な本心が零れた。
何か言いたそうな透の視線を無視して、ケーキをもう一口食べる。余計なことは言わないけど、いつだって気にかけて見守っていてくれる優しさが心に染み渡る。
亜莉香は黙ってケーキを食べて、透は静かにココアを口に運んだ。




