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ウルカが絶品と言った鰻重の意味が、よく分かった。
炊きたての白米を隠す、旨味の凝縮された鰻の蒲焼。重箱の中で白米と鰻が交互に重なって、甘しょっぱい醤油とみりんのタレが白米に染み込み、山椒を振りかけたふわふわの鰻がよく合う。箸休めの浅漬けも、やっぱり美味しい。
食欲がなかったはずなのに、思わず箸が進む。
亜莉香が半分食べ終われば、ウルカは残していた四分の一を茶碗によそった。山葵や刻み海苔の薬味を乗せて、出汁を注いで頬を緩める。
「毎年、この時期の鰻は美味しいのよね」
「絶品ですね」
「そうでしょう?これが楽しみで、私は毎年夜会に参加している程ですもの。足りなかったら、おかわりは如何かしら?」
魅力的な提案に頷くには、まだ鰻重が残っていた。
少し考えて、亜莉香は駄目元で訊ねる。
「一緒に来た友人に持って行くことは出来ますか?私だけが美味しいものを頂くのは、何だか申し訳なくて」
「夜会には招待されていないけど、他に二人の友人と一緒に来たのよね?牡丹の騎士から、その話は聞いているわ」
左手で茶碗を持ち、うきうきとした表情のウルカが言った。
どのタイミングで一口を食べようか、楽しそうにも見える。亜莉香の手は止まり、首を傾げて質問を重ねた。
「初日に、牡丹の騎士から聞きましたか?」
「ええ、その通り」
ぱくっと、一口だけ食べて、ウルカが満面の笑みを浮かべた。もう一口食べる前に、きらきらと瞳を輝かせて亜莉香を見た。
「何人分、必要かしら?」
「三…いえ、四人分あると嬉しいです」
ルカとルイ、フルーヴを思い浮かべた後に、夜会にいるはずのトシヤのことを考えた。既に食事を済ませているかもしれないが、美味しいものは皆で食べたい。トシヤが食べられなかったら、ルイが二人分でも食べてくれるはずだ。
数についてウルカが追及することはなく、快く承諾する。
「では、急いで用意させましょう」
もう一口、と頬張るウルカに、亜莉香も鰻重を口に運んだ。
癖になる美味しさに、箸の止まらない気持ちがよく分かる。最後まで食べるのを我慢して、ウルカは湯呑に手を伸ばした。
「そう言えば、迷える小兎はアンリ様とも顔見知りなのよね?ご健在でいるかしら?」
「お元気だとは思います」
手紙でしか会えない相手に、曖昧な返事しか言えない。
「そう…では、カリン様は?」
聞き慣れない名前の相手を思い出すのに時間が必要で、誰か分かっても亜莉香は困った顔をするしかない。
シンヤとアンリの母親である、ガランスの領主と顔を合わせたことはない。名前は憶えていても、アンリやシンヤから話を聞くことも少ない。踏み込んではいけない話題だと、亜莉香は肌で感じていた。
何かを探る瞳に、素直に答える。
「私はお会いしたことがありませんので、何とも」
「会ったことがあるのかと思ったわ。牡丹の騎士の友人である、貴女ならね」
友人を強調して、ウルカは使用人にお茶のおかわりを頼んだ。
「まだ若いのに領主になられた方なのよ。アンリ様が生まれた後に、私がガランスを尋ねて以来お会いしていなくて…あまり思い詰めなければいいけど」
独り言のようにぼそぼそと、ウルカが言った。
よく聞こえなかった声が気になりつつ、亜莉香は鰻重を食べる。最後を噛みしめるようにウルカが鰻重を食べると、静かだったバルコニーに誰かの声が届いた。
若い男性の声に、ウルカは平然とした態度を貫く。
夜会を隔てるカーテンの傍が微かに騒がしくなり、亜莉香は視線を向けた。
「母上!」
引き止める声を無視して、眉間に皺を寄せた若い男性が乱入した。
亜莉香には気付かずに、一直線にウルカの元へ進む。
ウルカと同じ髪で、透き通る水のような水色の短髪。凛々しい面立ちで、少したれ目の瞳は藍色。瞳の色は違っても、母親であるウルカと並ぶとよく似ていた。
二十歳を過ぎた次男であり、次期領主のツユの登場に亜莉香は呆然とした。
箸を持ったまま、目の前の光景を眺める。
「また鰻重ですか!いい加減にして下さい!」
「あら、貴方だって毎年美味しそうに食べているじゃない。一緒にどう?」
「夜会の途中で食べるのをやめろと言っているのです!客人の相手を父上に任せて、一人で休んでいる暇はないでしょう!」
「貴方の父上は快く許可してくれたわ」
澄まし顔のウルカに、ツユの怒声が止まらない。日頃の恨みが溜まって叫ぶツユに対して、ウルカは始終適当に聞き流していた。
どうする事も出来ないでいると、ひっそりと貴婦人がやって来た。
ツユとお揃いの紺青の着物に、瑠璃唐草が描かれていた。ツユの着物は無地で、袴は暗い黄緑色。貴婦人の着物にだけ描かれた花は本物のように綺麗で、帯は白地に大きな花模様。
儚く美しい、空の色の髪の貴婦人の深い海色の瞳と目が合った。
気まずい亜莉香に貴婦人は微笑み、あなた、とツユの腕を引っ張った。
「落ち着いて下さい」
「カイリ、今はそれどころじゃ――」
「お客様の前ですよ」
困った顔の貴婦人、ツユの奥方であり、ウルカの義理の娘。カイリの一言で、食べる途中だった亜莉香をツユが睨みつける。
「どこのご令嬢なのか存じ上げないが、暫し席を外して頂けるか?」
「どこのご令嬢とは失礼よ。この方は、シンヤ様のご友人なの」
シンヤのご友人、と繰り返したツユの瞳に憐みが浮かぶ。
「あの、シンヤの友人とは災難な」
「年が近いのだから、仲よくなさいよ。そんなことを言うために、わざわざ来たのかしら?時期当主の貴方こそ、そんな時間があるなら客人をもてなしなさい」
右手を頬に当てて、しみじみと言ったウルカがツユを煽る。
慌ててカイリが引き止めて、恭しくウルカに頭を下げた。
「お食事の邪魔をして、申し訳ありません。娘のマホリが泣き止まないようで、様子を見るために一時夜会を退出したく参りました。セイハ様一人に任せるのは気が引けまして、ウルカ様にお戻り頂ければと」
「あら、それならさっさと行きなさいな」
態度を変えて、ウルカは優しく微笑んだ。
残っていた茶碗の鰻重を見て、一気に口に放り込む。勢いよく立ち上がると、夜会に戻ろうとした亜莉香を制して、傍に寄りテーブルの上の氷の結晶を手に取った。
亜莉香の髪に触れて、髪飾りが元の位置に戻る。
領主の奥方らしく淑女を思わせる笑みで、ウルカは亜莉香と顔を合わせた。
「アリカさん、食べ終わったら外に出なさい。これ以上夜会にいても、貴族達に囲まれて疲れるだけでしょう。話は通しておくから、人のいない道で帰れるわ」
「ですが、まだシンヤさん達が夜会にいるので――」
「約束は果たされたのだから、問題ないの。貴方は息子のツユと会って、言葉を交わした。紹介は終わったのよ」
遮ったウルカが、優しく亜莉香の頭を撫でた。
懐かしい幼馴染の接し方と、よく似ている。髪が乱れないように手加減されて、心の中で確信が生まれた。
見た目じゃない。
その心が、態度が、親子だから透とウルカは似ている。
「ありがとうございます。ご厚意に甘えさせて頂きます」
言いたくても言えない言葉を飲み込んで、亜莉香はお礼を述べた。
ふっと笑みを零したウルカが頷いて、颯爽と踵を返す。
その後に続いて、不機嫌な表情を一瞬で消したツユと、亜莉香に一礼したカイリがいなくなる。出て行く前にウルカが使用人を呼び、バルコニーに一人だけになった。
残っていた鰻重を見て、箸が止まった。
食欲より、沢山の疑問が浮かぶ。どうして二十年前に透が姿を消したのか。護人だとウルカ達は知っていたのか。当時の透は何を考えていたのか。
何か知っているはずの水の精霊の名前を呼べば、答えは分かるかもしれない。
それでも、と小さく呟いて、星空を見上げた。
明日には、本人に会って今までのことを聞き出せる。透にしか分からないことも含めて、聞くべき相手は水の精霊じゃない。
結論に辿り着いて、亜莉香は残りの鰻重を茶碗に移すことにした。




