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Last Crown  作者: 香山 結月
序章 薄明かりと少女
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04-5

 市場を抜け、家に向かう裏路地を歩きながら、亜莉香は隣を歩くトシヤに問う。


「先程のパン屋さんが、昨日トシヤさんが言っていた、居候先の候補でしたか?」

「一応。問題はおっさんの仕事が忙しいのと、あの夫婦の喧嘩が多いことだな。俺が行くとよく口喧嘩しているから」

「そんなに喧嘩しているのですか?」

「一週間に一回?いや、三日に一回か?」


 疑問形で答えながら、トシヤ自身が考える。

 どっちにしろ、喧嘩するほど仲が良い夫婦なのだろう、と一人納得して、亜莉香は前を見ながら歩いた。口を閉ざした亜莉香の顔を横目で確認したトシヤが、遠慮がちに問う。


「アリカは、さ。パン屋のおっさんの家で居候したかった、とか思った?」

「何故ですか?」

「いや、さっき魅力的だ、とか言っていたからさ」


 亜莉香の方を見ずに言ったトシヤの本心が分からず、少し間を置いてから答える。


「美味しいパンは魅力的でしたけど、昨日決めましたから。暫くはお世話になる、と。それに受けた恩はきちんと返します」

「昨日の夕飯でも、十分な恩に相当するけど?」

「あれくらいじゃ、恩を返せたことになりませんよ」


 本当に、と心の中で亜莉香は言葉を続けた。


 行き場のなかった亜莉香にとって、トシヤやユシアの存在が、どれほど大きかったのか。上手に説明出来ず、それ以上は言えない。

 笑みを浮かべた亜莉香を見て、よかった、とトシヤが呟く。


「アリカがいないと、夕飯に困るから。いてくれると、本当に助かる」

「それなら、今日も頑張って夕飯作りますね」

「よろしく」


 亜莉香の方を振り返ったトシヤと目が合って、どちらかともなく笑った。


「今日は何を――」


 作りましょうか、と言う途中で、亜莉香の目に映ったのは、細い路地の行き止まりに、揺れる黒い影。足が自然と止まり、トシヤを通り越して、黒い影を見つめる。

 亜莉香の視線に気が付いて、トシヤも足を止めて、路地の奥の黒い影を見た。


「あれが、もう少ししたら影から人の形の何かになる」

「あれが?」

「そう。そうしたら、高頻度で襲って来る」


 ため息交じりにトシヤは言い、両手に持っていた荷物を地面に置いた。腰に下げていた日本刀に手を伸ばし、鞘から抜く。


「アリカ、そこから動くなよ」


 はい、と小さく答えた亜莉香の声を聞いて、トシヤが前に出る。


 黒い影の数メートル先で立ち止まり、トシヤは日本刀を持ったまま立ち止まった。

 黒い影は、その黒を徐々に深くして、立体的な人の形になっていく。亜莉香より背が高く、少し腰を曲げた何かは、行き止まりの路地を見つめているような体勢だった。

 影ではなくなった途端に、首が一周した動きに驚いて、亜莉香は小さな悲鳴を上げた。持っていたパンの袋ごと、両手で身体をぎゅっと抱きしめる。

 トシヤは動じることもなく、勢いよく足を踏み出す。

 走りながら手に持つ日本刀が赤く光り、焔を纏った。

 迷わず日本刀を下から振り上げ首を狙うが、黒い何かは素早く一歩下がって攻撃をかわした。何も武器を持っていない黒い何かが前に出て、両手でトシヤを捕まえようと手を伸ばすが、その両手を日本刀で防ぎ、黒い何かの腹を蹴り飛ばした。

 トシヤの蹴りを受け、黒い何かが後ろに下がる。

 蹴られた腹の部分を見下ろした黒い何かは、顔を上げてトシヤを見つめるような素振りした。それから、トシヤの後ろにいる、亜莉香を見る。


【ミツ、ケ…タ】


 耳元で囁くような雑音が聞こえて、亜莉香は耳を塞ぐ。

 耳を塞いでも意味がなく、雑音は途切れ途切れに聞こえる。少しだけ痛い、と感じた頭を押さえ、亜莉香は一歩も動けない。

 黒い何かに日本刀を向けたまま、トシヤが背を向けたまま声を上げた。


「アリカ、こいつの言っている言葉の意味、分かるか?」

「…いえ、分かりません」

「だよな」


 亜莉香の回答を分かっていたかのように、トシヤが言い終わると同時に、黒い何かは駆け出した。両手を前に出し、先程と同じようにトシヤを捕まえようとする。その前に、トシヤは軽く身を伏せた状態で駆け出し、黒い何かの両手を狙って刀を振るった。


 どさっと音がして、両手が地面に落ちる。

 両手のなくなった黒い何かの懐に潜り込み、そのまま日本刀を心臓に突き刺す。

 突き刺された瞬間に、黒い何かの動きが止まった。

 身動きせず、突き刺された心臓から焔に包まれる。燃え始めた黒い何かを確認したトシヤは、静かに日本刀を抜いた。消えて行く黒い何かを見つめるトシヤに、亜莉香は声が震えないように口を開く。


「ご無事、ですか?」


 小さくなった声は届き、日本刀を鞘に戻したトシヤが振り返った。


「無事も何も、俺は怪我一つしていないから」

「そう、ですよね」


 肯定しつつ、トシヤが無事であることに安心して、ゆっくりと息を吐く。怪我をしてもおかしくなかった戦いだった。黒い何かに捕まってしまえば、トシヤが殺されていた気がする。


 怖くて堪らなかったのに、その感情を押し殺す。


 亜莉香は唇を噛みしめて、視線を軽く下げたまま、深呼吸を繰り返した。気持ちが落ち着いた頃に、トシヤが荷物を拾い終わり、さて、と亜莉香に声をかける。


「また襲われる前にさっさと家に帰るか」


 はい、と亜莉香は頷いた。顔を上げて、ぎこちなく微笑む。ずっと握りしめていた両手をようやく放して、先に歩き出したトシヤの隣を歩く。


 戦いの後で、聞きたかったことは頭から消えてしまった。

 それはトシヤも似たようなもので、炊飯器を買い忘れた、と二人が思い出すのは、家に着いた直後のことだった。

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