39-3
寝室に持って行っていた椅子を縁側に戻して、ルカは不貞腐れた顔で川を眺めている。
決して和室は振り返らず、腕を組んでいた。口を閉ざして眉間に皺を寄り、近寄りがたい雰囲気に亜莉香とトシヤはわざわざ話しかけない。
ルカを怒らせた原因は、間違いなくルイである。
和室のテーブルを挟んでトシヤの向かいに座り、ルカに背中を向けていた。反省するように正座をしながら、打ち所が悪く痛めた首を手で押さえる。
一人だけ寝間着の姿で、本来ならベッドで安静のはず。
起きてくれたのは喜ぶべきだが、起きて早々にルカと一悶着を起こした。トシヤが襖を閉めた後に騒がしくなった寝室から聞こえたのはルカの怒声で、ルイの謝罪は隣の和室までよく響いた。
騒動が落ち着くまで無視するようにトシヤに言われ、そわそわしながら待つこと数分。
襖を開けたのは怒りの収まらなかったルカで、乱れたベッドから落ちたルイを置いて縁側に移動した。それから一度も話さないルカとは違い、首を斜めにしたルイが軽く話し出す。
「ちょっとふざけて、調子に乗っただけなのにね」
「ちょっとの度合いがおかしいけどな」
「いやほら、なんか雰囲気で。トシヤくんもそういう時あるでしょう?」
軽く同意を求めたルイに、呆れたトシヤはテーブルに肘をついた。
間が空いて、それより、と話題を変える。
「怪我は大丈夫なのか?」
「うん?別にどこも痛くないよ。フルーヴが治してくれたんでしょう?」
「フルーヴとありかで治したの!」
人数分のお茶を用意していた亜莉香の傍にいたフルーヴが振り返り、会話に混ざった。
日中は温かく、部屋に用意して貰った冷たい麦茶は魔法瓶の中。グラスに注いで、お盆に乗せてからルカの分を運ぶように頼むと、フルーヴは嬉しそうに何度も頷いた。
零さないようにグラスだけを見るフルーヴは危なげで、歩きながら言う。
「あのねー、フルーヴだけじゃむずかしくてねー」
ゆっくりと語尾を伸ばしながら、縁側のテーブルまで運ぶ。
「ありかといっしょにー、いずみでー、きらきらしてー…」
音を立てながらもお盆をテーブルの上に置いたフルーヴは、ほっと肩の力を抜いた。グラスを両手で掴むとルカに差し出して、受け取ってと言わんばかりに見つめ続ける。
瞳を輝かせるフルーヴに負けて、ルカは少し機嫌を直した。
小さくお礼を言われて頭を撫でられると、両手で頭を押さえる。緩んだ口元を引き締めて、ルイを振り返ると自慢げに胸を張る。
「フルーヴ、がんばった!」
「うん…えっと、どういうこと?」
フルーヴの言っている意味を理解出来ず、ルイは首を傾げた。
「そもそも僕って、誰に助けられたの?崖の上で敵に襲われて、後ろから刺された後に、アリカさんの手を離したところまでしか覚えてないけど。崖から落ちたアリカさんは大丈夫だったの?」
名前を呼ばれて、正座をしてお茶を入れていた亜莉香の身体が止まった。
残りのお茶も入れ終えたが、運びに行くのは気が引ける。トシヤとルカの視線を感じて、真逆の方向に首を向けた。
助け出された時にはナギトやメルがいて、詳しい説明は省いた。
何者かに襲われて、ルイが大怪我をした、としか言えなかった。
ルイの着物は血で染まっていて、取り乱していたルカにはフルーヴが治したから大丈夫だと言った。精霊の話が出来る人は一部に限られていて、途中で水の精霊であるネモフィルと出会ったことを知っているのはトシヤだけ。
崖から落ちたことは忘れかけたことで、右手を口元に持っていき考える。
あまりにも色々あって、どこから話せばいいのか。ルカとルイには、後でやって来ると言っていたネモフィルのことも説明したい。水の魔法を使えたことも言うべきか、と一人で考え込んでいると、傍に誰かの気配を感じて顔を上げた。
笑顔の怖いトシヤがいて、目の前に片膝を立てて座る。
身体を引く前に亜莉香の両肩に手を伸ばし、向き合うように身体の向きを変えられた。
「ルイが庇ってくれたから、怪我をしてないと言っていたよな?」
「それは、事実ですよ?」
「崖から落ちたのは?」
「それ、も事実です」
嘘を付けずに、亜莉香は目を逸らす。
タイミングを見て話そうと思っていただけに、この場では言いたくなかった。自惚れかもしれないが、誰よりもトシヤが心配してくれると分かっている。
顔が少し青ざめて、遠慮がちに付け加える。
「怪我はしていません」
「…医者のとこ行くぞ」
「待って下さい!本当に、どこも怪我をしていなくて!崖から落ちても、フルーヴもネモも助けてくれて!」
低い声を出したトシヤに腕を掴んで連行されそうになり、頭の中は一杯一杯になった。
「ちゃんと話すつもりでした!後で笑い話にしようと思っていただけで、隠すつもりはなかったのです!」
「笑い話になるか!」
「させてください!私までお医者さんに診てもらうことになったら、ルイさんみたいに外出許可を貰えなくなります!そうしたらトシヤさんと一緒に街に行けなくなります!」
最早何を口走っているのか分からなかった。
言葉に詰まったトシヤが顔を赤くしたのに気付かず、袖を掴む。
「美味しい甘味屋さんとか、お土産を買いにとか。トシヤさんと行きたい場所が沢山あるのに、外出禁止にされたら凄く困ります!」
「分かった。それは分かったから――」
「だから絶対にチアキさんには言わないで下さい!」
唸りながら顔を伏せて、たじろぐトシヤを引き留めた。
頭の中には、ルイの様子を見に帰って来る前に出会ったチアキの顔がある。最初は無事を安堵してくれたが、その後は表情を変えて、恐ろしいくらい冷ややかな声でルイの外出を禁止するように念を押された。
ルイの意思を聞いてからと説得しても、頑としてチアキの意思は変わらなかった。怪我をしていた場合は、亜莉香も外出禁止だったとも言われた。
和室の隅で騒ぐ亜莉香とトシヤを横目に、両手を後ろについたルイは振り返る。
「僕、外出許可貰えないの?」
「…まあな。医者を呼んだ時点で、チアキさんが血相変えて飛んで来た。俺はその時に、目が覚めても絶対に部屋から出すと釘を刺された」
怒りを鎮めたルカは素っ気なくも答えて、呆れた顔になる。
「着物は血塗れで、意識がなかったからな。明日にでも、ラメール家に仕えている医者が診に来てくれる」
「刺されたのは、後ろの傷一カ所だけだったのに?」
「俺が知るか」
「ルイはもっと、じゅうしょうだったよ?」
たどたどしくフルーヴが言い、駆け足でルイの背中に抱きつく。よいしょ、と言いながら頭の上に上ろうとして、ルイは腰を低くした。
「そうなの?」
「フルーヴだけじゃなおらなかったの」
「でも、治してくれたよね?」
「ありかがいたから」
フルーヴがしがみついたのを確認して、ルイが姿勢を元に戻した。
名前が聞こえて、亜莉香はそっとフルーヴを見る。
「フルーヴの力ですよ?」
「違うの。護人とラルム・フォンティーヌの力が大きくて、フルーヴはおまけみたいな――」
不意に話し方が変わって、フルーヴは自分で口を押さえた。小さな身体が震えだして、辺りをきょろきょろと回す。
フルーヴが何を探しているのか、亜莉香だけが何となく分かった。
話し方が似ている水の精霊の名前を呼びそうになって、フルーヴの後ろの縁側の外、本来なら小川を見渡せる景色の中に一人の女性が浮いて見えた。
見えない椅子に座って、青いサファイアの瞳を持つ美女。
はだけた襟元から覗く大きな胸や、足を組んで着物から覗く美脚が目を引く。景色に馴染んで、風で濃紺の髪がなびいた。
人にしか見えない姿で、亜莉香に向かって片手を振る。
トシヤが驚く声を出すのと同時に、フルーヴの瞳も美女の姿を捕らえた。
「くそばばあー!」
「ちがーう!」
ガラス越しに叫んだネモフィルの声でようやくルカも気が付いて、椅子から立ち上がった。ルイは驚きつつも冷静を装い、何となく縁側から離れる。
後で来るとは聞いていたが、登場の仕方がおかしい。
すぐさま立ち上がった亜莉香が駆け寄って、ガラス戸を開けた。
ネモ、と呼んだ途端に、美女は一瞬でペンギンの姿に変わる。亜莉香の胸に飛び込んで抱きしめれば、後ろにいたフルーヴに向かって舌を出した。




