37-5
眼下に流れるは激流で、崖の上に居ても激しい音がよく聞こえた。
崖の上から川まで百メートル程あり、亜莉香が抱きかかえているフルーヴは今にも飛び込みたそうに瞳を輝かせている。その高さに恐怖を覚えているのは亜莉香だけで、ルイは川を見下ろして口を開く。
「ここから飛び込んだら、無傷では済まなそうだよね?」
「ルイさんも飛び込みたいですか?」
「いやいや、フルーヴが今にも飛び込みそうだからさ。アリカさんまで落ちたら、僕も道連れにされるなー、と」
笑えない冗談に、青ざめた顔の亜莉香は視線を動かせないまま囁く。
「すみません。早く、ここを離れてもいいですか?」
「それは勿論――」
頷きかけたルイの声が途中で消えて、震えていた亜莉香に気が付いた。
数日前に話した過去が蘇って、川を見下ろしているだけで当時の感情を思い出す。考えないように、もう乗り越えたはずだと思っていたのに、酷似した光景は心を抉る。
ルイは亜莉香の気持ちを察して、そっと背中に手を回した。
「森の近くに戻ろう。それで落ち着く?」
「…はい」
何も知らないフルーヴを抱きしめる力が無意識に強くなって、フルーヴに名前を呼ばれた。微笑むだけしか出来なければ、ルイの小さな謝罪が聞こえた。
ルイは何も悪くないのに、むしろ気付いてくれて感謝すら覚えているのに声が出ない。
来た道を戻ろうとして、足が止まった。
森の中にいた鳥たちが一斉に羽ばたいて、太陽の光が雲で隠された。段々と心臓が脈打つ音が早くなって、背筋が凍って恐怖が押し寄せた。
何かが、来る。
それはきっと、嫌な存在。
近づいて来る気配に、亜莉香の前に出たルイは結んでいたリボンを解いて両手に武器を構えた。右手には長さの短い日本刀を、左手には小刀を構える。
何かを引きずる音と、誰かの鼻歌。
森の闇の中から現れたのは、一人の少女だった。
「あら、やっぱり人だった」
明るく楽しそうに、血塗れの少女は言った。
左手で引きずっていたのは、血で真っ赤に染まった鹿だった。亜莉香より年下に見える少女の肩より長くて明るい黄色の髪も、黒地の着物に描かれている白い菊の花も血の色で染まっている。
どこか狂っている少女は小柄で、黒い光を宿しているような大きな黄色の瞳。真っ赤な紅をして、血生臭い匂いを纏って、にっこりと笑ってみせた。
その笑みを見たフルーヴは亜莉香の腕から抜け出して、背中に隠れた。
フルーヴの震えが伝わって、亜莉香は後ろに下がる。
「あーあ、祭りの前にここまで来る人がいるとは考えてなかったな。まだ準備している所なのに、真っ直ぐに私の隠れ家を目指して驚いた」
「この近くに、君の家が?」
「正確には、一時的な家よ。だって、この土地はもうすぐ闇に落ちるもの」
鹿を手放した少女は、左手に付いていた血を舐めた。
美味しいものを食べた後のように瞳を輝かせて、亜莉香にもルイにも興味が無さそうに鹿の傍にしゃがんだ。懐から小さな刀を取り出すと、大きく振り上げて鹿に突き刺した。
まだ生きていた鹿の身体が動いて、刀を抜けば血が飛んだ。
躊躇なく痛めつける光景を以上見せないように、ルイは亜莉香を背に隠す。
「話の途中で悪いけど、僕達は帰っていいかな?」
「それは駄目。だって、私の家を見つけようとしていたのでしょう?」
「いや、洞窟を探していただけだよ」
「洞窟?もしかして、魔女の家に繋がる洞窟?貴女達なら、見つけられるの?」
首だけを動かした少女の瞳に、武器を手放すことのなかったルイが映る。平然を装っていたルイですら少女の狂気に飲まれそうで、踏み止まって見つめ返した。
徐々に興味を示し始めた少女が立ち上がって、右手の刀から血が落ちる。
「よく見れば、貴女強そうね」
「…そんなことはない」
「嘘つき。見れば分かる。魔力の強そうな人は殺しちゃいけないと、主様にいつも言われるの。それに私はよく考えないといけないとも言われていたのに、つい忘れちゃう」
一歩ずつ前に進む少女から逃げ場はなく、間合いに入った途端にルイは構え直した。
少女が足を止めて、首を傾げる。
「どうして武器を持つの?」
「ごめんね。僕は君を信用してない」
「信用していないと、武器を持つの?私を殺そうとするの?いつもそうだった気がするな。皆が私を殺そうとするから――だから先に殺さなきゃ」
声が低くなった途端に、森が騒がしくなった。
何人もの足音が近づいて、黒い人影はやって来た。その手にはそれぞれ包丁や日本刀を持ち、男も女も子供も混じってルイと亜莉香を囲む。
ガランスにいた時のルグトリスとは、違う。
誰もが抱いているのは殺意だ。
光の欠片もないルグトリスを救う術はなく、何も出来ない亜莉香は両手を胸の前で握りしめた。守ってくれる人はルイだけで、守られるだけの状況が歯がゆい。
ルイが亜莉香の名前を小さく呼んだ。
「隙を見て逃げてと言いたいけど、その場から動かないで。手が届かなくなったら、僕でも守りきれない」
「私は…ここにいます。帰る時はルイさんと一緒です」
怖くても告げた想いに、ルイの口角が僅かに上がって見えた。
「そうだね。一緒に帰らないと、怒られちゃうよね」
ルイの武器はそれぞれ焔を纏った。少女は踵を返して距離を置き、鹿の傍まで戻って再びしゃがみ込んだ。
「ねえ、どれくらい強いか私に見せてね。強かったら、私の家に連れて行くから」
他人事のように少女が言って、刀を鹿に突き立てる。
それが合図だった。
ルグトリスは一斉に襲いかかる。
踏み出したルイは無駄なく心臓に武器を突き刺して、横から襲って来たルグトリスの首を刎ねた。くるりと回って攻撃を避けて、次々と襲うルグトリスを倒していく。
一体何人のルグトリスを倒したのか。
段々と後ろに下がった亜莉香は途中で数えられなくなって、ルイは右手に日本刀を持ったまま額の汗を拭った。倒しても、森の中の闇から湧き出るようにルグトリスが現れる。終わりの見えない戦いにルイが疲労して、囲んでいる数が増えていく。
このままでは殺される。
精霊に助けを求めようにも近くにはいなくて、亜莉香は無力だ。
埒が明かないと奥歯を噛みしめれば、少女が小さく呟く。
「埒が明かないじゃない」
亜莉香と同じことを口に出して、血の塊となった鹿の前で少女は立ち上がった。返り血を浴びて、ますます髪や着物が赤く染まっている。
少女の行動一つで、ルグトリスの動きが止まった。
様子を見るように動かなくなって、少女がルイを振り返る。
「いつまで抗うの?」
「いつまでもだよ」
ふーん、と呟いて、少女の瞳に亜莉香が映った。じっと見つめられて動けなくなり、ルイが傍に寄る。少女は不思議そうに首を傾げた。
「その子、大切なの?」
亜莉香もルイも何も言わなければ、微笑んだ少女は言葉を続ける。
「その子は特別なのね。そうよね、貴女みたいな強い人が守っているのだから、その子も特別よね。いいな、羨ましいな」
左手を頬に当てて、少女がうっとりとした。
「私も主様の特別になりたいの。本当は今だって主様の傍に居たいけど、瑞の土地を頼まれたからセレストを闇に落とさなくちゃ」
「セレストを、闇に?」
亜莉香の口から零れた問いに、少女が年相応に見える笑みを見せる。
「そうよ。それが主様の願いだから、私はそれを叶えるの」
「どうやって?」
「簡単なのよ。祭りの日にこの土地の結界を破って、その後に恐怖がこの街を支配する。それに、この土地が闇に落ちたら魔女は絶対に黙っていないわ」
うふふ、と少女が怪しい笑みを零した。
それから遠くを見つめて、ふと呟く。
「――あれ?これは言って良かったのかしら?」
少女の視線が離れたうちに、ルイがそっと亜莉香の手首を掴んだ。一瞬だけ目が合って、逃げる意思を感じて頷く。
森に逃げても、ルグトリスはいるかもしれない。
それでも一瞬の隙を見逃すことなく走り出そうとすると、少女の身体を黄色の光が駆け巡って見えた。ピリッとした感覚に、直感で口を開く。
「魔法が来ます!」
叫んだ途端に黄色の光が迫って、咄嗟にルイを突き飛ばした。
亜莉香の手首と一緒に掴んでいたリボンが宙に浮いて、光が当たると雷の魔法で焦げて切れた片方が空に舞い上がった。少女がゆっくりと振り返って、じっと睨む。
「あーあ、当たらなかった」
残念と呟いて、少女は持っていた刀を爪が食い込むくらい強く握った。
「主様はね、私のことを特別にしてくれないの。いつも別の女を追いかけて、私を見てくれない。私だけを見て欲しいのに、あの女しか見えてない!」
憎悪の混じった声は大きくなって、その場に響いた。
深く息を吐いて、少女は視線を下げる。
「でも、いいの。きっとあの女がいなくなれば、主様は私だけを見てくれる。特別だと言っていたあの女さえいなくなれば、私が主様の隣に立てる。特別は一人でいいの」
持っていた刀を両手で握って、頬に優しく当てた。鹿の血が頬に移って、軽く首を傾げるとそっと囁く。
「だから、貴女はいらないわ」
少女が倒れ込んでいた亜莉香を見つめると、ルグトリスの一人が動き出した。
駆け寄ったルイが倒すと同時に、別のルグトリスが亜莉香に近づいた。持っていた武器はそのままで、空いていたもう片手で腕を掴む。
掴まれただけで痛みを感じて、悲鳴を上げそうになった。
「嫌!」
「アリカさん!」
さっきまで手加減をしていたのではないかと思う程、ルグトリスの動きが変わった。攻撃の嵐を防ぐルイから引き離されて、問答無用で崖の縁まで連れて行かれる。
その先には行きたくない。
必死に抵抗するのに、ルグトリスが亜莉香を崖の下に突き落す。
ふわりと、身体が宙に浮いた。ルグトリスの攻撃を受けながらルイが手を伸ばして、宙に舞い亜莉香の手首に結んだままのリボンを掴む。
真下には激流の川があり、衝撃と共に身体が崖の途中で止まった。
上を見上げれば必死な顔のルイがいて、掴んでいるリボンに血が染み込む。
無情な少女はルイの背後にやって来て、手に持っていた刀を振り下ろした。
身体に刀が吸い込まれたように見えて、顔が歪んだルイの手からリボンが離れる。血が滲んで、前に倒れ込むルイの姿が遠ざかる。
「ルイさん!」
叫んだ声も、伸ばした右手も届かない。
助けに戻りたいのに出来なくて、瞳に涙が滲んで落下していく。崖の上から亜莉香を見下ろした少女はにっこりと笑い、苦しんでね、と口を動かした。
声を出したかったのに、冷たい水の中に落ちる。
息が出来なくなって、逆らえない水の力に押し流される。
何も考えられなくなった時、誰かに名前を呼ばれた気がした。




