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Last Crown  作者: 香山 結月
第2章 星明かりと瑠璃唐草
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37-2 御伽噺

 深い森の奥に、一軒家があります。

 その家は魔女の家です。

 魔女には名前がなくて、両親も友人もいません。何年も森から出ずに暮らしていたので、本来なら美しい金色の髪は地面を擦って絡まって、今にも雨を降らしそうな雲に似た薄い灰色の瞳は前髪に隠れていました。

 魔女はいつも一人でした。

 時折やって来る精霊の話に耳を傾けて、ため息を零すのです。


「もしも私が魔女と呼ばれなければ、森の外に出たのに」


 幼い頃から森で暮らす魔女は、外の世界を知りません。外に出ようとすれば足が震えて、憧れはしても外の世界へは出る勇気がありませんでした。


 ある日、魔女は座り込んで家の近くの花を眺めていました。淡々とした時間が流れていると、森の木々の間を駆け抜けて兎が迷い込みました。

 真っ黒な毛並に、光を宿した真っ黒な丸い瞳の小さな兎。

 珍しい来客に驚くと、兎が可愛らしい声で言いました。


「お嬢さん、何をしているの?」

「何もしていないわ。花を眺めていただけ」

「一人なの?」

「今は貴女がいるわ」


 微かに笑みを零した魔女に、兎は悲しそうな顔をしました。


「私はすぐに帰らないといけないの。また来てもいい?」

「貴女がそれを望むなら」


 魔女の言葉を聞くと、兎は名残惜しそうに何度も振り返りながら森の中に消えました。

 一人になると、魔女は寂しくなりました。精霊がやって来るのは久しぶりで、もっと話したかったのです。また来ると言っても、いつ来るのかも分かりません。寂しさを紛らわすように立ち上がって、魔女は家の中に入りました。


 次の日、晴れた空を眺めていると兎はやって来ました。


「お嬢さん、何をしているの?」

「何もしていないわ。空を眺めているだけ」

「楽しい?」

「今は貴女がいるもの」


 微かに笑みを零した魔女に、兎は嬉しそうな顔をしました。


「それなら毎日来るよ。今度は何か持って来てもいい?」

「貴女がそれを望むなら」


 魔女の言葉を聞くと、兎は瞳を輝かせて足取り軽く森の中に消えました。

 それから三日目も、四日目も、兎は毎日同じ時間にやって来ました。晴れた日も、曇りの日も。雨の日も、風の強い日も。髪飾りや帯留め、お菓子や果物を持って来て、魔女に一つの質問をします。

 質問は他愛のないものばかりでしたが、魔女は誠実に答えました。どんな答えでも兎は真面目に聞きました。家の中には色鮮やかな物が増えていき、兎と話すことが魔女の日常になりました。


 ある晴れた日のこと、綺麗な青い花を持って来た兎はずぶ濡れで現れました。


「こんにちは、お嬢さん。何をしているの?」

「何もしていないわ…けど、どうして貴女は濡れているの?」

「ちょっと喧嘩をしてね。おかげで今日はいつもより長くいられるけれど、乾かしてから来るべきだった」

「それなら家に上がって、身体を温めて」


 魔女の提案に、くしゃみを零した兎は頷きました。魔女がそっと手を伸ばせば、小さな兎は腕の中に収まって微かに震えていました。規則的な心音が聞こえて、温かさも感じるのに毛並みは氷のように冷たかったのです。

 あまりの冷たさに、魔女は慌てて家の中に駆け込みました。

 暖炉の前に兎を下ろして、何枚ものタオルで包みました。それでも兎は寒そうに震えています。途方に暮れて兎を見下ろすと、兎が申し訳なさそうに魔女を振り返りました。


「お嬢さん。申し訳ないけど、一人にしてくれる?乾かす間、決して覗かないで」


 兎のお願いを、魔女は快く受け入れました。

 暫く家の外にいると、身体を乾かした兎は外に出てきました。


「ありがとう。おかげで身体は乾いて、元気になったよ。お礼に鈴を貰ってくれる?」

「今日は花を貰ったわ。それに質問もされていないもの」

「質問と花は等価ではないよ。どちらもお互いの善意で成り立っていたものだから、鈴はお礼の品だよ」


 いつの間にか、兎の首には白いリボンに括り付けてある金の鈴がありました。鈴を受け取るまで動こうとしない兎に、魔女は遠慮がちに鈴を受け取りました。


「ありがとう」

「どういたしまして。その鈴の音色には清めの力もあるけれど、何かあった時に鈴を鳴らせば、私はどこにいても駆け付けるよ」


 ぴょんと耳を立てた兎はそれだけ言って、いつものようにいなくなりました。

 手元に残った鈴を鳴らせば、チリン、と小さく綺麗な音がしました。魔女は喜んで笑みを浮かべると、リボンごと鈴を左手首に付けました。歩くたびに鈴が鳴っても気にならず、兎が一緒にいてくれる気がして心が温かくなりました。


 すると兎はまた、数日も置かずにずぶ濡れでやって来ました。


「どうして濡れているのかしら?それに、どうやって乾かしているのかしら?」


 魔女が窓の隙間から覗いてみると、そこに兎はいなくて、暖炉で温まっていたのは魔女と年頃の近い少女でした。真っ黒な美しい黒髪は腰まで伸びて、色白の肌に紅の唇。タオルで身体を包めて、その傍にはびしょ濡れの真っ赤な着物がありました。

 腰が抜けて動けなくなった魔女は、その場で膝を抱えました。

 兎が外に出てくると、魔女は瞳に涙を浮かべて睨みつけます。


「どうして私に嘘をついていたの!貴女は兎じゃないじゃない!」

「お嬢さん、私の本当の姿を見たの?」


 しょんぼりと耳を下げた兎が言い、魔女は怒りに狂って叫びました。


「今すぐに出て行って!もう二度と来ないで!私は魔女で、何でも出来るの!人と関わってはいけないと、そう決まっているのよ!」


 しょんぼりと耳を下げた兎は悲しそうな瞳を伏せて、ぽてぽてと歩いて来た道を戻って行きました。小さな後ろ姿を見るだけで頬に涙が伝い、魔女は初めて声を上げて泣きました。

 毎日やって来た兎は、ぱたりと来なくなりました。

 日に日に後悔が心を占めて、魔女は耐え切れずに森を見据えました。


「私は取り返しのつかないことをしてしまった。森の外に出ようと思えば行けるのに、兎に会いに行く勇気がない。兎は毎日私に会いに来てくれたのに、人と関わってはいけないと私自身が決めつけて、酷いことを言ってしまった」


 泣き出しそうになりながら、魔女は森の前まで行きました。

 深い森は暗くて、闇に包まれています。空は分厚く黒い雲に覆われて、肌寒い風が魔女の頬を撫でました。足が震えて、その先に進めません。


 チリン、と音がして、魔女は左手首を掲げました。


 金の鈴を見れば、兎に会いたい気持ちでいっぱいになります。

 立ち止まっていても、兎はやって来ないでしょう。兎に会うためには森の外へ行かなければいけません。魔女は震える足で一歩、また一歩と森の中へ踏み込みました。


 どれだけ進んでも森は続き、いつの間にか闇が深くなっていきました。気が付けば闇の中に置き去りにされて、それでも魔女は一人で歩き続けます。時間の感覚がなくなっても、闇の中で誰かが傍に居る気がしても、魔女は足を止めません。兎に会えると信じて、歩き続けたのです。

 それも長くは続かず、魔女は派手に転びました。

 手首に付けていた鈴が解けて地面に転がって、必死に手を伸ばして掴むと涙が零れます。足から血が流れて、もう一歩も動けないと悟った魔女は瞳を閉じました。


 その時、どこからともなく少女が姿を見せました。


「お嬢さん!こんな所で何をしているの!?」


 疲れて声も出なかった魔女に、少女は慌てて駆け寄りました。少女の傍には見知らぬ少年がいて、その瞳や髪は少女の色と同じです。魔女を見て呆然とした少年でしたが、状況を把握するなり魔女を背負いました。

 少女が先導して、三人はどこまでも続いていた闇の中を抜けたのです。


 温かな太陽の光が差し込む森の中を進み、木々の揺れる音や鳥の囀りが耳に響きます。木々はアーチ状に道を譲って、一本道を抜けた先で辿り着いたのは、石壁に守られた茶色の屋根の可愛らしい家でした。

 石壁の間から流れた小川と池があり、広い庭には色鮮やかな花々が咲き乱れています。

 敷地の端にひっそりと存在している家は、つるバラが絡みついていました。

 光に満ちた空間にたじろぐ魔女の顔を覗き込んで、少女はにっこりと笑いかけました。


「ようこそ我が家へ。すぐにその足の怪我を治して、お茶会を始めましょう」


 パン、と少女が手を叩くと、魔女の足の怪我は瞬く間に治りました。精霊達がこぞって椅子やテーブルを運んで、ティーカップやポットが躍るように並べられていきます。初めての香ばしい紅茶や甘く香る苺のジャムの匂いが鼻をくすぐり、あっという間にお茶会の準備は整いました。

 楽しそうな少女は、呆気に取られた魔女を振り返り言いました。


「お嬢さん。帰る理由が見つかるまで、この家にいて頂戴」


 魔女は驚いて、話を聞いていた少年は呆れました。それから始まったのは、少女と魔女を背負っていた少女の二番目の兄、そして病弱な少女の母親を含む四人の貧しいけれど幸せな日々でした。




 月日は流れて、数年が経ちました。

 年下だった少女に誘われるまま一緒に住むようになった魔女は、病弱だった少女の母親を甲斐甲斐しく看病して、少女の友人として日々を共にしていました。忙しくなった少女は日中出掛けることが多かったのですが、少女の母親や精霊達がいれば話し相手には困りません。時折少女の一番上の兄や少女の知り合いが顔を出しましたが、皆が優しく魔女を受け入れてくれました。


 文字を知り、物語を知り、日々の変化を知り、魔女は一人の女性になりました。

 絡まっていた美しい金色の髪は後ろで三つ編みにして、少女から貰った白いリボンで結んでいます。今にも雨を降らしそうな雲に似た薄い灰色の瞳には光が宿り、色鮮やかな花が咲き誇る白地の着物姿で花の水やりをしていました。

 不思議なことに、この家の庭の花に季節は関係ありません。

 水やりをしなくても問題ないと少女は言っていましたが、魔女は自ら水やりを率先して行いました。自分の意思で、好きなことをして過ごす日々が楽しかったのです。


 幼い頃から唯一覚えていた唄を口ずさんでいると、微かに笑い声が聞こえました。

 勢いよく振り返れば、後ろにいたのは少女の二番目の兄です。

 少年だった二番目の兄は立派な青年になり、少女よりももっと忙しく家を空けるようになりました。顔を合わせるのは数日に一度で、吸い込まれるような黒い瞳に見つめられると魔女の心はざわつくのです。


「やあ、お嬢さん。今日も機嫌が良さそうだな」

「貴方のせいで、一気に悪くなりました」


 思ってもないことを口にしても、二番目の兄は気にしません。

 手にしていた白い百合の花束の一つを魔女に渡すと、軽い足取りで家の中に入って行きました。病弱な母親がいる部屋に向かった二番目の兄を想って花束を抱きしめて、自分自身でも分からない感情に戸惑って立ち尽くします。


「意味が分からないわ」


 文句を言って、魔女はお茶でも出そうと家に向かいました。

 すると突然、地面が大きく揺れました。

 鳥達がいなくなり、精霊達が怯えて姿を隠しました。空は暗くなり、気温が下がって背筋が凍りました。家を囲っていた森が静まり返って、魔女は辺りを見渡します。

 稲妻が走って風が吹き荒れ、光に闇が侵食し始めたのです。


「一体…何が?」


 怖くなってふらりと身体が傾くと、誰かに引き寄せられて顔を上げました。

 魔女を見向きもしない二番目の兄の顔は青ざめていて、信じられないものを見つめるような顔で森の奥深くを見据えています。

 魔女がたじろぐと、ハッとした顔になり微笑みました。


「何でもないから、大丈夫だ。家の中にある王冠を母上の所へ持って行ってくれると助かる。頼めるか?」


 今にもいなくなりそうな二番目の兄の真剣な顔に、魔女は頷きました。


「分かった」

「ありがとう」


 そっと身体が離れて、額に唇が触れました。魔女は引き止めたくなった手を胸の前で強く握って、二番目の兄の顔をじっと見つめます。


「待っているから」


 小さな魔女の言葉に、返って来たのは悲しそうな微笑みだけでした。

 二番目の兄は瞬く間に森の中に姿を消して、魔女は家の中に駆け込みました。台所の床下に隠してあった王冠を持って、病弱な少女の母親がいる部屋の扉を開けます。

 布団の上に座っていた少女の母親は、悲しそうに空を眺めていました。

 魔女を振り返り王冠を見ると、瞳に涙を浮かべます。


「あの子に、頼まれたの?」

「はい。王冠を持って行くように言われました」


 あの子が二番目の兄であると悟り、魔女は少女の母親に王冠を差し出しました。

 数年前まで金の王冠には三つの大きな宝石が埋め込まれていましたが、今はありません。それぞれの宝石を持っているのは少女達三兄妹で、それを知っているのは魔女と少女の母親だけです。

 魔女が母親の傍に腰を下ろすと、少女の母親は優しく王冠を撫でました。


「そう…それなら、今から話すことをよく聞いて」


 少女の母親は真っ直ぐに魔女を見つめて、力強く言います。


「今、この国に災厄が迫っています。この王冠は、我が子達以外の手に渡らせるわけにはいきません。だから貴女が、これを持って誰にも見つからない場所に隠して頂戴」

「そんなこと出来ません!」

「それしか方法がないの。私はここから動けない。この王冠を隠すには、貴女に頼むしか方法がないと我が子達も承知の上です」


 それに、少女の母親の頬に涙が伝いました。


「この王冠がある限り、この国は滅びません。光が闇に負けることはないのです。もしも奪われたら、あの子達が命を懸けて守ろうとしたもの全て消えてしまいます。あの子達の想いを無駄にしないで」


 魔女は王冠を受け取りましたが、この場から立ち去ることは出来ません。少女の母親を置いていくことも、待っていると一方的に交わした約束を破ることも嫌でした。

 だから魔女は自分の力を全て賭けて、少女の母親と大切な家ごと隠しました。

 決して誰にも見つからない場所は以前、魔女が暮らしていた深い森の中。魔女と、少女しか知らない秘密の場所でした。


 災厄は、瞬く間に収まりました。

 魔女が一人で数時間前まで幸せを感じていた場所に戻れば、全てが終わった後でした。


 帰りたかった場所は見るも無残な場所となり、残っていたのは戦いの傷跡です。花々は踏み潰されて、木々は切り倒されて、焼き払われた一面には何もありません。

 災厄が収まった代償は大きく、その日を境に少女と二番目の兄、それから一番上で滅多に顔を合わせることのなかった兄の三兄妹と、再び顔を合わせることは叶いませんでした。少女の母親は衰弱していき、王冠を置いて自由になるように言いました。それを断り、少女の母親亡き後、魔女は深い森の中で一人暮らしています。


 少女が長く綺麗だと褒めてくれた髪は、ばっさりと切りました。

 少女の一番目の兄が上品な色だと言った瞳で、いつも空を見上げます。

 少女の二番目の兄が贈ってくれた空色の帯を身に付けて、日々を過ごすのです。


 時間の流れに逆らって、魔女は今でも託された王冠を守っています。

 三兄妹の誰か、最初に見つけてくれた少女だけが魔女の家へ辿る道を知っています。二番目の兄だけが、魔女との約束を果たせます。一番上の兄こそが、魔女の持つ王冠を継ぐべき人だったのかもしれません。


 護られるべき人だった、と精霊達は口にしていました。

 護ってもらうのではなく、護りたかったとも言っていました。それは魔女も同じ気持ちです。魂が巡って、いつか宝石を持った誰かが王冠を探しに来ると信じています。


「光の王冠現れて、三つの宝石輝いた。闇を払って、光が差し込み、この地に平穏訪れる。永久に続く願いの限り、巡り巡って会いましょう――」


 きっと深い森の中、魔女は今日も唄を口ずさんでいるのでしょう。

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