36-5
いいですよ、と返しただけだったはずだ。
安易な気持ちで手伝いをしてもらおうと思ったのが、そもそもの間違いだ。精霊の力を借りることがどういうことか、目の前の光景をしっかりと心に刻む。
色とりどりの精霊が、台所の中を忙しくなく動いている。
蛇口の水が時々濁っていたので、青い精霊に清めてもらった。天井の煤まで手が届かなくて、緑の精霊に小さなつむじ風を巻き起こしてもらった。床板が外れそうで、茶色の精霊に真新しい板に変えてもらった。
たった一言で十分だったのだ。
こうして欲しい、と言っただけで精霊の魔法は発動する。ほんの一瞬の魔法は最初こそ楽しかったが、中盤から好き勝手動き出した精霊達が亜莉香から必要な言葉を引き出して、無意識に魔法を発動させるのは一度や二度の話じゃない。
ついでに競い合う精霊達は小さな埃でも逐一報告して、報告されたら掃除をした。
綺麗になるのは嬉しかったが、やり過ぎた。
おかげで、台所が新築並だ。
もはや最初がどんなだったか思い出せないほど、台所の至る所が違う。
こびりついた鍋の汚れは、水魔法を駆使して洗浄。埃と煤を窓から外へ出したのは風の魔法で、天井や壁まで新しい木材に生まれ変わらせたのは土と植物の混合魔法。亜莉香が指示を出せば食器が動いたのは影の魔法で、あまり出番がなかった火の魔法を使いたくて、赤い精霊が先程から外の雑草を燃やしたいと騒いでいる。
特に満足そうな茶色の精霊が自分の功績を自慢して、赤い精霊を煽り始めた。
まだ他の部屋があると宥める声や喧嘩になりそうな雰囲気を止める声。騒がしい精霊達の声を聞き流して、亜莉香は窓の外を眺めた。
どこで間違えたのか。
これは誰が魔法を使ったことになるのか考えて、いやいや精霊の魔法だと自分自身に言い聞かせる。一瞬で直った理由は魔法以外に考えられなくても、亜莉香が魔法を使ったわけではないと言えなくはない。
万が一、亜莉香が魔法を使ったと決めつけられたら困る。
それなら精霊の魔法だとはっきり説明した方がいいだろうし、何より精霊は手伝いをやめる気がない。次はこっち、あっちと誰の番か相談が始まった。
屋外に行くなら屋根の修理や草木の手入れ、庭の遊具の修理と話し出す精霊達は、常にこの近くに住んでいた話しぶりだ。どれが古いやら、何が壊れているやら、ずっと続く話を無視することは難しくて、亜莉香の頭が痛くなった。
精霊達のお喋りが止まらない。
これ以上精霊の力を借りて、何もかも綺麗にして文句を言われるのは避けたい。
さっさとメルの元へ行って相談するべきなのだろう。
精霊の話をして納得してもらえるのか。精霊達に手伝いをしてもらってもいいか。その際に魔法を使ってもいいかと考えると気が重くなるが、いくつか質問事項を頭に浮かべて二階に上がった。
二階には、部屋は左右の二部屋しかない。
今の時間はお昼寝の時間で、ひっそりと静まり返っていた。
いつもメルやエイミが寝かしつけている子供達は、五歳未満で顔をよく見ていない。どちらの部屋にメルがいるのか迷えば、左の部屋から声が聞こえた。
耳を澄ませば、メルと老婆の声がする。
足音を立てないように部屋の前に行き、深呼吸をしてから扉を叩いた。
「メルさん、ちょっといいですか?」
あまり声を出さないように言えば、扉がゆっくりと開いて不機嫌なメルが顔を出した。あまりにも睨まれて、思わず一歩下がりたくなる。
「何よ」
「ちょっと、伺いたいことがありまして」
「何かやらかしたわけ?」
「そうとも言えるのですが…」
精霊の話からするべきだと思えば、後ろにいたはずの白い精霊が部屋に入り込んだ。思わず目で追った亜莉香と同じように、メルの瞳は精霊を捉えて後ろを振り返る。
部屋の中は窓から日差しが差し込んで、老婆がベッドの上に座っていた。
真っ白な髪で八十近くに見える老婆の腰は曲がっていて、にこにこと優しい笑みを浮かべている。ベッドの上でしっかりと座って、腹から下は毛布をかけていた。
一部始終を眺めていた老婆は、傍にやって来た白い精霊を右手に乗せた。
大丈夫かと問いかける精霊の声は聞こえていない。返事の代わりに、老婆は当たり前のように挨拶をする。
「こんにちは、精霊様」
こんにちは、と精霊が挨拶を返した。
その声もやっぱり聞こえていなくて、老婆は笑みを浮かべたまま顔を上げた。
「メル、久しぶりに精霊様が来てくれたわね」
「見れば分かるよ」
「きっと、そちらの方が連れて来てくれたのね」
ふわりと笑いかけられて、亜莉香は言葉に詰まった。
胸を締め付けられるような懐かしさを感じたが、初対面の相手だ。
名前を名乗った方がいいのか。精霊を連れて来たわけではないことを説明すればいいのか。そもそも精霊の姿が見えるのはどうしてなのか。
疑問だらけで頭の中は真っ白になる。
メルは老婆を見ながら肩を落とすと、深く息を吐く。
「精霊の話をしたって、誰も信じないからね」
「あらあら、そんなことはないわ。精霊様を連れて来てくれた方なのだから、きっと信じてくれるわ。もしかしたら、私達みたいに見える方かもしれないわね。ねえ、貴女は精霊様が見えているの?」
無邪気な少女のような質問に、嘘はつくなと言わんばかりのメルの視線が怖い。
口角が引きつりながら、亜莉香は正直に答えた。
「…見えて、ます」
「嘘をつかないで」
「そんな喧嘩腰で話しては駄目よ。それに嘘とは限らないでしょう?さっきまでメルから貴女の話を聞いていたの。お名前、教えて貰ってもいい?」
じっと青い瞳に見つめられて、やっぱりどこかで見覚えがある気がした。
まるでリリアと出会った時のような予感に、もしかしたら灯の知り合いなのかもしれないと結論付ける。亜莉香にとっては出会ったばかりの相手なのだから、と思えば部屋に足を踏み入れて、軽くお辞儀をした。
「亜莉香、と言います」
「アリカさんね。メルから話を聞いたわ。わざわざ語り部の話を聞きたくて、メルが無理難題を押し付けたのでしょう?」
うふふ、と老婆は可愛らしく笑った。
「そんなことをしなくても、私が語るわ」
「そうやって無理して話すと、また具合が悪くなるでしょ」
「あらあら、ミチはまだ元気ですよ」
ミチ、と老婆は自分のことを呼んだ。
それに、とメルから亜莉香に視線を戻す。
「アリカさんは貴族じゃないわ。そうでしょう?」
「それは使用人を見ていないからよ。馬でここまで来て、侍女に護衛までいたのよ。高級な伝統菓子まで持参して――」
途中で気付いた予想通りの勘違いに、そろそろ誤解を解くことにする。
あの、と遠慮がちに口を挟めば、メルが勢いよく振り返った。
「言いたいことがあるなら、さっさと言って」
「私は貴族ではありません」
「ほら、貴族だって――貴族じゃないの!」
驚いたメルが亜莉香に迫って、着物にしがみついた。右足が下がって踏ん張って、押し退けられずに両手が宙に浮く。
あまりにもメルが信じきっていたので、亜莉香の方が不思議な顔で問う。
「貴族だと、名乗ってはいなかったでしょう?」
「そうだけど――それなら貴族みたいに振る舞わないでよ!貴女の指示に皆が従って、さっさと立ち去ったじゃない!」
「私には都合のよい条件だったので、素直に受け入れて話を聞くのが得策だと」
馬鹿正直に言えば、メルの力が弱まった。
ミチが優しく名前を呼んで、掴んでいた手が離れる。よろよろと後ろに、ミチのベッドまで下がると足が当たり、全身の力が抜けたメルはベッドの上に座った。
あからさまに動揺して頭を抱えたメルに、亜莉香は何とも言えない顔になる。
そこまで驚かせるつもりはなかっただけに、黙っていたことが申し訳ない。
「あの…今からでも、別の条件を出しますか?」
「あら、気にしなくていいのよ。それより何か用があって来たのでしょう?」
ふわふわと話すミチに、亜莉香は頷いて見せた。
当分メルには話が通じなさそうで、精霊の見えるミチになら説明がしやすい。メルも精霊が見えるのだろうなと思いながらも、精霊の声が聞こえることは伏せて、台所での出来事を話し出した。




