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Last Crown  作者: 香山 結月
第2章 星明かりと瑠璃唐草
171/507

36-1

 朝食を食べ終えた後、山の中の孤児院へ向かった。

 慣れない山道で馬に乗るトシヤの後ろ姿を眺めて、亜莉香は心の中で声援を送る。

 焦げ茶の馬が暴れないように隣にルイがいても、大きく揺れるとトシヤの驚く声が上がる。必死に乗りこなそうとする背中に声がかけられるはずはなく、苦戦するトシヤと馬に正確な指示を出すルイは後ろを振り返らずに歩き続ける。

 わざと少し距離を置きながら、亜莉香は馬に揺られて見守っていた。

 一人で乗る不安は最初だけで、隣でルカが引いてくれているので安心感が大きい。白い毛並みの馬は荷物を抱えて、優雅に歩き続ける。

 特に緊張することもなくなって余裕が生まれた亜莉香に、ルカはそっと訊ねた。


「本当にこんな山の中に孤児院があるのか?」

「そう聞きましたよ?」

「海辺の酒場で?」

「海辺の酒場の、とても素敵なおじさんに」

「とても素敵なおじさん、ね」


 昨晩のことを思い出して言えば、半信半疑のルカは前を向きながら繰り返した。

 夜も遅くに帰宅した亜莉香とルイを、領主の家の前で待っていたのは眉間に皺を寄せたトシヤとルカ。身分証の提示を求められて困っていた所を助けてもらい、その後は客の間に着くまでトシヤの小言が続いた。全く反省していないルイは完全に聞き流して、亜莉香は眠くなって欠伸を噛みしめていた。


 二日連続で朝食をすっぽかすと外出許可を取り消されそうで、今朝はシンヤ達と共に朝食を食べた。炊きたてのお米や麩の吸い物、焼き魚や田楽は美味しかったが、昨日の夜は残っていた夕食を無理やり食べてからの就寝だった。

 おかげで、朝食は一口ずつしか食べていない。

 今だって胃もたれが酷くて、夜までに食欲が戻るか分からない。

 今日は水だけで過ごせそうと思いながら、亜莉香は口を開く。


「酒場での情報集めは初めてでしたが、色々教えて貰って勉強になりました」

「どんなことを教わったんだよ」

「会話は筒抜け同然で、誰だって酔っているフリをして耳を澄ませていること。嘘をつく人もいれば、親切に手を差し伸べてくれる人もいること。変な客に追いかけられることもあるから、帰る時は用心することなど」


 とりあえず思い浮かんだことを言えば、ルカは素っ気なくも会話を続けた。


「だからって、昨日得た情報を元にすぐに語り部の元を尋ねるか?」

「街の中を探し回るより、有意義な話が聞けそうではないです?ルカさんだって興味がないわけじゃないでしょう?」

「そうだけど」


 素直に認めたくないルカが口を閉ざしたのを横目に、亜莉香は微笑む。


「孤児院への行き方も、手土産を持って行って語り部のご機嫌を取る方法も教えてくれました。一筋縄ではいかないかもしれないと言われましたが、行く価値はあると思います。それに、遠回りが近道の可能性もあります」

「ただ単に、話が聞きたいだけだろ?」

「そうとも言えます」


 軽く頷いた亜莉香に、ルカはため息を零した。


「俺だって語り部は探していたけど、わざわざセレストで会いに行かなくても」

「ガランスにはいなかったのですよね?むしろセレストにいる時だからこそ、話を聞いておくべきですよ」


 楽しい亜莉香とは反対に、朝からルカの顔に笑みはない。反論は無くなって、ぼんやりと前を見ていた。トシヤに話しかけながら笑っているルイはいつも通りに見えて、挨拶以外でルカには直接話しかけない。

 用事があれば亜莉香かトシヤ経由で話をするが、それも最低限のこと。

 不意にルイが振り返れば、あからさまに視線を逸らしたルカ。少し悲しそうな顔を浮かべて、何事もなかったように声を出す。


「アリカさん、大きな杉の木を過ぎたらすぐだっけ?」

「そうだったと思います」

「だってさ、トシヤくん。孤児院に着くまで頑張ってみよう!」

「頑張っているんだよ!」


 左手を固く握って空に向かって伸ばしたルイに、手綱を強く握るトシヤが言い返した。孤児院に着くまでに慣れる気配はなくて、何だかんだ言いながら乗馬の練習が続く。

 トシヤよりもとぼとぼと歩くルカが気になって、亜莉香は声を落とした。


「もしルイさんの傍に居るのが辛いなら、引き返してもいいですよ」

「…いや、いい」

「本当に大丈夫ですか?」


 心配になって視線を向けると、ルカは前を見据えてゆっくりと息を吐いた。


「どんな顔をすればいいのか分からないだけだから、大丈夫だ」


 それは大丈夫な状態ではない、と言いたかった気持ちを飲み込んだ。

 亜莉香とルカは黙って、騒ぐトシヤとルイの声が森の中に響く。馬の足音や木々の揺れる音、時々鳥の泣き声が耳に響き、知らない場所へ誘われているみたいだ。

 道は真っ直ぐなのに、間違えていないか不安になる。

 それでも進めば、山道の傍にあった大きな杉の木を見つけた。

 通り過ぎた時に、ただその場に存在しているだけのような結界を通り抜ける。人も精霊も自由に出入りして、はっきり結界が見えていたのは亜莉香だけ。

 ルイとルカは一瞬何かに感づいた気がしたが、二人共何も言わなかった。


 杉の木から数分経過して、探していた孤児院が現れる。

 山の木々を切り倒して作られた敷地の中心で、太陽の光に注がれていてぽつんと建っていた。周りの木々と同化している屋根は新緑の色で、黄ばんだ煉瓦の外壁は年季が入って所々剥がれている。今にも朽ち果てそうな古びた井戸があり、子供達の賑やかな声が微かに外に漏れていた。

 目的地に辿り着き、馬は立ち止まる。

 安心したトシヤがさっさと下りて、頭を抱えて地面に蹲った。


「疲れた」

「お疲れ様、トシヤくん。帰りもあるけど、頑張って練習を続ける?」


 トシヤは無言で頷き、ルイはそれを肯定と受け取った。

 亜莉香もルカに手伝ってもらって地面に足を付けて、ほっと息を吐く。案外緊張していたようで肩の力が抜けて、それから毛並みの白い馬にお礼を言った。

 まるで言葉が通じたように顔を近づけた馬を、優しく撫でる。

 その間にルカが荷物を外せば、孤児院の木製の扉が音を立てて開いた。


 顔を覗かせたのは、一人の少女。

 十歳にも満たない見た目で、腰まで伸びた赤い髪はぼさぼさ。前髪が大きな茶色の瞳にかかっていて、ふっくらとした柔らかそうな頬。

 目を見開いてから、瞬きを繰り返して首を傾げる。


「あれ、お兄ちゃんじゃないのね。お客様?」

「突然ごめんね。僕達は語り部に会いに来た者だよ」


 ルイが代表して少しだけ前に出れば、少女はますます不思議そうな顔をした。


「そうなの?わざわざここまで来る人は久しぶりだけど、今日は朝からお姉ちゃんの機嫌が悪いから、またの機会にした方がいいかもしれないよ?」

「何かあったの?」

「問題児の二人が、朝早くに皿を割っちゃったの」


 仕方がないの、と呆れた声で言葉を続けた。


「いつものことだから、明日には機嫌が直ると思う。機嫌が悪くてもいいなら、中に入ってお姉ちゃんに会ってみる?最悪、お姉さん達はすぐに家から追い出されるけど」


 お姉さん、と言われたルイが振り返った。亜莉香とトシヤは頷き返して、ルカは何も言わずに馬に背を預けた。

 帰る素振りのない姿に、少女は扉を大きく開ける。

 白っぽい着物には淡く青い流水が流れて、明るい橙のひなしげの花が咲いていた。濃い橙色の帯を合わせて、透明なビーズが付いた可愛らしい桃色の帯留め。

 改めて亜莉香達を眺めた少女は肩の力を抜くと、腹の辺りで両手を重ねて笑みを零した。


「ようこそ、孤児院シエルへ」

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