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酒場から出て船に乗り、途中で二度乗り換えて領主の家に向かう。
お腹が一杯で寝てしまったフルーヴを抱きしめながら、亜莉香は夜空の輝く星を眺めた。
星の光には、どれ一つ同じ色がない。赤や桃色、青や水色に、黄色や緑、紫と白。月の光に負けない色の違う星々が幻想的で美しく、この星空は七日間続く。
船主は船の先端で、後方の向かいに座っていたルイも夜空を見ていた。
「中々に楽しい酒場だったね」
「皆さん親切で、お料理はとても美味しかったです」
「あの酒場、後でもう一度話を聞きに行こう。客の雰囲気も悪くないから、同情して他の話を聞かせてくれる人も現れるかもしれない」
どこか楽しそうなルイの声に、視線を前に向けた。
自然な笑みを浮かべているルイは空を見上げたままで、目が合うことはない。
話をした男性以外の客の雰囲気まで覚えておらず、料理が美味しかったことが亜莉香の気持ちを占めていた。もう一度行けるなら調理方法を聞きたいくらいで、初めての酒場で比べる対象がなく訊ねる。
「ルイさんは、よく酒場に足を運んでいるのですか?」
「アリカさんが来てからは、ほとんど行っていないよ。ガランスに着いたばかりの時は、夜中に抜け出して情報を集めに行った。この容姿のおかげで、どこに行っても興味を持ってくれる人がいてさ」
珍しい話になって、亜莉香は黙って耳を澄ます。
「最初の酒場が、ちょっと怪しい店だったかな。おかげで数人の男に追いかけられたけど、返り討ちにしてやった」
「…え?」
「僕を女と勘違いして、よからぬことを考えていた連中だったね。僕も最初から女として振る舞っていたけど、見事に引っかかった馬鹿な奴ら」
顔を下げて、ルイは左手で肩まで伸びている髪をいじった。
「女だって思うと、誰だって弱いと勘違いしていたな。下に見られることは多いけど、親切心のある人間は優しくしてくれる。その酒場によって、色々と性格を使い分けていたよ。今日みたいな酒場だったら、優しい人が多いから同情心を仰ぐ。もっと危ない酒場なら、店を出た後を追わせることも厭わなかった」
あはは、とルイが思い出し笑いをした。
笑い話で済ませていいのか分からず、亜莉香は返事に困る。
「何故、そんなことを?」
「何故と言われても、これが確実だと思っただけだよ」
さも当たり前のように言ったルイが、とても遠い存在に思えた。亜莉香を見向きもせずに、後方の水路に目線を向ける。
夜空は綺麗でも、夜遅い水路は闇のように暗い。
「誰もが真実を教えてくれるわけじゃない。情報を得るために、必要ならこの身体を武器にするしかない。そうやって生きていたから」
「そのための女装なのですか?」
情報を得るための、と言葉は続かなかった。
ゆっくりと振り返ったルイがどこか寂しそうな顔で、首を横に振る。
「弱い人間を狙う連中は誰もが僕を女だと思って、危険が迫れば真っ先に僕を狙ってくれる。誰かの傍に居るには、都合が良いのが女の格好だっただけ」
それだけ、とルイは呟いた。
それだけとは思えなかった。何度も酒場に足を運んで危ない橋を渡っていたのも、危険が迫った時に囮になるのも、全てはたった一人のため。
いつの間にか奥歯を噛みしめて、フルーヴを抱きしめる力を強くしていた。
僅かに身動きしたフルーヴを起こさないように、力を緩めて息を吐く。
「ルイさん…馬鹿ですよ」
「まあねえ」
「自分を大切にして下さい」
祈りを込めた亜莉香を、ルイは微笑みながら振り返った。
笑みを浮かべていても、ルイの感情は読み取れない。いつだって最優先事項は変わらず、真っ直ぐに進んで目的を達成する。
怒ればいいのか。それとも泣けばいいのか。
何を言ってもルイの心に響かないかもしれないけど、深い緑の瞳をじっと見つめた。
「ルカさんの為に行動するのがルイさんにとって大事なことだとしても、そのために傷つくのは違う気がします。ルイさんのことを心配している人は沢山いるのです。お願いですから――その人達の想いを見なかったことにしないで下さい」
亜莉香だけじゃない。
ルイのことを心配して、傍に居たのはルカだけじゃない。一緒にセレストに来たトシヤやガランスで待っていてくれるトウゴ、怒りながらも怪我を治してくれるユシアや親友だと言っていたキサギ。
顔を合わせれば兄弟喧嘩するヨルだって、一度しか会ったことないイオだって。
ルイのことを大切に想っている人達が沢山いる。
亜莉香の真っ直ぐな瞳に耐え切れず、ルイは先に目を背けた。
「自分のことが大切だと、思っているつもりだったけどな」
独り言のように言い、視線が下がって両手を顔の前で組んだ。両手で瞳を隠すように、顔を伏せて弱々しく声が続く。
「自分を大切にする方法なんて、僕には分からない」
「そんなの私にも分かりません」
でも、と優しく言う。
「ルカさんのために、なんて言葉を重ねて、やりたくないことをしなくていいと思います。今朝だってルカさんがルイさんの顔を見たくないと言いましたが、ルイさんの気持ちはどうだったのですか?」
「今、その話を持ち出さないでよ」
呆れた声が混じった。
「だって、ルイさんがルカさんに会いたいと思わないはずがないでしょう?」
「それは否定しない」
「自分の気持ちを偽っていると、いつか本当の気持ちが分からなくなります。私がガランスで皆さんと出逢うまで、そうでしたから」
即答したはずのルイが顔を上げて、代わりに亜莉香は水路を見た。
ルイが珍しく自分のことを話してくれたから、何か話したくなった。親友の透しか知らない過去を話すことは抵抗があったはずなのに、淡々とありのままの事実を述べる。
「私は昔、自分の気持ちを偽って過ごしていました。嫌なことも辛いことも、何もかも大丈夫だと言い聞かせて」
「…うん」
途中で相槌が入っても、話は始まったばかりだ。
「だから、なのでしょうか?友人だと思っていた子に、殺されかけましたことがあります。私は抵抗の仕方も分からなくて、死ぬ手前だったと言うのは親友から聞いた話です」
舟を漕ぐ音がその場に響いて、ルイが言葉を失っていた。闇が濃くなって、過ぎ去った記憶が水面に映った気がする。
「死ぬつもりはなかったのに、私は死にかけたのです」
同情して欲しいわけじゃない。
ようやく向き合えるようになった当時のことを、亜莉香は語り出した。




