35-1
午後にはセレストに到着する快晴の日だと言うのに、馬車の中は暗かった。
現状に困っている亜莉香の目の前には、昨晩宿で部屋に戻って来るなり布団に潜り込んだルカがいる。目の下には隈を作って、ろくに寝ていない顔で濡れタオルを顔に押し付けて仰向けになっていた。
ルカの身に何かあったに違いないが、何も話してくれない。
それにルイが関わっているようで、ルカのことを頼まれてしまった。
あまりにも悲惨な顔に、馬車で休むように提案したのはトシヤだ。提案した本人はロイと並んで座っているはずで、ルカの馬にはチアキが乗っている。チアキが乗っていた馬は本来シンヤの馬で、久しぶりの乗馬を楽しむシンヤはルイにちょっかいを出しているはずだ。
馬車の中にいるのは亜莉香とルカ、それからおろおろして膝の上にいるフルーヴ。いつもと違うルカに、フルーヴは両手で口を塞いでいた。何も喋らないと何度も頷いて、亜莉香は優しく微笑む。
寝て欲しいのに、ルカは口元を固く結んで身動き一つしない。気を張って、朝から思い悩んでいるルカの名前を亜莉香は呼んだ。
「ルカさん」
「何でもない」
「起きているなら、隣に座りませんか?」
今朝から何度も聞いた言葉を聞き流して、もう一度言う。
「眠れないなら、話している間に眠くなるかもしれません。もうすぐセレストに着くとしても時間はありますので、お話しする時間もあるでしょう?隣に座れば顔も見えません」
安心してと想いを込めると、ルカはそっとタオルを取った。
今朝から変わらず、まるで迷子になったような瞳がおぼつかない。重い足取りで立ち上がったので、亜莉香は窓際に移動した。隣にやって来たルカは少しでも離れようと、身体を反対側に傾けて座った。足を閉じて、腕を組んでぼんやりと前を見据える。
ルカを見ないようにして、亜莉香は話し出す。
「ルカさんはセレストに行ったことがあるのでしたよね?」
「まあ、な」
「水路の多い街でしたね。ガランスとは全く違いますか?」
「違う。移動手段に平底の細長い船があって、小さいけど橋も多い」
ゴンドラを思い浮かべた亜莉香に対して、ぽつりぽつりとルカが話す。
「水花祭りは至る所に花を飾って、水を掛け合う日。癒しであり、安らぎであり、恵みをもたらす水を掛け合って、日々の感謝を伝え合う日とも言われている」
遠い昔を懐かしそうに思い出すルカの横顔を盗み見た。
「家族や友人、世話になっている人に水を掛けるのは感謝のしるしだって、祭りの日はどこもかしこも水浸しになる。小さい頃の記憶だけど、楽しい祭りだって覚えている」
両親と旅した思い出を話すルカは、少しだけ穏やかな顔になる。
「祭りの当日は、多くの人が青い花を身に付けていてさ。水よりもっと沢山の感謝を伝えたい相手に、青い花を贈り合っていた。小さい頃の俺は両親から青い花を贈られて、俺も両親に青い花を贈って。お揃いの花を身に付けるのが嬉しくて堪らなかった」
懐かしい、と呟いた。
我慢できなくなったフルーヴが両手を離して、小さな頭を僅かに下げる。
「その日は、弔う日でもあるよ」
いつもの舌足らずではなく大人びた声に、亜莉香はフルーヴを見た。
ルカはその言葉の意味を知っているようで口を閉ざして、瞳を伏せる。
「そうだったな」
「そうよ。祭りの最後に、川に青い花を流すのが途絶えることのない祭りの習慣。鬼灯に似た植物に乗って、死者の魂がまた巡って帰って来られるように。また会えますように、願いを込める。日々に感謝すると共に、死者に別れを告げる日なの」
一息ついたフルーヴが、亜莉香を振り返った。
「あたまに浮かんだの」
「そう…なのですか?」
「うん」
頷いてまた前を向いたフルーヴが足をぶらぶらと揺らして、亜莉香は戸惑う。
振り返ったフルーヴの青い瞳の奥が輝いていて、得体の知れない誰かがフルーヴの中にいるような気がした。ルカはフルーヴの変化を気にせず、また視線を前に向ける。
馬車の揺れる音以外の音が消えて、フルーヴは再び口を開く。
「それぞれの祭りの日に護人の力が満ちるように、闇の力も満ちる。その均等が崩れた土地は壊れてしまうから、光の象徴である護人が必要なの」
「まるでアリカが誰かに呼ばれて、セレストに来ることになったみたいな言い方だな」
「そうかもしれない」
投げやりなルカに、フルーヴが素直に肯定した。
それ以上の言葉は続かなくて、勢いよく立ち上がって兎の姿に変わった。亜莉香と目が合ったかと思うと、頭の上に飛び乗って、その小さな身体を丸める。
「フルーヴ、ねる」
「そこでですか?」
「あたまがぐらぐらするの。もう話したくないの」
弱々しい声で言ったフルーヴは、すぐに寝息を立てて静かになった。
一部始終を見ていたルカはじっとフルーヴを眺めて、何やら思考していた。眉間に皺を寄せて話しかけにくい顔をしているが、亜莉香は遠慮がちに言う。
「いつもと違うフルーヴでしたよね?」
「そう思う…けど、頭が回らない」
「寝てないからですよ」
言いながら、頭の上にいるフルーヴのことを考えた。
ここ数日一緒に寝ているフルーヴは、亜莉香にくっついて寝ることが多い。触れていた方が落ち着くと言って、毛布の中に隠れて気持ちよさそうに寝ていた。
それはフルーヴだけの話じゃないのかもしれない。
うつらうつらし始めたルカに目を向けて、言葉で説明するよりも早く腕を引っ張った。馬車が揺れた反動もあって、傾いたルカの頭が膝の上に収まる。腕を組んだままの体勢はきつそうだが、それ以上に呆気に取られたルカが亜莉香を見上げた。
「おい」
「まあまあ」
「まあまあじゃなくて――」
睨まれても微笑み、膝枕しているルカの髪を優しく撫でた。
ルカが黙ったのは眠たかったからなのか。起き上がる気力すらなかったのか。どちらにせよ、手にしていたタオルで目元を隠す。
「着いたら、ちゃんと起こせよ」
「はい。おやすみなさい」
返事の代わりに、横向きのルカはゆっくりと息を吐いた。肩の力を抜いて、組んでいた腕を解いて深呼吸を繰り返す。ルカが深い眠りにつくのに、時間はかからない。
頭の上にはフルーヴがいて、膝の上にはルカがいる。誰にも邪魔されないように、そっと窓のカーテンに手を伸ばして閉める。話し相手はいなくなったが、亜莉香の心の中は穏やかそのものだった。




