34-3
道案内のフルーヴを抱えて辿り着いた小川は、幅が三メートル程の穏やかな川だった。
木々に囲まれていて、どこからどこへ流れていくのか分からない。水面に星空が映って、きらきらと輝く小川の近くには水の精霊がいつもより沢山いた。
浅くて、透き通る青緑の色。
今にも飛び込みそうなフルーヴが亜莉香を見上げて、瞳を輝かせた。
「ありか、どぼんしよう!」
「どぼん?」
「どぼん!」
おそらく川に飛び込むことだろうと予測する。
辺りを見渡して大きな石を見つけた。石の上で靴を脱いで川に飛び込もうとする前に、後ろにいたルカの低い声がした。
「こんな夜に川に飛び込むな」
「ですが…ちょっとだけですよ?」
振り返れば、腕を組んで睨むルカの隣に笑いを耐えるルイがいる。
「アリカさん、風邪ひくよ?」
その通りだけど、納得はしない。フルーヴは不満そうな声を出す。
「だめ?」
「危ないと僕は思うよ」
「そうですよね」
ルイの言葉に同意しつつ、亜莉香は大きな石の元に進んだ。あまりにも悲しそうに川を見つめるフルーヴに、優しく問いかける。
「とりあえず、フルーヴだけでもここからどぼんしますか?」
「いいの!?」
「いいですよ。どぼん、と言うからには高く上げた方がいいですか?」
「投げて!」
馬車の中では高く上げられなかったので、思いっきり空高く投げた。
見た目が小さな女の子でも、中身は精霊でとても軽い。投げられたフルーヴは途中で兎の身体になって、くるりと一回転して川に落ちた。
どぼん、と音を立てて川の中に消えて、すぐに顔を出す。
水の中はとても気持ち良さそうで、精霊達と一緒に遊び始めた。フルーヴが楽しいことなら楽しいに違いない。羨ましくなって、膝を抱えながら石の上に座った。
ルカとルイが傍に来て、フルーヴを眺める。
「元気だな」
「ずっと馬車の上で暇だったからでしょう?宿に着いても隠れてばっかりで、遊んであげられなかったから」
「遊びに来たわけじゃないけどな」
「たまには息抜きだと思って、付き合ってあげようよ」
ルイがしゃがんで両手を頬に当てた。ルカの視線の先もフルーヴに注がれている間に、亜莉香は気付かれないように靴に手を伸ばす。
まずはルカとルイのいない左側の靴と足袋を脱ぎ、袴の影に隠した。両足を組んで足を入れ替えて、左手で右足に触れた。
裸足になって、袴をどうするか考える。
このまま川に飛び込めば濡れるのは確定だけど、袴を脱いだら飛び込むのがばれてしまう。どうせ着物は濡れるから、馬車に戻って着替えればいい。
結論に辿り着くと、亜莉香は勢いよく立ち上がった。
ルカとルイの口が開く前に、一歩を踏み込んで思い切って川に飛び込んだ。
どぼん、と言うよりは、ばしゃん、の音が正しい。浅いと思っていた川は、しゃがんで頭を下げれば、全身が潜ってしまう深さだった。
顔を上げれば、水面が揺れた。
空気を思いっきり吸い込んで、両手を川の底につけたまま夜空を仰ぐ。
「気持ちいい」
「ありか!」
名前を呼ばれて横を向けば、白い兎が頭に張り付いて倒された。
水の中までルカとルイの慌てた声が響いて、両手を引っ張られて川から救い出された。もう少し遅かったら、息が出来なくて苦しくなったに違いない。
咳き込んで、川の水を少し飲んでしまった。
心臓は激しく脈打って、息を止めかけたフルーヴはまだ顔に張り付いている。
ふかふかの毛並は濡れているのに、温かくて柔らかい。
「ありかも、どぼん!」
「フルーヴ、ちょっと離れようか」
「おい、頭は大丈夫か?」
川に飛び込んだ亜莉香の神経を疑っているルカが言い、ルイがフルーヴを引き離した。首根っこを掴まれて、ぶらーん、とぶら下がったフルーヴは何事だろうと、不思議そうな顔をして亜莉香を見た。
ルカとルイには悪いが、川に飛び込んで頭がすっきりした。
心配しているルカは亜莉香の目の前に立って両手を掴んだままで、ルイは一歩下がって安心した表情になる。
場違いだと分かっているが、亜莉香は笑いが込み上げて止められない。
「ご、ごめんなさい。まさか、フルーヴに倒されるとは思わなくて」
「笑い話じゃないだろ」
「その様子だと、大丈夫そうだね」
ルカがそっと手を離して、亜莉香は右手で上がった口角を隠しながら頷く。
フルーヴは何も分かっていなくて、はっとした顔でルイを見上げた。
「こんどは、るい投げて!」
「あー…うん、もうここまで来たら、全力で付き合ってあげるよっ!」
最後の言葉を言い終えると同時に、ルイは力いっぱい空に向かって投げた。亜莉香よりも高く、ひゃー、と騒ぎながら小さな兎が川に落ちる。
声を上げて笑えば、ルカが亜莉香に手を差し伸べて微笑んだ。
「久しぶりに、笑っているアリカの顔を見た気がする」
「私…そんなに笑えていませんでしたか?」
「まあな」
素っ気なく言い、ルカは手を重ねた亜莉香を立ち上がらせた。
髪まで濡れた亜莉香はにっこりと笑って、ルカの手を握り返す。
「もう大丈夫です。くよくよ悩んで、暗い顔をするのはやめました」
「それは良かった」
「そもそも悪いのはトシヤくんで、アリカさんが気に病む必要はなかったけどね」
ルイがルカの隣にやって来て、亜莉香は瞬きを繰り返した。
「トシヤさんは何もしていませんよ?」
「いやいや、トシヤくんの態度が悪い。アリカさんは怒っても良かったぐらいだよ。一人で勝手にやきもきしてさ」
「あれはないよな」
「ないねー」
ここ数日のトシヤを思い返して、ルカとルイは何度も頷いた。
よそよそしくて、目が合うといつも先に視線を逸らす。亜莉香のことはルカとルイに任せて、何か言いたいことがありそうな顔をしても何も言わない。
それは亜莉香も似たり寄ったりで、トシヤだけが悪いとは思わない。
いつの間にかトシヤが悪役にされていて、亜莉香は小さな声で訊ねる。
「あの…私は嫌われたわけではありませんよね?」
言ってから、聞かなければ良かったかもしれないと後悔した。
ルカの瞳に憐みが浮かんで、ルイはおそらくトシヤがいる方角を見てぼやく。
「そこまで思い詰めさせた責任を、どう取らせるかな?」
とても小さかった声は、ルカの耳にだけ届いた。
何を言ったか亜莉香が聞き返す前に、因みに、とルイが何かを企んだ顔になる。
「アリカさん、簪を外す選択肢はある?簪がないのを見れば、あのトシヤくんでも行動を起こすと思うけど?」
「簪は、ちょっと」
外したくない、と首を横に振った。
もう手放せないものになっている。簪の存在が、亜莉香を勇気づけてくれることもあるから。一人じゃないとも思わせてくれて、それ以外は、と考えれば思考が止まった。
それ以外の理由が、上手く言葉に出来ない。
ルイが微笑み、踵を返して川から出る。
「なら、そのままでいいや。僕はタオル取って来るよ。冷える前に遊ぶのをやめて、ここで待っていてね」
「最初から遊ぶつもりはない」
「あ…お気を付けて」
「るい、もう一回!」
川から上がったルイの肩に、ぴょんとフルーヴは飛び乗った。
肩が濡れてもルイは気にしない。仕方がない、と言いながら空高く投げ飛ばして、フルーヴにこれ以上捕まらないように、逃げるように来た道を戻っていなくなった。
その後ろ姿を見送って、ルカは亜莉香に陸に上がるように促す。
「ほら、上がろうぜ」
「…もう少しだけ遊びませんか?」
上目づかいでルカの瞳をじっと見れば、ため息が返って来た。
駄目とは言われなかったので、フルーヴの名前を呼ぶ。川に落ちて浮かんでいたフルーヴはすぐさま駆け出して、飛びついた衝動で亜莉香の足が滑った。




