04-2
ルイにタオルと着替えを手渡されて、シャワーを浴びた。
着物と袴の一式も手渡されたが、着方がよく分からなかった。結局は目立った汚れのない制服にもう一度着ることに決め、白いブラウスに手を通し、腰スカートを穿いた。ブレザーとタイツを身に付ける前に、濡れていた髪をタオルで拭く。
髪を拭く途中で、洗面所の鏡に自分の顔が映った。
鏡の中で、前髪で少し隠れている黒い瞳が揺れている。毎朝見慣れていたはずの何の意思も感じられないような無表情ではなく、心なしか嬉しそうな表情。シャワーを浴びたおかげか、朝から綺麗な景色を見たおかげか。嬉しくて、幸せを感じながら、亜莉香は微笑んだ。
「まずは仕事探しかな」
何が出来るかな、と考える。
得意なことも、働いた経験もない。それでも誰もが働いている現状で、働かないわけにはいかない。一文無しでもいたくないし、何か役に立てることがあるなら何でもやりたい。
変哲のなかった日々が崩れ去ったのに、現状を楽しんでいる。
「少し、変な気分」
笑みが零れて、亜莉香はタオルで髪を拭くのを止めた。あとは自然乾燥にしよう、と外していた髪飾りで、髪を軽く結ぶ。
タオルを畳んでいる途中で、ドタバタと誰かが階段を駆け上がる音がした。
二階のどこかの扉が開き、閉まった音。慌てたように駆け足で、誰かが風呂場にやって来る音に、亜莉香の動きは自然と止まった。誰だろう、と思いながら、黙って誰が来るのか待つ。
勢いよく扉が開いた瞬間、前髪に寝癖の付いたトシヤと目が合った。
「あ、おはよう――」
ございます、と言いかけた亜莉香の言葉を遮って、少し顔の赤くなったトシヤが叫ぶ。
「着替え途中に、悪い!」
「いや…あの――」
訂正しようとした言葉を聞かず、トシヤは亜莉香から視線を外して、勢いよく扉を閉めた。見られても問題がない、と説明する暇はない。乱暴に閉めた扉は反動で少し隙間が空き、トシヤが階段を下りていく音がする。
「…私、服着ていますけど?」
慌てて走り去ったトシヤに向かって、亜莉香は小さく呟いた。
「あっははは。それでトシヤが慌てて家を出て行ったの?」
朝の一部始終を話し終えると、ユシアは声を上げながら笑い、目の前で座っている亜莉香に訊ねた。はい、と正直に答えると、また笑う。
亜莉香を昼過ぎに家まで迎えに来たトシヤは、顔を合わせると深く謝罪した。
トシヤに落ち度はなく、むしろ風呂場の鍵を閉めなかった亜莉香に問題があったのだと、あとでルイと話して発覚したのは、トシヤが家を出た後の話。
トシヤが慌てて家を出て行く音で、ユシアとトウゴは目を覚ました。そのまま飛び起きて、二人とも仕事へ向かい、ルカとルイは暫くしてから家を出た。亜莉香はやることがなくて、茶の間の片付けと掃除をしていると、午前はあっという間に終わった。
トシヤが家に帰って来て、ユシアの診療所に向かうまでに話をした。
朝の出来事の訂正をして、亜莉香も謝って話は終わったつもりだったが、あまりにも慌てたトシヤの様子が気になったユシアに指摘され、昼食を食べながら簡単に説明をした。
亜莉香の隣に座り、ずっと黙っていたトシヤが、ぶすっとした顔で言う。
「いい加減、笑うのを止めろ」
「いや、だって。ごめん…」
無理、と言いながら、ユシアは水を飲もうとしてむせる。呆れたトシヤがため息を零し、亜莉香は食べかけだったパスタを口に運ぶ。
近場の喫茶店、とユシアとトシヤとやって来たのは、市場から少し外れた小さな店。
カウンターとテーブル席が二つしかない店は、手書きのメニューが大きな黒板に書いてあり、店全体が焦げ茶色。店長と店員の二人で切り盛りしていて、お昼の時間を過ぎているが、繁盛していて店内は話し声で賑やかだ。
パスタをそれぞれ頼んで、先に食べ終わったトシヤが言う。
「それで、この後の予定は?」
「アリカちゃんの生活必需品を買いに行くわよ。本当は呉服屋に行って、生地選びから始めたいけど…今回は出来上がっている着物の方がいいわね。他にも市場を歩きながら、適当に店を見てみましょう」
トシヤ同様、パスタを食べ終わり、食後のお茶を飲んでいたユシアが言い切った。決定権はユシアにあるので、トシヤは反論しない。あの、とパスタを食べていた手を止め、遠慮がちに亜莉香は言う。
「私、このままの服装でもいいですよ?」
「駄目よ。そのままの格好でも可愛いけど、変に目立って貴族に目をつけられたら大変だもの。最近はこっちの方まで足を運んでいる貴族がいる、なんて噂もあるし、関わらない方が安全よ」
こっち、がどこを指しているのか分からず、曖昧な返事をして、亜莉香は水を飲んだ。
よく分かっていない亜莉香の様子に、トシヤが昨日のことを思い出す。
「そう言えば、結局昨日は貴族の説明をしてねーな」
「あら、そうだったかしら?」
ユシアが疑問形で言い、亜莉香も考える。
診療所でそんな話をしていた気もするが、貴族の話をする前に亜莉香がどこに住むのかの話になり、そのまま流れていた気がしなくもない。
そうですね、と亜莉香は呟いた。
「貴族の話と、可能なら、この街について詳しく教えて欲しいです。まだ頭の中にこの街の地図が入っていなくて、どこに行っても迷子になりそうなので」
「迷子になりそうなら、当分トシヤを案内役にすればいいわよ。どうせ暇だから」
「暇じゃない」
ぼそっと言い返したトシヤの言葉に、ユシアは耳を貸さない。人差し指を口に当て、視線を下げる。
「簡単に言うと…そうね、この街は北に領主が住む家があり、真逆の南に神社あるの。中心から北側は、貴族が住む裕福層。私達がいる南側が、市場のある庶民層。その境界は中央通りで、西には他の街に繋がる街道が、東には温泉街への道があるわ」
考えながら、一応、とユシアは言葉を続ける。
「正門は街道の方で、裏門が温泉街の方ね。中央市場と呼ばれる、神社から中央通りまでの大きな市場の他に、私達がこれから行く東市場と滅多に行かない西市場があるの。ここまで、何となく分かったかしら?」
「はい、何とか」
ぼんやりと、地図を思い浮かべながら亜莉香は頷いた。貴族は、と説明に付け加えるように、トシヤが口を挟む。
「一言で言えば、沢山の財産と魔力の強い人間。大抵の貴族が着物に家紋を背負っていて、男の場合は刀を持っている」
「威張っていて、偉そうな馬鹿が貴族には多いのよ。貴族の女性はあまり家から出ないから、見かけることはないと思うけど、どちらにしろ、雰囲気から貴族は丸わかりね」
馬鹿にするようにユシアは言い、静かにお茶を飲む。確かに、と頷いたのはトシヤで、話を聞いていた亜莉香は、パスタを食べていた手が途中で止まった。
「私、貴族の方を見分けられる自信がないです」
「そんなことないわよ。見たことなくても、見れば分かると思うわ。見ないに越したことはないのだけれど」
「一番いいのは、北側に行かないことだな。昨日みたいに人混みに巻き込まれて、そのまま北側に行っていた、なんてことが起こるとは思えないけど」
「なら、やっぱりアリカちゃんが道を覚えるまでは、暇なトシヤが付き添いね」
暇、と言う言葉を強調したユシアが、にっこりと笑ってトシヤを見た。顔を上げた亜莉香の瞳に、トシヤの嫌そうな顔が映り、慌てて口を開く。
「あ、私なら一人で大丈夫です。頑張って道を覚えますので」
「頑張らなくていいわよ、アリカちゃん。一生トシヤをこき使えばいいのよ」
「なんで俺が、一生ユシアにこき使われるんだよ」
当たり前のように言うユシアに、トシヤは納得がいかない、と言わんばかりに言い返した。当たり前じゃない、とユシアが頬杖をつく。
「今だって養っているのは、この私。トウゴより稼いでいるのよ。トシヤをこき使うのは当たり前、でしょう?」
「ユシアとトウゴが家事をしないから、俺が仕事を減らして家事をしているんだよ。誰だよ、掃除はしない。料理は作れない。家中の物を壊して反省しない奴は」
「それって、私のこと?なあに?喧嘩を売っているのかしら?」
「売ってない。事実を言っただけだろ」
ユシアを睨みながら、椅子に深く座って腕を組んだトシヤが言った。
途中から、話が変わっていることさえ気にせず、二人は睨み合う。亜莉香が口を出せる雰囲気はない。へえ、とユシアが口角を引きつらせた。
「そう言うトシヤだって。掃除は雑、料理は下手くそ、弟ならトウゴの管理をしっかりしなさいよ」
「掃除しない奴よりマシだろ。料理だってユシアよりは上手いから。トウゴは昔からあんな感じで、どうにか出来る奴じゃない。ユシアだって、知っているだろうが」
「それでもね、そろそろ堪忍袋の緒が切れそうよ。だいたい昔からトウゴは――」
ユシアのトウゴへの文句が始まった。
喧嘩腰になりかけたユシアが、徐々に日頃のストレスを吐き出すだけになる。トシヤは話が変わって肩の力を抜き、適当に相槌を打っている。
これはしばらく続くな、と思った亜莉香は、残っているパスタを口に運んだ。




