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Last Crown  作者: 香山 結月
第2章 星明かりと瑠璃唐草
158/507

33-4

 近くの民家の浴室で、亜莉香は首までお湯に沈めて温まる。

 窓の外の雨は止んでも、曇り空は変わらず薄暗い。冷えていた身体は徐々に温まり、ゆっくりとお湯に浸かると癒される。

 意外と疲れを感じていたのだと思いながら、民家の住人の顔を思い出す。


 平屋建ての民家に住んでいたのは八十を過ぎた老夫婦で、やって来た亜莉香とルカを快く出迎えてくれた。娘のお古だと言う着物を貸してくれて、風邪を引かないように浴室に案内すると、良かったら夕飯を食べて泊まって行きなさいと言われた。

 元々ルカとルイは泊まる場所を考えてなかっただけに、それはありがたい申し出だ。

 二人が泊まるのかと思いきや、ルイはシンヤ達と共に領主の家に向かった。

 ルカは濡れていないからと、夕食の手伝いをしている。じっくり温まるように言われると、すぐに上がるわけにもいかない。ぶくぶくとお湯で遊んで、もう十分だろうと思って湯船から出た。


 大きなタオルを身体に巻いて、髪を絞って片方にまとめる。

 火照った身体を冷ます間に、洗面所にあった鏡を覗き込む。

 少し伸びた前髪が瞳にかかって、そろそろ切らなければ邪魔になる。ガランスに戻ったら切ろうと、前髪をいじっていると子供の足音が聞こえた気がした。

 たったった、と軽やかで不規則な音が不意に混じる足音は聞き覚えがある。

 洗面所の扉を亜莉香が振り返ると同時に、扉は勢いよく開いて白い兎が飛び跳ねた。

 思わず手を伸ばして抱きしめる前に、小さな兎は真っ白な髪の女の子に変わった。青い河の色の瞳が輝いて、太陽のように眩しい笑顔でぎゅっとしがみつく。


「ありか!」

「フ…フルーヴ?」

「ありか!」


 三歳くらいの年齢にしか見えないフルーヴは軽くて、嬉しそうに亜莉香の首に腕を回した。両膝をついて小さな背中を擦りながら、予想外の登場に驚く。


「え…なんで?どこから?」

「あいたかったの!」

「付いてきちゃったの?」

「うん!」


 どうやって、と聞くまで頭が回らない。

 頭が混乱して動けないでいると、別の足音がやって来た。扉を通り過ぎそうなくらい勢いよく走って、トシヤは急停止して叫ぶ。


「フルーヴ!ちょっと、待て――」

「――っ!」


 声にならない悲鳴が上がって、亜莉香の顔は一瞬で赤く染まった。

 まだタオルしか巻いてない。両手両足の素肌を隠すものがなくて、恥ずかしさで涙が滲みそうになった。

 目が合って、トシヤの顔も赤くなって、お互いに動けない。

 見つかって顔を埋めたフルーヴを何とか強く抱きしめると、苦しい、と楽しそうな声がした。楽しいのはフルーヴだけで、状況をまるで分かっていない。


 トシヤの弁解よりも早く、また別の足音二人分が響いた。


 ルイは亜莉香を見向きもせずに、トシヤの顔を片手で隠す。そのままもう片手で首元を掴んで下を向かせて、洗面所とは反対に顔を向けた。

 洗面所に足を踏み入れたルカは即座に着物を手に取り、ふわりと亜莉香の肩に掛ける。傍に片膝をついて、状況を把握すると同時にルイに言う。


「ルイ、そのままトシヤを連れて行け。フルーヴは俺が連れて行く」

「了解。トシヤくん、歩きにくくても移動するよー」


 何も言い返せなかったトシヤが頷いて、ルイと共に姿を消した。

 二人がいなくなってから、硬直していた亜莉香はフルーヴを抱きしめていた力を緩めて、肩の力を抜いて座り込む。


「大丈夫か?」

「大丈夫に見えますか?」

「見えない」


 分かっていたことを確認したルカが、ぽんぽんと頭を撫でる。

 慰められて、身体を傾けてルカに寄りかかった。肩に回された手が優しくて、心臓の音が段々と落ち着く。フルーヴは腕の中で顔を上げて、瞬きを繰り返して亜莉香を見つめた。褒めてと言わんばかりの表情にぎこちなく笑いかければ、にっこりと笑ってまたしがみつく。

 深呼吸を繰り返して、亜莉香は小さな声で話し出す。


「本当に、驚きました」

「だろうな」

「何故、トシヤさんとルイさんがここに?」

「アリカの荷物にフルーヴが紛れ込んでいるのに気が付いて、ルイが連れて来た。ついでにトシヤも連れて来たら、家に入るなりフルーヴが亜莉香の元に駆け出して、トシヤが連れ戻しに行ったけど」

「うぅ…もう少し早く上がれば良かったです」


 思い出しただけで頬が赤く染まった亜莉香は、両手で顔を隠した。

 そっと手を離して、フルーヴの名前を呼ぶ。


「フルーヴはどうやって、ここまで来たのですか?」

「どうやって?」

「不貞寝をしていたのではないですか?」


 亜莉香の言葉を必死に理解して、フルーヴは首を横に振った。


「ちがうの!ありかのふろしきの中で、ねていたの!」

「いつからですか?」

「あさ!」

「今朝の話だよな?」

「おそらく、そうだと思います」


 短い単語でしか答えないフルーヴの言いたいことを、亜莉香とルカは何とか理解する。

 昨日の夜はトウゴの部屋で不貞寝をしているのだと聞いていた。今朝姿を見せなかったのは、亜莉香の荷物に紛れ込んで寝ていたせい。

 黙った亜莉香にフルーヴはもっと説明しようと、あのね、と話し出す。


「ぬいぐるみを、置いてきたの!」

「…どこに?」

「トウゴのふとんの中!」

「フルーヴの代わりに、ですか?」

「ピヴワヌ様がさびしくないように!フルーヴ、えらい!」


 自画自賛したフルーヴは胸を張るが、今頃ピヴワヌが必死に探しているかもしれない。距離が離れすぎて心の中で呼びかけても返事はなく、これからどうしようと思えばルカがフルーヴの瞳を覗き込んだ。


「今から一人で帰れるか?」

「なんで?」

「何でと言われると…」


 ルカの説得は呆気なく失敗して、亜莉香に助けを求めた。

 少し考えてから、不思議そうな顔のフルーヴに訊ねる。


「フルーヴ、トウゴさんに会いたくはありませんか?」

「会いたい!」

「私と一緒にいたら、暫くトウゴさんに会えません。それは悲しくありませんか?」

「…かなしい」


 しょんぼりと頭を下げたフルーヴの頭を、亜莉香は優しく撫でた。


「トウゴさんも、フルーヴがいないと悲しいと思いますよ。何も言わずにいなくなったら、フルーヴだって寂しくもなるでしょう?」

「うん」

「ちゃんと挨拶をして、行ってきますと言わないといけませんでしたね」

「うん」

「フルーヴはちゃんと挨拶出来ますよね?」

「できる…うん!出来る!」


 ぱっと顔を明るくして、フルーヴは顔を上げた。


「フルーヴ、あいさつする!それでありかといっしょに行く!」


 うんと大きく頷いて、フルーヴは立ち上がった。

 亜莉香とルカが顔を合わせた間に浴室に向かい、お湯を覗き込もうとするが背が届かない。ぷくっと頬を膨らませて、亜莉香を振り返る。


「ありか!」

「ちょっと待ってください」


 立ち上がった亜莉香は簡単に帯を巻いて、フルーヴを抱き上げた。

 浴槽の蓋を端に寄せると、浴室に張っていたお湯に小さな手が触れた。淡く青い光は微かに波打って、フルーヴの瞳も輝き何かを探す。


「…いた」


 とても小さく呟くと、水面の景色が変わった。見えているのはどこかの天井で、青い精霊がふわふわと浮いていた。フルーヴは手を触れたまま、身を乗り出して叫ぶ。


「よんで!」

「何をしているんだ?」

「さあ?」


 亜莉香の隣で、ルカも水面を覗き込む。

 フルーヴの声に答えて、青い精霊の姿は見えなくなった。天井しか映らなくて、すぐに真っ赤なルビーの瞳が現れた。

 怒りが爆発しているピヴワヌの顔に、フルーヴは歓喜の声を出す。


「ピヴワヌさま!」

「ピヴワヌ様…じゃない!一体今どこに――なんで、アリカと一緒にいるのだ!!」


 ぐいっとまた顔が近づいて、ほぼ瞳しか見えていないピヴワヌの声がよく響いた。

 わなわなと震えだしたピヴワヌに、亜莉香は急いで言う。


「ピヴワヌ、落ち着いて下さい」

「落ち着けるか!どこを探してもいなかったのに。水鏡は教えてないのに。勝手なことばかりしよって!」


 水面から離れたピヴワヌが、頭を抱えてうめき声を出した。

 必死に感情を抑えようとしているピヴワヌを見ながら、冷静にルカが口を挟む。


「水鏡は便利だな」

「それは何ですか?」

「水を通して遠い場所を映す魔法。高度な魔法で使える人間は少ないはずだけど、精霊なら使えるものなのか」

「そんなわけあるか!魔力を飛ばすのがどれだけ大変か――」

「フルーヴ、ありかといっしょに行く!いってきます!」

「勝手に決めるな!」


 ピヴワヌの説明を遮って、フルーヴは元気よく言った。

 扉が開く音がして、水面に映ったピヴワヌが横を振り向く。


「おい、お前も何か言ってやれ!」

「…何をやっているの?」


 戸惑う声だけが聞こえて、ピヴワヌの隣にトウゴの姿が現れる。

 瞬きを繰り返したトウゴの瞳に、嬉しそうなフルーヴを抱えた亜莉香とルカの姿が映って、右手人差し指で頬を掻く。


「えっと…本当に、これは何?」

「水鏡だそうですよ」

「トウゴ!フルーヴ、ありかといるの!行ってくるの!」

「うっわー。グラスの中から声もちゃんと聞こえる」

「そっちはグラスの中なのか」


 なるほど、とルカが呟いた。トウゴは首を傾げる。


「そっちはグラスじゃないの?」

「こっちは浴槽のお湯ですよ」

「アリカの荷物に紛れ込んだフルーヴと、さっき合流したところだ」

「フルーヴ、皆を困らせちゃ駄目だよ。勝手にいなくなったら、俺が心配するとは思わなかった?」

「ごめんなさい」


 素直に謝ったフルーヴに、トウゴは仕方がないと笑みを零す。


「まあ、無事を確認出来て良かったよ。これはフルーヴの魔法?」

「うん!」

「これでいつでも、トウゴさんとお話出来ますね」

「水が近くにないと、使えない魔法だけどな。それに遠く離れる程、繋げるのに魔力が必要になるはずだ。フルーヴの魔力次第では、トウゴと長く話せる」

「フルーヴ、がんばる!」

「――どいつもこいつも呑気に会話をして、儂の話を聞け!!!」


 除け者にされていたピヴワヌが会話を止めて、じろっとフルーヴを睨んだ。

 フルーヴが手を離しそうになって、何とか思い止まる。


「いいか、よく聞け。どうせ帰って来る気がないなら、アリカの傍を離れるな。馬鹿でも治癒魔法には長けているから、いざという時に役に立つ」

「フルーヴ、ばか!」

「自分で言うな!」


 叫んで、ため息をついたピヴワヌが疲れた表情になる。


「アリカ、フル―ヴのことを頼む。精霊だとばれないようにしてくれ」

「私一人ではありませんから、何とか頑張ってみます」

「そう言えば、近くにトシヤやルイはいないの?」


 顔が僅かに赤くなった亜莉香と何もなかったことにしたルカは口を閉ざして、フルーヴが話し出す。


「まっかだったの!」

「何の話?」

「あのね、ありかと――」


 何もかもを話してしまうフルーヴの口を、亜莉香は咄嗟に抑えた。


「フルーヴ!それくらいにしましょう!」

「そろそろ夕飯の時間だろうな」


 ルカの夕飯の単語で、フルーヴの瞳が大きく見開いた。もぞもぞと動いて、亜莉香の手を退けると大きく口を開く。


「ごはん!」

「そう、ご飯です」

「いや、何があったか詳しく――」

「今日のおはなし、おしまーい!」


 興味津々のトウゴの声の途中で、フルーヴは両手を上げた。

 波紋が広がって、淡く青い光も消えた。浴槽の底が見えているだけで、トウゴとピヴワヌの姿はなくなり声も聞こえない。


「思い出さないようにしていたのに」


 ほっと安心した亜莉香は、とても小さく呟いた。落とさないようにフルーヴを抱きしめ直して、浴槽の蓋をそっと閉じようとすれば、ルカが手伝ってくれた。

 気を利かせて一人にしてくれたルカにフルーヴを預けて、亜莉香は着物を着直す。

 トシヤと顔が合わせにくい。お腹は減ったが洗面所から出る勇気が湧くまで時間がかかり、鏡の前で唸りながら膝を抱えてしゃがみ込んだ。

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