32-3
領主の敷地の一角にある東の離れであり、領主の家族の住まい。
一歩踏み出せば、満開の紫陽花に歓迎された。青や紫、白や桃色の紫陽花は見頃で、庭の中の小道を通って池の傍に案内される。
池の傍にひっそりと存在するのは、屋根付きの小さな建物。
小さな建物と言っても、離れと屋根しかない通路で繋がっている。庭や池を眺めながら休憩する場所で、通路同様に壁はない。滑らかで装飾のない五本の円柱に支えられた建物の屋根は漆黒の瓦で、中心に丸く温かな茶色のテーブルと四つの椅子がある。
派手な装飾はないが、細かい彫刻された椅子。
今にも雨が降り出しそうな曇り空と紫陽花を映した池を眺めて、シンヤは座っていた。
深く腰掛け、足を組んだ膝の上に両手を置く。寛いだ様子の後ろ姿は美しく、気品がある。薄い灰色の着物と黒の袴姿で、黄色を帯びた鮮やかな朱色の髪を漆黒のリボンで結んでいた。
足音が聞こえたシンヤが振り返らずに言う。
「晴れたら池に紫陽花が映って美しいが、雨が降っても風情がある。中途半端な天気では面白くないから、ナギトを呼んで雨を降らせるか?」
「それくらいで魔法を使わせるなよ」
「トシヤ殿は雨が好きではないか。では、アリカ殿は如何かな?」
質問されるとは思っていなくて、亜莉香は少し考えて口を開く。
「雨は嫌いではありませんが、ナギトさんにも仕事があるのでは?」
「今日のナギトとサクマの仕事は私に付き添うことで、この場に呼ぶのは問題ない。だが、お茶会に合わない顔はいない方がいいな」
自己完結をして、シンヤは立ち上がった。
黒と赤を帯びた橙色の瞳が、真っ直ぐに亜莉香とトシヤを見て微笑む。
「ようこそ、我が家へ。とりあえず座って話そう」
椅子を勧められて、亜莉香はシンヤの向かいに座った。トシヤは亜莉香の右側に座って、お茶の準備をするために静かにチアキが姿を消す。
さて、とシンヤが体勢を戻して軽く話し出す。
「手紙は無事に届いたようで良かった」
「あー…その件ですが」
「シンヤ。お前は次にルイに会った時、覚悟しておいた方がいい」
言葉を濁した亜莉香に続けて、トシヤは真面目に言った。シンヤが不思議そうに首を傾げて、亜莉香とトシヤを交互に比べた。
ルイから頼まれた伝言は、亜莉香の頭にこびりついている。
一門一句間違えずに、ゆっくりと伝えるように言われている。
「…最悪の目覚めをありがとう。次に会った時は息の根を止めに行くね、と」
「朝の紙鳥の件で、お前はルイを相当怒らせた」
しみじみとトシヤが言い、シンヤの表情が少しだけ強張った。
紙鳥を見るも無残な形にしたルイは亜莉香の部屋を出た後、すぐに身支度を整えて家から出るところだった。怒りを通り越して、殺意を持ってシンヤの元へ向かおうとしたルイを亜莉香とトシヤが必死に止めた。
何とか宥めて、お茶会に足を運ぶことも遠慮してもらったのだ。
途中で茶の間で寝ていたルカが起きて加勢してくれなければ、シンヤは今頃目の前にいなかった気さえする。そのくらい、ルイはシンヤに対して怒っていた。
眉間に皺が寄ったシンヤが、瞼を閉じて小さな声で問う。
「このお茶会に呼んだら、許して貰えただろうか?」
「それは逆効果だな」
「シンヤさんが自分の首を絞めることになりましたね」
遠慮ない助言を言うと、頃合いを見計らったようにチアキが戻って来た。
テーブルに並べたのは、苺ジャムの挟まった焼き菓子と三角にカットされた小さめのサンドイッチ。シンプルで真っ白なティーカップに紅茶を注ぎ、薄くスライスした檸檬を静かに浮かべた。
お礼を言って受け取った亜莉香は紅茶を口に運び、トシヤはティーカップを持つ。口に運ぶ前に止めて、遠い瞳で池を眺め続けるシンヤに訊ねる。
「今回は本当にこの為に呼んだのか?」
当たり前のように始まったお茶会に、トシヤは疑いを隠せない。
それは亜莉香も同じようなもので、紅茶を飲みながらシンヤの言葉を待つ。
「お茶を飲みながら、少し聞きたいことがあったものでな」
「聞きたいことですか?」
本題になったと感じた亜莉香はテーブルの上にティーカップを置き、シンヤは目を合わせずに紅茶を口に含んだ。
息を吐き、ようやく亜莉香とトシヤを見て話し出す。
「二人とも、セレストは知っているだろう?」
「まあな」
「水の街、でしたよね」
随分昔に聞いた話を頭の中から引っ張り出すが、あまり情報はない。
覚えている僅かな情報の真偽を、亜莉香は訊ねる。
「夏に大きな祭りがあるのでしたっけ?」
「そうだ。七夜月の七日目、セレストでは水花祭りが行われる。川や運河が多くて、どこにいても水流が目立つ土地を治めているのは、ラメール・ミロワール家で古くからの付き合いがある関係だ」
にやりと笑みを浮かべたシンヤとは対称的に、トシヤは眉をひそめた。
「で、それに俺達がなんで関係してくる?」
「実はシノープルの春の風船祭りで、セレストの時期当主であるツユ殿と会った。その時に、次の水花祭りで私の友人を紹介する話になった」
誰も手を出さなかった焼き菓子にシンヤは手を伸ばして、口に放り込んだ。
両手でティーカップを包んだままの亜莉香は、何も言えなかった。トシヤは右手に持っていたティーカップを置いて、テーブルに右肘をつくと頭を支えた。
シンヤを見ずに顔を伏せたトシヤは、眉間に皺が寄っていた。
決定事項だと言わんばかりの言葉の意味を、亜莉香は確認する。
「その友人は…私達ではないですよね?」
「勿論、アリカ殿とトシヤ殿を紹介するつもりだ。そのために今日のお茶会を開いて、こうして話をしているわけだ」
なんてことなく言い、シンヤは優雅にティーカップを持って紅茶を軽く揺らした。
簡単な話だと思っているのはシンヤだけで、亜莉香はなんて言い返せばいいのか紅茶を飲みながら考える。
シンヤのお誘いは魅力的だが、あまりにも急な話だ。
パン屋の仕事もケイの店の仕事もある。急な休みで迷惑をかけたくない。前もって話をしていたとしても、セレストへ行くまでに時間もかかればお金もかかる。
それでもセレストへ行けば、瑞の護人である透に会える可能性はあるのかもしれない。今朝の夢を思い出して、何か力になれるなら会いに行きたかった。助けを求めているなら、手を差し伸べたいと思った。
そんな願望があっても、自分勝手な感情で誘いに乗れない。
そもそも祭りに間に合うか怪しいと口を開く前に、トシヤがとげとげしい声を出す。
「俺達にも予定と言うものがあってだな。そもそも水張月の半ばに言われても、何の準備もしていないが?」
「私が連れて行くのだから、旅支度の必要はない。必要な物はすでに準備済みで、二人の職場の方にも話を通してある」
「は?」
「それはどういうことですか?」
顔を上げたトシヤが言葉を失って、驚きを隠せずに亜莉香は言った。
シンヤは空になったティーカップをチアキに差し出して、紅茶を待つ間に背もたれに寄りかかる。軽く微笑んで、わざとらしく両手を広げて見せた。
「流石に無断欠勤は悪いと思って、代わりの者をこちらが派遣させることで交渉してある。ヤタ殿にも話はしたが、快く承諾してくれた」
「いつの間に知り合いになった?」
「昨晩の話だったかな」
怪しむトシヤに即答して、シンヤは再び紅茶を口に運んだ。
「予定としては、出発は明後日の朝。明日は旅の前の休息日にしてくれ。出来る限り宿に泊まって、途中で野宿を何回か挟むことになるだろう。行きは時間もないので急ぎ足になるが、帰りは少しくらいゆっくり出来るはずだ。一週間ほどの滞在で、移動時間の方が多くなってしまうのは仕方がない。私と共に馬車で向かうことになるが、それでよろしいか?」
息継ぎなしで言い切って、ふと思い出したようにシンヤは首を傾げる。
「それとも、馬車より乗馬の方がよろしいか?」
「そういう問題じゃなくて――」
「行きたくない理由があるのなら、出来る限りの考慮をしよう。もしも断ると言うのなら、私を納得させてくれたまえ」
結局のところ、断ることは出来ないのだと悟った。
これ以上の反発は疲れるだけだと、亜莉香は少し冷めた紅茶で喉を潤す。無言で焼き菓子をチアキに勧めらえて、甘い食べ物で一息ついた。
不満を遮られたトシヤは、チアキに紅茶を勧められて微かに頷いた。
椅子に深く座り直して腕を組み、開き直ってシンヤを睨む。
「行ってもいいが、一週間も俺達はお前の友人として振る舞えと?」
「私と行動を共にしろ、と言うつもりはない。初日に領主と対談があるのは私だけで、水花祭りの前日にある社交の場で紹介したいだけだ。前日以外は自由に行動して構わない。祭り当日は思う存分に祭りを楽しんで欲しいとも思っている」
「社交の場とは、どういうものですか?」
全く想像出来ない亜莉香の質問に、シンヤは微笑んだ。
「ただの人の集まりだ。夜会、と言えば分かるだろう。数人と挨拶を交わしたら、隅で休んだり適当に食事をしたりすればいい。難しいことを考える必要はない」
「どうせ貴族の集まりだろ?」
「盛大な祭りに貴族が多いのは事実だ。私は一人でも紹介すれば十分だから、アリカ殿だけ連れて行っても構わんが?」
「俺が一人でも構わないよな?」
「それだと華がないではないか。トシヤ殿の女装は誰も喜ばないはずだ」
「変な方向に話を持って行くな」
会話が飛び交い、亜莉香は夜会を想像する。
知っている貴族と言えば、目の前のシンヤと妹であるアンリ。リーヴル家の面々であるルカやルイも貴族のはずだが、庶民に馴染み過ぎて貴族らしさを感じない。
ぽつりぽつりと雨が降り出した音に、思わず池に目を向けた。
水面に波紋が広がって、映っていた紫陽花の花が揺れる。近くの花々に降り注いだ雨は涙のように、静かに地面に滴り落ちる。
ふと、リリアのことを思い出した。
あの場所はどこにあるのだろう。
まだ池の縁で、リリアは泣き続けているのだろうか。
今も泣いているのなら、笑って欲しい。笑う門には福来ると、親友である透の口癖を真似して励ましたい。そんなことが出来たらいいのに、と心の底から思った。
何も出来ないもどかしさを抱えたまま、大丈夫だと根拠もなく自分自身に言い聞かせる。まずは自分に出来ることから踏み出そうと、無意識に口角を上げて笑みを零す。
「セレストに着いたら、色んな所に行ってみたいですね」
「行きたい場所があるなら、ナギトに案内させるぞ」
「どこからナギトさんの名前が出てきた?」
「今回の私の護衛役は、ナギトとサクマだ。あと身の回りの世話役にチアキと、馬車を引く役をロイに頼んである。全員門の前で顔を合わせただろう?」
何気なく重要なことを話すシンヤに、トシヤが呆れ果てた。
「なんで、もっと早く言わなかった?」
「まだ挨拶は済んでなかったか?」
「シンヤ様のご説明不足の点を書面でまとめてあります。こちらをご覧ください」
すかさずチアキが差し出した数枚の紙を、トシヤが受け取った。
亜莉香が覗き込めば、事細かい日程が書いてある。聞いたことのない村や町の名前、覚えるべき最低限の作法や社交の場に参加する貴族の一覧など。
セレストに着く前に、全てを覚えられる自信はない。
読み終えることすら可能か分からない要項に、亜莉香は今更ながら断る理由を考えた。




