29-4
夜が明けて、薄い群青色の空が徐々に変化していく。
月も星も消えた。空の色は美しい東雲色に変わって、もうすぐ太陽が昇る。寝静まった家の中には足音一つなく、住宅街もまだ目覚めていない。
平穏な一日の始まりを感じつつ、亜莉香はベランダの隅で膝を抱えていた。
ベランダの両開きの扉の片方に背を向けて、壁に頭を預ける。何もない空を見上げていると、鳥の囀りが聞こえ始めた。
また、一日が始まる。
当たり前のことが嬉しくて、自然と顔は綻んだ。
眠れなくて、わざわざいつもの袴姿に着替えて、ベランダに足を運んで良かった。いつも通りの時間に誰もが目を覚まして、いつも通りの日常は難しいかもしれないが、もう少しだけこのまま静かな朝を噛みしめたい。
きっと誰もが、まだ目を覚まさない。
ルカとルイは怪我が多くて、ユシアが必死に治そうとしたが途中で魔力の限界だった。目立つ怪我を治したユシアは倒れるように眠って、残りはヤタが傷薬を付けて包帯を巻いていた。トシヤの怪我は軽かったが、トウゴは肋骨を骨折していた。キサギに付き添われて早々に部屋で安静を命じられ、ルカとルイの治療を終えたヤタが様子を見に行った。
トシヤ以外は自分の部屋で、トシヤ本人は茶の間のソファで寝ている。
最初はヤタがソファで寝ると言い張ったが、年齢を考えてトシヤとユシアに反対された。キサギは家に帰ろうとしたが遅い時間だったので、予備の布団を持って連行される形でルイの部屋に連れて行かれた。
亜莉香の怪我を治した青い精霊はトウゴに寄り添い、そのまま一緒にいるはずだ。
結局、この家にいる人達の誰の目にも見えていた。鍛えれば役立つと言われても、他の人に見えないように教えることが最優先事項な気がしてならない。
鍛え方は他の精霊に、と言われて思い浮かぶ精霊はピヴワヌだけ。
社の林の中に置いて来てしまったピヴワヌが戻って来るのを待って、青い精霊のことをお願いしてみよう。役に立つは関係なく、まずは他の人に見えないようにして欲しい。
見飽きることのない空を眺めていると、開けたままのガラス戸が嵌め込まれた窓から風が入った。秋の風は少し肌寒いが、身体が冷えることはない。
外の空気をゆっくりと吸い込んで、聞こえ始めた鳥の囀りに耳を澄ませる。
灯籠祭りは終わった、としみじみと思う。
祭りの翌日の午前は、市場に行っても大半の店が閉まっている話だ。誰もが祭りで夜更かしをしていたはずで、朝寝坊も許される日だと誰かが言っていた。
もう少し空を眺めたら、朝ご飯ではなくお昼ご飯を作ろう。
トシヤの仕事は午後からで、ルカとルイに至っては最初から休みを貰っている。ヤタとユシアは昼近くになったら診療所に向かい、キサギは目が覚め次第家に帰る予定である。
姫巫女として数日家を空けていたから、食材はあまりない。
残り物の秋野菜を使った味噌汁と出汁巻卵なら、すぐに作れる。炊きたての米でおにぎりを作るためには、炊き上げる時間が必要だ。米を研いで、その間に庭の花の水やりをする。
頭の中で予定を組み立てていると、不意にトウゴの好きな食べ物を思い出した。
豆腐があったら、味噌汁の中に入れよう。
昼には間に合わないが、夕飯には皆の好きな食べ物も作りたい。午後からは買い物に行って、ケイの店に寄って仕事の話をして、今日は休みだと言われたパン屋にも顔を出して。
やりたいことが尽きなくて、楽しくて仕方がない亜莉香は小さく呟く。
「そろそろ、動き出そうかな」
頭の位置を元に戻して、腕を上に伸ばした。じっと動かなかった身体は凝り固まって、首を横に動かす。ぐるりと首を回して腕を下ろし、立ち上がろうとした。
その瞬間に、名前を呼ばれた。
隣に目を向ければ、赤い光が集まって瞬く間に兎の形になる。
ぴょんと現れたピヴワヌは綺麗に着地して、小さな兎の頭を思いっきり横に振った。まるで水滴を飛ばすような仕草と一緒に、纏っていた光は消える。
身体に濃い赤の風呂敷を身に付けて、白い毛並みが寒そうに風に吹かれる。
「…何故、外にいるのだ?」
「正確には家の中のベランダですよ?」
どちらでもいいと言いたげな瞳に見つめられて、亜莉香は笑みを零す。
「目が覚めたので、空を眺めていました。ピヴワヌこそ遅かったですね。満足いくまでルグトリスを倒せましたか?」
「途中で人が多くなって、儂は退散した」
それより、と話し出すピヴワヌは風呂敷を外そうとする。お腹の下で交差している風呂敷はしっかりと背中で結んであって、手が届かない。
ピヴワヌが必死になる前に、亜莉香は手を伸ばした。
両手で持ち上げればとても軽い身体を、足を崩した上に乗せる。頑丈な結びになっている風呂敷の結び目を解きながら、静かに問いかけた。
「この風呂敷は何ですか?」
「ルグトリスの落とし物のようなものだ。元我が主なら適当に精霊に渡して、大方はその通りにしたが、少々儂の気になる落とし物だけ拾って来たぞ」
「落とし物…?」
何だろうと思えば、膝の上で大人しくしているピヴワヌが答える。
「以前、護人ならルグトリスを浄化して、心の光を掬い上げることもあると話しただろう。大抵のルグトリスの感情は、その人間の思い出の品に宿る。闇のままでは一緒に消滅してしまう品でも、光を取り戻したルグトリスが消えた時には綺麗な状態で残ることもある」
ようやく結び目が解けた亜莉香の手が、止まった。
「この風呂敷の中には、誰かの思い出の品が?」
「まあな。結界を作った時に浄化されたルグトリスは、ようやく解放された気持ちが大きかったのだろう。ただあの二人は――」
あの二人と言われて、脳裏にトウゴの両親の姿が浮かんだ。
ありがとう、と言い残して、消えてしまったトウゴの両親のことを考えると悲しい。もっと早く話を聞いていれば、もっと何か出来たのではなかったのかと。
亜莉香の心残りを悟って、ピヴワヌはゆっくりと立ち上がった。
手が離れた風呂敷の中から灰色の紐と菜の花の簪が膝の上に落ちて、目を奪われる。
見覚えのある二つの品は、トウゴの両親の持ち物だ。父親の紺色の長い髪を結んでいた灰色の紐と、母親の色素の薄い水色の髪に挿してあった菜の花の簪。
そっと手にした品は、二人が生きていた証。
泣きたくなった亜莉香を、ピヴワヌが風呂敷を被ったまま見上げた。
「あの二人は、間違いなくお主に救われた。息子の禁術が解けて、未練が無くなったのかもしれない。別れは悲しいが、その魂は廻って、いつの日かこの地に帰って来る」
「そう…ですか」
「お主は正しいことをしたのだ」
慰める声は、とても優しかった。
頷いて、ぎゅっと抱きしめた灰色の紐と菜の花の簪は温かかった。それはピヴワヌの温かさなのかもしれないが、その温かさを忘れたくなかった。
風呂敷に灰色の紐と菜の花の簪を包んで、亜莉香は立ち上がった。
誰の風呂敷かピヴワヌに訊ねれば、それはヨルの物だと言った。いつの間にか仲良くなったようで、風呂敷を貰い、わざわざ落とさないように結んで貰ったと。あまりにも楽しそうなピヴワヌの話を聞きながら、ベランダの窓を閉じる。
振り返れば、丁度トウゴの部屋の扉が開いた。
お互いに目が合って、亜莉香は微笑む。トウゴはぎこちなくも笑みを浮かべて、ベランダに向かって一歩を踏み出した。
亜莉香の肩の定位置に乗ったピヴワヌは何も言わずに、見定める視線をトウゴに向ける。
口出しする様子はなく、ベランダの扉は開いた。
「…おはよう、アリカちゃん」
「おはようございます、トウゴさん。安静にしていなくてよろしいのですか?」
「少し…外の空気が吸いたくて」
「では、窓を開けましょうか」
気まずそうなトウゴの雰囲気に、亜莉香はもう一度窓を開ける。
爽やかで涼しい朝の風で髪がなびいて、気持ちが良い。扉の前で立ち止まったトウゴに背を向けていると、小さく謝罪の声が聞こえた。
聞き間違いかと思い振り返ると、トウゴは頭を下げる。
「何度謝っても許される立場じゃないけど、本当にごめん」
「もう十分、謝ってもらいましたよ?」
「けど――」
「私に謝罪は不要です。私の方が本人の許可なく、トウゴさんの過去を見ました。禁術も勝手に解いて加護を与えましたので、お互い様と言うことでは駄目ですか?」
頭を上げないトウゴが無言になって、亜莉香はこれ以上の言葉が出なかった。このままでは平行線上で、何を言ってもトウゴは自分を許せない。どんな言葉を並べても、本人が納得できる言葉は言えない。
何か話題を変えようと、窓の縁に手を添える。
窓のガラス越しにピヴワヌと目が合い、亜莉香は口を開く。
「トウゴさんの…傍に居た青い精霊のおかげで、私は今こうしていられます」
話し出した亜莉香に、トウゴはゆっくりと顔を上げた。そうなのかと心の中で問いかけるピヴワヌに頷いて、声に出して気持ちを伝える。
「どんな経緯があって一緒にいたのかは分かりませんが、トウゴさんがいたからこそ近くに青い精霊がいて、私の怪我や疲労を直してくれました。だから――」
トウゴの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「ありがとうございました、トウゴさん」
「俺は…お礼を言われるような人間じゃない」
「それでも、私は感謝しているのですよ。もしトウゴさんが謝るなら、私は何度でもお礼を言います。精霊のことだけじゃなくて、トウゴさんの笑顔にも私は救われていたのですから」
困っているトウゴに向き直って、風呂敷を手にしたまま軽く頭を下げた。
すぐに顔を上げて、窓から離れてトウゴの元へ向かう。手を伸ばせば届く距離で向き合い、亜莉香は風呂敷を差し出した。
「これは、トウゴさんがお持ちください」
差し出された風呂敷に、トウゴは遠慮がちに問う。
「何か聞いてもいい?」
「…大切な物です。出来たらトウゴさんの傍に置いて頂けると、私は嬉しいです」
誰の、大切なものなのかは言えなかった。
トウゴにルグトリスだった両親のことを話すつもりはない。幼い記憶を覚えているか分からず、もしかしたら両親の最期の記憶を呼び起こすかもしれない。
それでも、二つの形見を持つべきは亜莉香ではない。
ピヴワヌの反論もないので、最初からトウゴの手に渡すために拾ったに違いない。
おそるおそる亜莉香の手から風呂敷が離れて、灰色の紐と菜の花の簪が現れた。
一瞬で、トウゴは悲しそうな顔になった。悲しくて、辛くて、苦しい感情を抱いて、その二つが誰の物なのか察すると、瞳に涙が滲んで見えた。
「俺の両親は…凄く仲が良かった」
「はい」
「俺の髪はお父さんと同じ色で、瞳はお母さんの色と同じで。俺は二人のことが凄く好きで、二人は俺を愛してくれた」
過去形で話すトウゴは、決して両親の形見から目を逸らさずに語る。
「ずっと、一緒にいたかった。ずっと家族は一緒だって、信じていた。もういないけど、俺だけが生き残ってしまったけど、それでも許してくれるかな?」
許されたいトウゴに、確実なことは言えない。
もうこの世にいない人間の気持ちを代弁することは叶わず、それは護人であろうが不可能なこと。それを理解したうえで、亜莉香は願望を口にする。
「きっと、許してくれると思いますよ」
「…うん」
「トウゴさんが生きていてくれるだけで、それだけでいいのです。お二人はトウゴさんを愛していたのですから、愛した人が笑っていてくれるのが一番だと私は思います」
自分の意見なら、自信を持って言えた。
涙交じりの相槌を言い、トウゴは泣き顔を隠すように風呂敷ごと顔を当てる。鼻をすする音がして、とても小さく呟く。
「アリカちゃん、ありがとう」
謝罪をされるより、その一言が嬉しかった。
どういたしまして、と小さく返す。トウゴが落ち着くまでは口を閉ざして、亜莉香はピヴワヌと視線を交わすと、窓の外に広がる住宅街に目を向けた。




