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Last Crown  作者: 香山 結月
第1章 月明かりと牡丹
138/507

29-1

 最初に住宅街を訪れた時、懐かしさを感じたのは気のせいではなかった。


 キサギに背負ってもらいながら、亜莉香は視線を巡らす。

 何度も通ったはずの住宅街に、時々違った景色が混じって見える。

 始めは鎮痛剤が切れ始めて、脇腹や掠り傷の痛みやだるさを感じた。身体が重くて、頭がぼんやりして、疲労と眠気のせいで幻覚でも見ているのか疑った。


 実際は、懐かしく愛おしい記憶があちこちに散らばっていた。

 それは風のように通り過ぎた灯の記憶の欠片であり、亜莉香の記憶ではない。

 桜吹雪の中で、すぐ真横を通り過ぎる子供の笑い声。暑い日差しが差し込み、汗をかきながら前からやって来る男性。紅葉した葉が舞い上がって、道端で足を止めている老夫婦の穏やかな笑み。真っ白な雪が降り、途中で足を止めた女性の頬を伝う涙。

 きらきらと美しい記憶は、瞬き一つで消えてしまう。


 段々と熱も上がってきたと思いながら、ぐったりとして瞼を閉じる。

 家に着いたら、すぐにでも横になりたい。そろそろ痛みを我慢するのは限界で、静かに浅く呼吸を繰り返す。夜中になれば人の気配のない住宅街は静かだけど、前を歩くユシアの文句が足音を消していた。

 ユシアの両脇には、手首を掴まれたトシヤとルカがいる。

 それぞれの片手を掴まれて、逃げるに逃げられない二人はユシアの文句を適当に聞き流す。怪我の多さに対する文句から、いなくなったトウゴへの文句に終わりが見えない。

 家に帰るまで続きそうだ。

 それは構わないが、キサギが隣を歩くヤタの速度に合わせて歩いているので、前の三人と自然と距離が空いた。亜莉香の体調の悪さにヤタは気付いて、時折向けられる眼差しに大丈夫としか返していない。


 もう少しの辛抱だと、自分自身に言い聞かせる。何か考えて気を紛らわせようと思えば、先に家に帰っているはずのルイとトウゴのことが頭に浮かんだ。


 神社の中で警備隊に見つかっても厄介だからと、ルイはトウゴを連れて行った。

 それを聞いたのはトシヤと合流してからのことで、トシヤの姿を見るなり駆け寄ったユシアは一目散にトウゴの安否を尋ねた。

 無事だと聞いた時、ユシアは今にも泣きそうな顔だった。トウゴの姿を見るまでは泣くまいとする姿に、早く帰ろうとしか言えなかった。

 血が繋がっていないのに、家族だと言える繋がりが羨ましい。血が繋がっていても、拒絶されて一緒に暮らせなくて、いつの間にか他人のような関係になることを知っているからこその感情なのかもしれない。


 理想の家族とは、ほど遠い生活だったと過去を振り返る。

 両親の顔は忘れてしまって、もう思い出せない。産んでくれたことには感謝しているが、すぐにどうでも良くなる。それ以外の感情を抱くための思い出がない。赤の他人。

 こんな簡単に割り切れてしまう感情をトウゴが抱いていたのなら、また違った結果が訪れていたのかもしれない。最初の出会いがどんなであれ、どんな理由で一緒にいたのであれ。長い月日を共にして、いなくなれば探して、心配してくれる。いつだって受け入れてくれて、助け合って一緒に暮らしていく。

 強い絆で結ばれた家族に憧れて、ずっと幸せでいて欲しかった。


 普段なら考えないことに頭を使って、意識が朦朧とする。

 心なしか、心臓も熱い気がした。

 そろそろ家に着いて欲しいと顔を上げれば、木製の小さな門の前で前を歩いていた三人は立ち止まっていた。ユシアは唇を噛みしめて、掴んだままのトシヤとルカの手首を強く握る。門を越えようとしたトシヤを引き留めているユシアの元まで行くと、ルカが亜莉香に目を向けた。

 ユシアに声を掛けてから、そっと離れて亜莉香の顔を覗く。


「大丈夫か?」

「大丈夫…ではないですが、今は私よりも――」


 小さな声の会話は、ヤタが空いていたユシアの左隣に移動したことで中断した。

 涙を浮かべたユシアの濃い抹茶色の瞳に、玄関の前に立つトウゴの姿が映る。家に入らずに待っていたトウゴは後悔の表情を浮かべて、両手をふくらはぎの位置下げたまま強く握りしめていた。

 玄関の前の階段に座っていたルイが、片手を上げてから立ち上がる。

 無言でトウゴの背中を叩いた音が合図となって、ユシアは駆け出した。トシヤを無理やり引き連れて、左手はトウゴの着物にしがみつく。


「この――馬鹿!!」

「ごめん…俺――」

「馬鹿じゃないの!警備隊に追われて、皆に迷惑かけて、こんな傷だらけで…もう帰って来ないと思ったのよ」


 段々と涙声になって、顔を下げたユシアが泣きじゃくる。

 ユシアの涙につられて、トウゴの瞳も涙が滲んだ。トシヤが黙って見守っていると、ヤタは静かに傍に行きトウゴの腕に手を伸ばす。

 微かに震えていたトウゴの腕をさすりながら、ヤタは微笑んだ。


「おかえり、トウゴ」

「ヤタさん…俺――」

「うん。ユシアが落ち着いたら、皆で話そう。色々と大変だっただろう。ほら、おかえりと言ったのだから、返事は言えるね」


 小さな子供に諭すように、ヤタの声は優しい。

 トウゴの頬に涙が伝って、地面に落ちた。


「…ただ、いま」

「おかえり。無事で良かった」


 驚くトシヤを巻き込んで、ヤタはトウゴとトシヤの背中に腕を回した。ユシアは真ん中で泣き続けて、トウゴは俯いて顔を隠す。トシヤだけが恥ずかしそうに耳を赤くしたが、月夜の下で寄り添い合う家族の姿に亜莉香は笑みを零した。


「良かったですね」

「だな」

「全く、世話を焼くこっちの身になって欲しいね」


 キサギではなく、玄関前にいたはずのルイが門までやって来てぼやいた。眠たそうな顔で右手を首に当てて、頭を動かす。


「今の心境、一言で言っていい?」

「それ、誰に言った?」

「誰でもいいから聞いて――」


 ルカの質問に、ルイは空を仰いだ。


「寝たい」


 ルイの本音に、暫しの沈黙が訪れる。

 ルイ以外の視線は玄関前に向いて、ユシアが泣き止む気配もなければ、トウゴやヤタが動く気配もない。あの空気の中に入るのは勇気が必要である。

 朝が明けるまで数時間で、ルイと同じ心境はなのは亜莉香だけじゃない。

 誰も賛同の声は上げず、遠慮がちに亜莉香は言う。


「もう少しだけ、あのままでもよろしいのでは?」

「いや、水を差してでも、そろそろ家に入りたい。アリカさんも限界でしょう?」

「まあ…はい」


 素直に答えると、キサギが心配そうに亜莉香を振り返った。


「ここまで来るのに、揺れなどは大丈夫でしたか?」

「それは大丈夫です。キサギさんこそ、重くありませんか?」

「軽すぎて驚いているくらいです」


 本心からの言葉に嬉しくなった。


「重たいと言われたら、食事制限を考えないといけませんでしたね」

「それ以上痩せるなよ」

「そうそう。もう少しと言わず、アリカさんはもっと食べた方がいいよ。いつも僕の半分も食べていないでしょう?」

「いや、ルイは食べ過ぎ」

「意外と食べますよね」

「意外とは失礼じゃない?」


 締めくくったルイの言葉で、場が和んだ。お互いに笑い声が零れて、ルイはキサギとその背中にいる亜莉香を交互に見て首を傾げる。


「そう言えば、なんでキサギがアリカさんを負ぶっているの?てっきりトシヤくんが抱えて来ると思ったのに」

「ユシアに止められたんだよ」

「ユシアさんに?」


 回答を求められたルカは首を縦に振って、重い肯定をする。


「ここに健康な人間がいるのに怪我人が出しゃばるな、と」

「正論過ぎて、流石にトシヤくんも言い返せなかったか」


 その通りで、それ以上の説明はいらなかった。

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