28-2
枯れ葉が舞い上がり、優しい風が髪を揺らした。
瞬き一つで、眩しい光が引く。顔を上げれば迫りくる扇に驚いて、咄嗟に強く握りしめていた薙刀で受け止めた。
「…え?」
「――何故その力を!」
怒り狂った声を出したヒナが、力任せに上から体重をかける。段々と膝が下がりそうになった亜莉香を見下ろす瞳に、何度も鏡で見た自分の顔が見えた。
ルビー色の瞳じゃない。
灯とは違うと思えば、身体に力がみなぎってヒナを突き返す。
気持ち的には軽く返したつもりが、ヒナの身体は宙に舞った。空中でふわりと一回転したヒナが後ろに下がって、亜莉香を見据えると再び接近した。
怒りを押し殺すヒナに、全力で応じる。重みを感じない薙刀は扱い易くて、意図も容易く攻撃を防いだ。何度も力任せに繰り返される攻撃のせいで後ろに下がっていたことに気が付くと、足に力を込めて前に踏み出す。
薙刀と扇が重なって、憎悪を映した瞳に亜莉香は笑いかけた。
「お引き取り願えませんか?」
「従うとでも?」
「従って頂けませんか?」
とぼけた亜莉香に、ヒナはあからさまな敵意を剥きだす。
「社の結界はすでに壊され、すぐにこの土地の結界も消えるわ。私一人が引いたところで、この事態は変わらない。貴女達の方が、この場から身を引きなさい!」
声を荒げて、澱んだ緑の光が扇に集まった。
まずいと思って距離を置くよりも早く、頭蓋骨を狙った攻撃を薙刀で防いだ。今までのどの攻撃より重い一撃に襲われて、薙刀に振動が走る。
歯を食いしばって受け止めて、意地悪く口角を上げた。
「お気の毒さまですが、私は引きません」
「この分からず屋が――」
「何度忠告されようが、襲われようが、殺されようが。私の意思は変わりません!」
早口で言い切ると、薙刀に力を込めて扇を払った。そのままバランスを崩しかけたヒナの肩を狙って、薙刀を突き出す。
反撃されるとは思っていなかったヒナは驚き、その肩に血が滲んだ。
肩を押さえて下がったヒナに、亜莉香は薙刀を構え直す。
「私だって戦います。貴女には負けません」
「戯言ね。この土地の闇の力は増していて、こんな怪我だってすぐに治るわ。そこにいるトウゴだって正気を失い、いずれ貴女達の敵となる」
トウゴを振り返りたい気持ちを抑えて、亜莉香は口を閉ざす。
身体から黒い光が増して、ヒナの血が止まった。扇で口元を隠すと、風を伝って甘い声が耳元で囁く。
「闇に足を踏み入れた者は引き返せないのよ。どれだけ足掻こうと、助けを呼ぼうと、救いはない。それでも貴女は、トウゴと戦うの?トウゴを――殺せる?」
何をしても無駄だと誘惑する言葉に、静かな怒りを覚えた。
薙刀を握る力を弱めて、肩の力を抜く。深呼吸をして、心を落ち着かせようとする亜莉香の心情など知らずに、ヒナが怪しく微笑む
目が合えば、絶対に負けたくないと対抗心に火が付いた。
「引き返せない、なんて誰が決めました?」
すっと冷えた声に、ヒナが僅かに顔をしかめる。
「貴女が何を言おうが、私はトウゴさんを連れ戻すためにここまで来ました。禁術のせいで闇に落ちかけているなら助け出します。無茶でも無謀でも、足掻いて、助けを求めたトウゴさんを救います!」
はっきりと宣言した亜莉香に、ヒナがたじろぐ。
「そんなの…ただの理想論よ」
「いや、それでこそ儂が認めた主だ」
ぴょんと肩に飛び乗ったピヴワヌが言い、真っ白い毛が頬に触れた。ヒナから視線を離さない亜莉香の瞳を覗き込んで、にやりと笑う。
「アリカ、で間違いないな?」
「当たり前です。それよりも狭間でピヴワヌを呼んだのに返事がありませんでした。何をしていたのですか?」
「特には何もしておらんが…怒りの矛先を儂に向けるな」
「そんなつもりは――」
ありません、と反論する前に、ヒナは駆け出した。
踏み出した一歩が小さくて油断すれば、次の二歩目で一気に距離が縮んだ。突き出した扇が喉を狙って、ピヴワヌに髪を引っ張られる。
頭が僅かに斜めになって、首筋には赤い線が浮かんだ。
後ろに回り込もうとするヒナに対して薙刀を振り回す前に、ピヴワヌが空気を思いっきり吸い込んだ。即座に口から吐き出されたのは真っ赤な焔で、危険を察知したヒナは扇を開いて風を巻き起こす。
焔を纏った小さな竜巻が巻き上がり、熱い風で髪がなびいた。
ピヴワヌが傍に居ることに安心して、倒れそうになった身体を薙刀で支える。
地面に降り立とうとした小さな兎の身体は、赤く光りを帯びて大きくなった。亜莉香の背よりも大きく、包み込むような巨大な身体に背中を預ける。
「…助かります」
「まだ何も解決しておらんからな」
「ええ、そうですね」
いつの間にか血が滲んだ純白の着物を見下ろして、小さく息を吐く。
気付かないうちに傷が開いていたようだ。鎮痛剤のおかげで痛みはないが、効き目の時間が切れる前には決着を付けたい。
亜莉香の意思を汲み取って、ピヴワヌが立ち上がった。
軽く背中を押されて真っ直ぐに立ち、もう一度薙刀を構える。
「ピヴワヌ、力を貸してください」
「当たり前だ。お主に頼まれて、断るわけがなかろう」
「心強い言葉ですね」
軽口を叩きながら、お互いに視線をヒナに向けた。
戦うべきか、引くべきか。扇を構えつつも、迷っている瞳を見据える。目の片隅には林の中にいるルグトリスの姿も映り、大半は隙を狙っていた。
一呼吸を置けば、ヒナの後ろの社が気になった。
結界が無くなったはずの地面から、白く淡い光が浮かび上がる。蛍のように儚い光が文字となり、亜莉香は小さな声で読み上げる。
「【――我は牡丹の紋章を受け継ぐ者】」
始めの言葉を紡げば、地面に光の線が走った。
驚いたヒナがルグトリスをけしかけようが、ピヴワヌの威嚇で半分以上が怯む。それでも襲いかかるルグトリスを倒したのは、それぞれ両手に武器を構えたルイとルカだった。振り返りはしない背中に守られて、声に力がこもる。
「【この地を護り続けることを我は願う】」
儚い光は次々に現れて、文字となって言葉を重ねる。
社を中心に描かれた大きな牡丹の花は白く光り輝き、辺りを照らした。夜空には沢山の精霊が居て、精霊とは違う白い光が空を埋め尽くしていく。
「【今再び、永久に変わらぬ誓いを捧げる】」
ルグトリスでは相手にならないと悟ったヒナが、今にも走り出しそうな体勢になる。
睨みつける眼差しのヒナが駆け出すと同時に、亜莉香の上に影が通った。ピヴワヌの身体を踏み台にしたトシヤが目の前に現れて、扇と日本刀がぶつかった。
手を伸ばせば届く距離に、トシヤがいる。
その背中にしがみつきたい衝動を抑えて、亜莉香は薙刀を握りしめる。何が起こっても大丈夫だと、瞼が熱くなって文字を見なくても言葉が零れた。
「【命の灯が消えるまで、我は光を護り続ける。闇がこの地を覆うなら、我が光となってこの地を照らす。光は我が力となり、我は光を受け入れる】」
空を埋め尽くした光が透明になって、空に溶け出す。
そこには最初から何もないように、徐々に光は透明になって見えなくなった。月と星々の光だけが、夜空に残って輝き続ける。
最後まで言わせまいとヒナが扇を振るっても、攻撃はトシヤに阻まれた。
結界を作る最後の仕上げは、狭間で見た。
手にしていた薙刀を逆さに回して、刀身の先を地面に向ける。少しずつ身体の力が抜け始めている気がして、まだ倒れるなと心の中で言い聞かす。
結界を直しても、トウゴの禁術は解いていない。
禁術を解かない限り、倒れてはいけない。
「【我が名は――】」
微かに痛みが戻り始めていたが、奥歯を噛みしめてやり過ごす。息をゆっくりと吸って、亜莉香は思いっきり薙刀を地面に突き刺した。
「【亜莉香】」
自分の名前が耳に響いて、薙刀は地面に溶けて消える。
薙刀を中心に、地面の紋章の光が波のように広がった。トシヤと戦っていたはずのヒナは林の傍まで下がって、光の波を受けた一部のルグトリスが消滅する。
支えにしていた薙刀が無くなった。
ふらりと倒れそうになった亜莉香の腰に、トシヤの左腕が回る。引き寄せられて、真っ直ぐにヒナを睨む顔が近くにある。
「…トシヤさん?」
掠れた声に返事はなかったが、僅かに腕に力がこもった。
視線を前に戻すと、ルグトリスの数が減っていた。わざわざ襲って来るルグトリスはいなくなり、ルイとルカの視線もヒナに向けられる。
後ろには林しかなくて、逃げ場なく囲まれたヒナの表情が消える。
ゆっくりと周りを見渡した後に、肩の力を抜きながら扇を下ろした。
「潮時ね」
とても小さく呟いた声で、どこからともなく強い風が吹いた。
誰も寄せ付けない風は、強さを増して行く手を阻む。同時に林の中から真っ黒な狼が飛び出して、ヒナの前に腰を下ろした。
狼の毛並にヒナが触れれば、ピヴワヌが大きな身体で駆け出した。
風の力で身体に傷がついても、地面を力強く蹴る。一気に距離を詰めて、ピヴワヌが狙っているのは首より上のヒナの頭。大きな口の中の、鋭い牙は月の光を反射した。
食ってやる、とピヴワヌの感情が流れ込む。
亜莉香を傷つけたから。結界を破壊したから。理由なんて一つではなくて、怒りと憎悪は伝わった。感情のままに、噛みつこうとする。
勢いに飲まれてヒナは動けない。
ピヴワヌの牙がヒナに噛みつく前に、亜莉香はトシヤの着物にしがみついて叫んだ。
「やめて!」
誰もが息を呑んでいた中で、声はよく響いた。
身体の動きが止まったピヴワヌは、一瞬で小さな元の大きさに戻る。そのままヒナのすぐ脇を通り過ぎて、地面に衝突することなく、くるりと転がった。
その隙にヒナは緑色の瞳の狼に飛び乗って、一緒に林の中に消える。
ほっと安心したのは亜莉香だけで、強く吹いていた風が弱まって静寂が訪れた。ピヴワヌにとっては予想外の出来事で、頬を膨らませて振り返ると亜莉香を睨む。
「何故、止めた」
「言わないと分かりませんか?」
即座に言い返した言葉で、ピヴワヌがますます不機嫌になった。眉間に皺を寄せて、どうしようもない感情を持て余すと、林の中に残っていたルグトリスを標的に変えた。




