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Last Crown  作者: 香山 結月
第1章 月明かりと牡丹
133/507

28-1

 社の前には誰もいない。

 月を背にして立ったまま、左手には焔の灯った灯籠を持っていた。牡丹の花の模様が浮かぶ和紙の灯籠を社に向ければ、月と灯籠の明かりで社が照らされる。

 社と呼ぶには、随分とお粗末な造りだった。

 随分と昔に作られた社の屋根は半部以上なくて、壁に穴も開いている。地面から三十センチ程は柱しかないのに、その一つの柱の木材は途中で腐って、その上の社がいつ倒れてもおかしくはない。


「…先に、社を直さないといけませんね」


 ため息交じりの悲しい声が出て、近くに飛んでいた茶色の精霊が目に留まる。

 目が合って、精霊はすぐさま用件を察した。社の上にふわりと飛び乗った精霊に右手を近づけて、淡く赤く光り出した右手と精霊の茶色の光が交わる。


「【直れ】」


 たった一言を発しただけで、社の木材が地面から順番に真新しい素材に生まれ変わった。

 瞬く間に、新築のように社が綺麗になる。満足した茶色の精霊が空に舞い上がれば、代わりに他の精霊が集まって来た。手伝うことはないか、と沢山の声に対応するのは大変だ。わらわらと集まって来る精霊に囲まれて、身動きが取れなくなる。


「――姫様!」


 精霊達より大きく、焦りと怒りの声が真後ろから聞こえた。

 振り返れば、鳥居の真下に少年がいる。

 明るい茶色の髪を、後ろで結んでいた。灰色の着物と黒の袴を合わせて、腰には日本刀をぶらさげた十代後半の少年。短めの前髪に、黒い焦げ茶の瞳が印象的な少年は、息を切らして睨む。


「…何を、しているのですか?」


 答える前に、そっと頭に付けていた兎のお面で顔を隠した。

 どんどんと近づいて来る少年に、精霊達が空気を読んで離れていく。お面を外されないように両手で押さえてみたものの、少年が目の前にやって来てお面を取られた。

 つま先立ちになって、必死に右手で奪い返そうとするが背が届かない。


「返してください!私は姫ではないと言う設定ですので!」

「どんな設定ですか!と言うより、そんなに押さないで――」


 下さい、と続いた少年を押し倒す形で一緒に倒れた。

 下敷きになった少年の片腕が腰に回って、守ってくれたので怪我はない。お面を取り戻すためとは言え、大胆なことをしてしまった。

 着物にしがみついたまま、顔が赤くなる。

 慌てて起き上がろうとすれば、腰に回されていた腕に力が入った。

 一瞬だけ身体が震えて、少年は空を見上げて肩の力を抜く。


「はい、捕まえました」

「えっと…あの…」

「こんな夜中に護衛役の俺を置いていくとは、本当にいい度胸をしていますよね。目を離した俺にも責任はありますが、置き手紙を残していなくのはやめてください。心臓が止まりかけました」


 文句を言う少年が、もう片手に持っていた兎のお面を掲げる。


「こんなお面で顔を隠しても、俺は欺けませんよ。この場所に用事があるなら、昼間に来れば良かったのに」


 つり目の少年の瞳に、林檎のように頬を赤くした少女の顔が映った。

 いつもは色白の肌が熱を持ち、二重の瞳が僅かに潤んでいる。漆黒の前髪は切り揃えていて、腰まで伸びた髪が少年の手に触れた。

 真っ赤なルビーのような瞳で見つめ合うこと、数秒。

 お互いの心臓があまりにも五月蠅くなって、完全に離れるタイミングを見失った。頭が真っ白で声が出なくなって、身体が硬直する。

 その場の空気を破ったのは、灯籠の光だった。


「「――あ」」


 おそらく押し倒す時に手放してしまった灯籠が頭の上にあり、同時に視線が外れた。精霊達が順番に灯籠を回せば、邪魔をしちゃいけないと叱る声も、関係なく楽しそうな声もある。灯籠の光が頭の近くで移動して、段々と芽生えたのは気恥ずかしさだ。

 何も言わずに急いで上からどいて、起き上がった少年の隣に正座した。

 緋色の袴が汚れても気にせず、頭が上がらない。


「大変申し訳ありませんでした」

「いえ、俺の方が失礼しました」

「…もう、怒っていませんか?」


 上目づかいで顔色を伺えば、耳だけはまだ赤い少年が頷いた。

 右手を心臓に当てて、安心して息を吐く。少しずつ落ち着いていく心臓の音を確かめていると、先に立ち上がった少年が手を差し伸べた。仕方がない人だと言わんばかりの少年の右手に手を重ねれば、思わず笑みが零れた。

 立ち上がって袴の土埃を払ってから、社に向き直る。


「それで、どうしてこんな時間にこんな場所へ?」

「新しく結界を作ろうと思いまして」


 一歩後ろに控える少年の質問に答えて、左手で社の屋根を撫でた。


「数年前からずっと、各地で精霊達が騒いでいると噂になっていましたよね。闇の力が増している、と。闇に対抗するためには、まずは各地を強化しなければいけません」

「そのための結界ですか?」

「はい。すでに兄達はシノープルとセレストの結界を完成させました。あとはガランスで結界を完成させれば、私がここまで来た目的は達成です」

「何もこんな夜中に来なくても」


 独り言のような少年の言葉に、右手で口元を隠して笑う。


「この時間、だからこそですよ。寝静まった夜中なら、結界を組み立てても誰も気が付きません。これから作る結界は、特殊ですからね」

「特殊ですか?」

「ガランス全てを覆う、巨大な結界です。これから見ることは他の人に秘密ですよ」


 人差し指を口に当てて振り返れば、少年は瞬きを繰り返した。それからすぐに、心配そうに眉を寄せる。


「そんなに…大きな魔法を使うのですか?」

「私の魔力の心配は無用ですよ?」

「そうですが、何も一人でする必要はなかったのではないですか?」


 悲しそうな少年の声に、笑みを浮かべるのをやめた。真面目な顔で話の続きを待つ。


「姫様達がどれだけ大きな魔力をその身に宿していても、もっと周りを頼って下さい。皆、姫様達を心配しています」

「…私達はすでに王位継承権を剥奪されました身です」


 淡々と述べた事実に、少年は目を逸らした。

 夜空を見上げて、本心を包み隠さずに言う。


「姫、なんて呼ばれる立場ではないのです。これから作る結界は、それこそ現王の承諾を得ていないのですから、反逆とも言える行為です。私達の我が儘に、周りを巻き込むわけにはいきません」


 肩を落として、それに、と付け加える。


「背負うべき罪は、私達だけでいいのです」

「そんなことは――」

「この話はやめましょうか」


 話を中断して、少年を拒絶した。何を言われても、受け入れることは出来ない。苦痛を浮かべた少年を見ていられなくて、瞳を伏せる。

 少年の足元を見ると、まるで見えない境界がある気がした。


「ごめんなさい、トシヤさん」






 少年の名前を呼んだ途端に、視界がぶれた。

 違う、と声に出したかった。目の前にいる少年は、亜莉香の知っているトシヤじゃない。姫様と呼ばれるはずがなくて、こんな記憶は亜莉香の記憶じゃない。


 姫様、と呼ばれていた少女が踵を返す。

 重なっていた亜莉香の身体は置いていかれて、両手を見下ろす。

 もう、少女と気持ちが同調することはない。ようやく意識を取り戻した気分で、心の中でピヴワヌの名前を呼ぶが返事はない。

 何故、こんな場所にいるか。


 考えられるのは、意識が狭間に飛ばされたと言うこと。

 目を閉じて、必死に記憶を呼び戻す。想涙花を飲み込んだことは覚えている。甘い蜜のような花が喉をするりと抜けて、心臓は大きく脈打った。その一瞬で景色が変わって、気が付けば知らない少女の瞳を通して過ごしていた。

 それは間違いなく自分の記憶だと確かめて、亜莉香は深呼吸を繰り返す。


 トウゴを助けて、と不意に耳元で聞こえた声に振り返った。

 傍には誰もいなかったが、青い精霊の声で間違いない。可愛らしい女の声が聞こえた方向には林しかなくて、すぐ近くの地面には不自然に灯籠が置いてある。

 少女が持っていた灯籠は、精霊達がまだ飽きずに遊んでいた。

 同じ柄で、同じ大きさの灯籠には誰も目を向けないので、ゆっくりと歩き出して取りに行く。灯籠を手に持ってから、少女と少年を振り返った。

 トシヤと面影が重なる少年は、何も言わずに少女の小さな背中を見つめていた。社の前で少女が両手を広げれば、宙に浮く赤と白の光が集まって段々と辺りが明るくなる。


「…これでも、頼っているつもりなのですよ」


 少女は遠慮がちに口を開いた。


「トシヤさん達が居なければ、ルグトリスの被害はもっと大きかったに違いません。今だって城を離れられるのは、城を空けても大丈夫だと思えるからです。一緒に戦ってくれる人達がいるこの国を――私は護り続けたい」


 最後の言葉で、地面に光の線が現れた。

 社を中心に、大きな牡丹の花が描かれる。領主とリーヴル家の家紋とは全く違う、大輪の牡丹の花びらが広がって、その光は外側に行くほど淡い白から濃い赤いに変わった。

 少年が驚いて、小さな声で呟く。


「…これは?」

「紋章を見るのは初めてですか?王から与えられる家紋とは違い、紋章は精霊が与えてくれるものです。昔は一族で紋章を受け取ることもあったそうですが、今では紋章を持つ人が少ないそうですね」


 少し間を置いて、説明を続ける。


「私が幼い頃に火の精霊から与えられたのが、この牡丹の紋章です。紋章を受け取るのは、精霊との契約成立の証でもあります。紋章のおかげで近くの精霊達は私に力を貸してくれますし、私は精霊達を守る義務があるのですよ」


 少し得意げになった少女の前に集まっていた光が、その姿を変えていく。

 その途端に、手に握っていた灯籠の違和感を覚えた。見下ろせば、握っていたはずの灯籠がルビーの宝石に変わって、温かさを宿して輝いていた。

 少女の光と同じように、宝石は宙に浮く。

 地面と平行に伸びる赤い光は、少女の光と同じ形になった。

 現れたのは、美しい薙刀。

 牡丹の花が散りばめられた長い柄は深い赤。反りのある銀の刀身の手元の部分には王冠の模様があり、その中心に真っ赤なルビーが埋め込まれていた。

 驚いて、亜莉香は手を出せない。

 反対に少女は慣れた様子で薙刀を握って、くるりと回して見せた。


「――」


 少し強めの風が、少女の囁きを掻き消した。

 地面には白く輝く文字が浮かび上がって、少女は言葉を紡ぐ。少女が言葉を重ねる度に、夜空は瞬く星が増えた。実際には精霊のような、白を中心とした色鮮やかな光が空を埋め尽くして、その光は徐々に透明になると広がって夜空に溶ける。

 静寂の中で少女の声は響き、手にしていた薙刀を逆さにした。


「【――我が名は】」


 最後の言葉と共に、少女は薙刀を迷うことなく地面に突き刺す。


「【灯・クロンヌ・ルリユール】」


 少女の名前を聞いた時、亜莉香の心が震えた。

 同時に、心に引っかかっていた棘が取れる。名前も違う。瞳の色も違う。この場所の記憶は亜莉香の過去ではなく、灯と名乗った少女の記憶。


 過ごしてきた時間が違うから。

 亜莉香は、灯と同一人物ではない。


 それが分かっただけで、十分だ。例え護人としての力を持っていても、灯ではないと言い切れる。護人と呼ばれても構わないが、灯ではないと胸を張る。

 灯の薙刀が地面に吸い込まれる様子を見なから、心は軽くなった。

 いつまでも、ここにいるわけにはいかない。


「――私は私の、心のままに」


 先程の灯の囁き思い出して、亜莉香は呟いた。

 誰もいない林から追い風が吹いて、それでいい、と目に見えない何かが背中を押す。目の前の薙刀のルビーは早く握れと言わんばかりに輝いて、手を伸ばす前にしっかりと灯の姿を目に焼き付けた。


 トシヤに似た少年も気にはなったが、今はその存在を考えないことにする。


 薙刀に手を伸ばせば、ルビーの赤い光が一瞬で視界を奪った。皆のいる場所に帰れるのだと理由のない確信があって、亜莉香は安堵の笑みをふわりと零した。

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