27-6 Side牡丹
迷うことなく想涙花を飲み込んだ主の手から、容器が零れ落ちた。
音を立てて落ちた容器には透明な水が残っていて、ピヴワヌは軽やかに地面に下りる。僅かに舐めれば毛並みが逆立って、身体の中に魔力が巡った。
口の中には甘く蜜の味が広がり、その味はまろやかで癖になる。
美味との噂は事実であり、その効力も実証されたようなもの。
「ふむ…水だけでこれほどなら、お主の魔力にも――」
影響が現れているだろう、と問いかけようとしてやめた。
振り返った主は宝石を胸に引き寄せるように抱いたまま、全く動く気配がない。視線は地面に向けられて、声も意識も届かない。
焦点の合わない瞳が、手にしているルビーと同じ色に染まっていく。
本人が気付いていない変化はそれだけじゃない。纏う空気が変わって、社を囲っていたルグトリスが怖気づいた。隙があれば襲おうとしていた気配は消え去り、中には戦意喪失して立ち尽くすルグトリスまでいる。
予想以上に、想涙花の力は主に影響を与えているに違いない。
様子を見守っていると、すぐ傍に居たルカが呆然と呟く。
「…何をした?」
「儂は何もしとらん。本人の意思で、目覚めようとしている途中ではないか?いささか想定外の事態ではあるが」
主から目を逸らせないルカの顔色を伺う。
驚き、困惑して、ルカは主に手を伸ばして近づこうとした。一歩でも踏み出す前に、その肩に飛び乗って忠告する。
「あまり近寄らん方が良いぞ。今日だけで大量の魔力を消費しているのに、近付いたら残りの魔力を奪われる可能性がある。それが魔力切れで済まされるとも限らんからな」
「そんなこと――」
「有り得るぞ。一時的な魔力の解放で、どこまで取り戻すか分からん。そもそも始まりは禁術を解こうとしたことだ。そのために己の膨大な魔力で補えなければ、ありとあらゆるものから魔力を集めることは可能なのだ」
小さな身体を回転させて、ルカと同じ身体の向きになる。
主の身体を包み込むように発する光は淡い赤でも、この場にはいなかったはずの精霊がどこからともなくやって来て魔力を運ぶ。小さな光は蛍のように飛び回り、青も緑も黄色も紫も、白も灰色も色とりどりの精霊が、主に魔力を供給してはまたどこかへ行ってしまう。
それはいつの時代も変わらず、護人が望めば精霊は手を貸す。
それが古からの契約だと、遠い昔に聞いた。
「精霊が近くにいれば、いつだって魔力を分け与えるだろう。例えその身が傷つこうが、護人は自ら魔法で治して、命の灯が消えるまで戦い続けた。それが出来ない状況、精霊すら足を運べぬ場所に行ってしまえば――」
最後まで言わずに、ピヴワヌは口を閉ざした。
最悪の状況を危惧すれば、それを口に出すのさえ恐ろしい。
いつだって、唐突に姿を消した緋の護人の顔が脳裏に浮かんだ。傍で笑っていたはずなのに、目を離したつもりはなかったのに、契約で繋がっているはずの糸の先が消えてしまう。契約が消えたわけではないから、その糸はまたすぐに繋がって、また消えて。
何度、緋の護人を見送ったのか。
不意に生じた疑問を考えることはせず、淡々と述べる。
「まあ、目覚めてしまえば、現状は一変するだろう。護人の強い想いは、そのまま力になるものだ。ただ…」
その先を言うか迷えば、黙って話を聞いていたルカが眉をひそめた。
「ただ?」
「…護人の力は諸刃の剣だからな。魔力と命の結びつきが強すぎて、身体にも影響が出やすい。魔力を使い過ぎた後に倒れないと良いのだが」
段々と独り言のようになった言葉に、ルカは言葉を失った。
肩の上でルカの変化に気付くことはなく、ピヴワヌは主に視線を戻す。
もしも魔力がなければ、戦う力がなければ、繰り返された過去と同じ出来事を繰り返さなかったのだろうか。精霊に力を貸して、ルグトリスを倒して、生まれ変わって。
だが、と考えを否定する。
封印しても、主は魔力を解放しようとしている。封印していたことで得られた穏やかな日々があるなら、それが封印した瑞の護人の狙いだったのか。
どれだけ考えたところで、瑞の護人の気持ちなど分からない。
会ったこともない相手のことなど、考えても無駄だ。
それにしても、とピヴワヌはため息を零す。
「ちと、効果があり過ぎたかもしれんな」
とても小さく呟いた声は、主を中心とした風に掻き消された。
魔力を運んでいた精霊の中に、見知った青い精霊がいた。トウゴの傍で隠れていたはずの青い精霊は魔力を供給するわけでもなく、主の瞳を覗き込んで何かを伝えた。
ルグトリスが現れて闇が濃くなったせいで、トウゴが苦しんでいたのは知っている。闇が深くなるほど禁術の効果が増して、必死に抵抗していたことも知っている。
青い精霊が主に伝えたことは、容易に想像出来た。
願いや祈りは、強い想い。
護人は精霊の声を聞き逃さない。全てを聞き入れて、受け止めて、自らの想いとして力とする。それは目覚めたばかりの主にも当てはまる事柄であり、髪と瞳の色や性格が違っても関係ない。
手にしていたルビーの宝石が、その形を薙刀に変えていく。
百センチ程の長い柄は柘榴の果実のように、赤みを帯びた深い赤になり、散りばめられる牡丹の花は金で描かれていた。反りのある銀の刀身は月の光を反射して、刀身の手元の部分には見えづらい王冠の模様が刻み込まれている。
その王冠の中心に、一粒程の小さく真っ赤なルビーが煌めいた。
顔を上げた主は薙刀を握りしめて、ふわりと笑った。




