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Last Crown  作者: 香山 結月
第1章 月明かりと牡丹
131/507

27-5

 扇で口元を隠して、ヒナは怪しく微笑む。

 数時間前に刺された記憶を、忘れてなどいない。今でこそ傷の痛みはないが、それは今だけの話。あとどれくらい鎮痛剤が持つのか重要なことを思い出しつつ、表情の消えた亜莉香は臆することなくヒナを見つめた。


「…こんばんは」

「案外しぶといのね。また会うとは思わなかったわ」


 亜麻色の瞳は嬉しそうに細くなる。


「傷が浅かったのなら、もっと深く刺せば良かったのかしら?」


 罪悪感のない声に、今にも飛び出しそうなピヴワヌを心の中で引き留めた。

 代わりに肩を握る力が強くなったが、ピヴワヌを振り返りはしない。目を背ければ襲われるかもしれないと、緊張が走る。


 一歩も引けないままでいると、焔を纏ったクナイがヒナの心臓を目掛けて飛んだ。

 瞬く間に黒い闇を纏った扇に弾かれて、クナイは宙を舞う。クナイを投げたルカは亜莉香の肩を掴むと後ろに引いて、背に隠してヒナを睨みつけた。颯爽と亜莉香の前に現れたのはルカだけではなく、日本刀を握りしめたルイは力一杯に踏み出す。

 飛び跳ねたルイの身体は軽く、目線の高さがヒナと同じになった。

 右手の日本刀は真っ直ぐに額を狙うが、扇の軋む音がして受け止められる。 

 それを予想していたかのように、ルイは左手に小刀を持ったまま右手を支えて、日本刀が焔を纏って扇に僅かに突き刺さる。舌打ちしたヒナが即座に日本刀を払うと同時に、突風がルイの身体を後ろに追いやった。

 亜莉香の傍に戻されたルイは左手を地面に添えて、停止するとにやりと笑う。


「この程度なら問題ないね」

「ヨルとじゃれていた割に、行動早いな」


 ちらりとルイの無事を確認したルカが呟いた。


「まあ、ね。あーあ、もう少しで僕がひれ伏せるところだったのに」


 心底残念そうに言い、ルイは体勢を整えて両手に武器を構える。


「招かれざる客には、それ相応の対応が必要でしょう?」

「それはこっちの台詞よ」


 社の上から引かぬまま、ヒナはゆっくりと扇を閉じて胸元に移動した。

 瞳を軽く伏せてから、そっと左足を引いて、右手に持った扇を地面に垂直に構える。その身体は黒い光を発して、笑みは消えた。感情の読めない人形のような表情で口を閉ざして、真っ直ぐにルイを見据える。

 張り詰める空気を感じつつ、ピヴワヌが口を挟む。


「手強い相手だな。油断するなよ、小僧」

「分かっているよ。ご忠告、どうもありがとう」


 いつ襲われても対応するために、ルイは警戒を怠らない。

 手強い、とピヴワヌはヒナを指した。

 それは亜莉香の心に引っかかり、目の前のヒナを観察する。

 過去の記憶では何度も会っているヒナとは、実際には数える程度しか出会っていない。ルグトリスを従えている印象が強くて、一度は小刀で刺されたとは言え、自ら戦う人だとは思っていなかった。

 見た目で判断したくはないが、まだ若い。こんな出会いでなかったら、街に溶け込む素敵な女性としか思わなかったに違いない。

 思考を巡らせていると、ピヴワヌのため息が零れた。


「アリカ、こんな時に余計なことを考えるな」

「えっと…心を読まないでもらえますか?」

「武器を手にして戦うだけが、強さではない。闇に落ちて尚、自らを制御して振り回されずにいることは、それだけでも心の強さを示すのだ」


 亜莉香の声を無視して、ピヴワヌはじっとヒナを見つめる。


「いつだって、想いは強さに変わる。それは闇に落ちても同じだ。闇に落ちたからこそ、魔力と闇が結びついて大きな力を得ることもある」

「闇の力を頼るとは、正気とは思えないけどな」


 軽蔑するルカの声は冷たくて、ピヴワヌは小さく頷いた。


「その通りだ。例え力が欲しくても、超えてはいけない一線はある。それを超えてしまったのが、あの女の本性なのだろう」


 歯ぎしりがする程に奥歯を噛みしめたピヴワヌを、そっと盗み見た。

 肌寒い風が吹いて、木々が揺れる。少しずつ風が強くなれば、紅葉した葉が舞い落ちた。ヒナの前にも葉が舞い上がり、不気味な笑みに、亜莉香は鳥肌が立った。


 怖い。

 恐ろしくて、何かが起こる予感に心臓が五月蠅くなる。


 風の音と共に、近くの木々や社の影が揺れる。その影から何人ものルグトリスが現れて、月明かりに照らされた広々とした空間を囲んだ。主に木々の隙間から注がれる視線を感じて足が竦んで、身体が震えないように肩に力が入る。

 大勢のルグトリスの中でも、社の影から現れた二人と目が合い亜莉香は固まった。

 社を挟んで両脇に立つのは成人した男女で、真っ黒な人の形にしか見えていなかった姿が、亜莉香の瞳には間違うはずのない姿に変わっていく。


 なんで、と声が零れた。

 その質問に答える声はなく、亜莉香同様にピヴワヌの瞳にも同じ人物が映る。


 トウゴの両親が、そこにいた。

 どちらも表情はなく、静かに傍に佇む。紺色の長い髪の男性と、色素の薄い水色の女性が、それぞれの右手に日本刀と長い棒を持っていた。二人ともルイと対峙するような体勢で、いつ戦いが始まってもおかしくない。

 あり得ない、と身体がふらつきそうになった。

 信じられない光景に目を疑って、その場にいるはずのない二人の姿を見ているだけで、心が握りつぶされるような痛みを感じた。それはピヴワヌも同じ心情で、亜莉香の耳にしか聞こえないように心の中で話し出す。


【お主と繋がっているせいで、儂まで見えるようになったではないか】

【私だって、こんな風に見えることは――】


 なかった、と声が掠れた。

 本当になかったのか、今日までの記憶を手繰り寄せる。半年前に初めてルグトリスと会って、目が合ったと思った。いつだって誰かの姿に見えそうで、見ようとしなかった。

 ルグトリスが怖くて仕方なかったから。

 見つけた、と聞こえた雑音のような声に怯えていたから。

 何も知る気がなかったから、見えていなかった。何も聞きたくないから、耳を塞いだ。それは無意識の行動だったとしても、目を背けていた後悔に押しつぶされそうになる。

 顔が真っ青になった亜莉香を見ずに、ピヴワヌは慰めるように言う。


【気付けて良かったな】

【でも…もっと早く…】

【もっと早く気付けていても、お主には何も出来なかったのだろう。今のお主だからこそ、気付くことが出来たのではないか?】


 何も答えられない亜莉香に、ピヴワヌが静かに言葉を続ける。


【今日までの日々が無駄だったわけじゃない。今日までの時間があったからこそ、今のお主がいるのだ。今更でも気付けたのなら、その時点で選択をすればいい。お主が自分で選んだ先でまた後悔なら、それならそれでいいではないか。何も考えずに流された結果より、儂はそっちの方が良いと思う】


 それに、とピヴワヌが笑った気配がした。


【後悔だって悪いものじゃない。元我が主を失った時は儂とて相当後悔したが――お主に会えたからな】


 出会えて良かったと、ピヴワヌの喜びが言葉にしなくても伝わった。

 後悔していた気持ちがなくなったわけじゃない。当分は忘れられない後悔を抱いたまま、心の中は少し軽くなって温かさに満たされる。


 落ち着いて、息を吐いて、真っ直ぐにルグトリスを見つめた。

 聞き逃さないように、ルグトリスの声に耳を澄ませる。

 見つけたと何度も聞こえていた声が、とても澄んだ女性の声で聞こえた。女性だけじゃない、聞こえる声は男も子供も混ざって、性別も年齢も様々な声が亜莉香に話しかける。

 ようやく見つけたと安堵した声。

 ずっと探していたと歓喜する声。

 押し寄せる感情を受け止めて、握りしめていた両手を開いた。

 ここまで来るのに土や泥が付いて、お世辞にも綺麗とは言えない両手の中に、トウゴから譲り受けた想涙花と社の中にあったルビーの宝石。


 これからすることを察したピヴワヌは、何も言わずに頭の上に飛び乗った。

 二本足で亜莉香の頭の上に立って、小さな手はそっと兎のお面に触れる。お面が外れて、風が頬を撫でた。そっと右側の頭にお面が移動して、下がっていた顔を上げる。


 お面越しに見えていた景色に、全ての色が戻った。

 黒と紺の混じった夜空の、星の光を奪う程の橙色の混じった黄色の月明かりの下。風が吹けば真っ赤に染まった葉や紅葉していない渋い緑の葉が舞い上がる。静かに存在している素朴な茶色の社の前で、少し薄汚れた白い着物の袖がはためいた。


 心の中でお礼を言えば、何もかも分かっていると言わんばかりの鼻息がした。

 笑みを浮かべると同時に、右手でルビーの宝石を握ったまま、左手に持っていた想涙花の容器の金具を外す。案外呆気なく容器は開いて、中の澄んだ水が波打った。

 淡く青い光を宿す想涙花を瞳に映して、亜莉香は閉ざしていた口を開く。


「一か八かの賭けですが」

「試してみないと分からんからな」


 少し楽しそうなピヴワヌの声が、流れるように続いた。

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