27-4
トウゴの件が一段落すると、タイミングを見計らったようにヨルは現れた。
満身創痍のルイの表情が一瞬で変わって、苦々しい顔になる。
階段を上ってやって来たヨルは怪我一つなく、鳥居の下で立ち止まった。右手に持っていた日本刀を手首だけで回しながら辺りを見渡すと、亜莉香とルカの方も見て、全く問題がないと言わんばかりにルイに頷いて見せる。
「よし、敵はいなくなったな」
「愚兄…遅いだろ」
後半の声は低く、ルイは両手の武器を握りしめた。
右手を止めて、剣先を地面に向けたヨルは飄々と答える。
「俺とトシヤにルグトリスを押し付けて、先にいなくなったのはそっちだろ。それにしてもいつもより怪我して、腕が落ちたな」
腕が落ちた、で笑みを浮かべたルイの顔が怖くなる。
「どうせ愚兄は途中で狭間でも使って逃げただろ?」
逃げた、の一言で今度はヨルの表情が一瞬固まった。
否定の言葉はなくて、狭間を使ったのが事実だと無言の肯定となった。
あはは、と笑い合う声は棒読みで、次の瞬間にはほぼ同時に駆け出した。トウゴの時とは比べられない速さでぶつかり合って、激しい金属音と土を蹴る音が響く。
睨み合う二人を止められる人はいない。
手加減なしの斬り合いをしながら、ルイとヨルの言い争いが始まった。
「だいたい狭間を使うなら、もっと早くに見つけろよ!」
「それが出来たら苦労してねーよ!」
「それだから未だに狭間を思い通りに渡れないんだろ!」
「狭間を見つけることすら出来ない奴に言われる筋合いはない!」
叫びながら兄弟喧嘩をする二人に、トシヤは何とも言えない顔になって、トウゴは困惑していた。亜莉香の傍に居たルカは額に右手を当てて、眉間に深いしわが増える。
「なんで…こんな状況でも喧嘩を始めるんだよ」
「いつも通りで少し安心しませんか?」
「そんなわけ――て、なんで兎のお面を被った?」
話している途中で気が付いたルカの瞳に、兎のお面で顔を隠していた亜莉香が映る。
ヨルがやって来た時に、ずっと頭に付けているだけだったお面をずらした。真っ白な兎の口と鼻は赤で描かれて、瞳は赤いガラスを嵌め込んである。後ろで赤い紐で結び、驚くほど違和感のない赤い瞳を通してルカと視線を交わす。
お面のせいで、視界の色が変わった。
まるで世界が全て赤に染まったように、赤以外の色はない。
表情をお面で隠したまま、亜莉香は前を向いて素直に答える。
「今の状況でトシヤさんに見つかると、雰囲気を壊して怒られそうな予感がしまして」
「いや、お面を付けても誰か分かるからな」
「意味ないですか?」
「ない」
呆れた声が混じって、亜莉香は少し残念になる。
「…お面、必要なかったのですね」
「今更気付いたのかよ」
「ピヴワヌが折角持って来てくれたので、少しでも役に立てばと思ったのですが――そう言えば、ピヴワヌは何をしているのでしょうか?」
狭くなった視界のまま、いつの間にかルイの肩からいなくなった姿を探した。
地面にちょこんと座りこんでいたピヴワヌは想涙花を持って来る役目を忘れて、ルイとヨルの兄弟喧嘩を眺めていた。まじまじと興味深そうに、ルイよりもヨルに興味深い眼差しを向けている。
このままでは動かなそうなので、心の中で名前を呼んだ。
すぐに耳が動いて、ピヴワヌは亜莉香を振り返った。
お面の瞳越しに目が合うと、小さく頷いてトウゴを見上げる。トシヤもトウゴも兄弟喧嘩しか見えていなくて、存在を気付かれる前にピヴワヌは動いた。
駆け出した小さな身体が、トウゴの顎を目掛けて激突する。
ぶつかった反動を利用して宙でかろやかに一回転してから、頭から地面に倒れ込んだトウゴの身体の上に舞い降りた。近くで驚くトシヤを無視して、何が起こったのか理解していないトウゴの瞳を覗き込む。
「おい、禁術の小僧。お主は想涙花を持っておるな?」
「…兎?」
「この兎は確か――」
「儂の話より、想涙花の話だ」
真剣なピヴワヌの声が、記憶を手繰り寄せようとしたトシヤの声を遮った。
想涙花と繰り返されて、無意識にトウゴの身体は強張った。すぐに返事がなければ、小さな手がトウゴの胸元を軽く叩く。
「儂が力ずくで奪ってもいいが、お主が差し出した方が穏便だからな」
「…あの光は勘弁して欲しい」
段々声が小さくなったトウゴに、ピヴワヌはムスッとした表情をした。
「儂とてあれを何度も使用するほど、まだ魔力は戻っておらん。それにお主が想涙花を使うより、有効活用且つ賭けるに値する使い道があるのだ」
「それって一体――」
「答えてやる義理はない」
質問を拒絶されても、トウゴは不快を露わにしなかった。
少し考えてから、首元から下げていた容器を着物の中から取り出した。ずっと心の中に秘めていた重荷が落ちた顔で、手のひらに容器を乗せる。
月明かりの下で、想涙花は咲き誇る。
見慣れない花を立ったまま見下ろして、トシヤが口を挟む。
「花か?」
「それ以外に見えるのか?相変わらず、知識のない男だな。昔からちっとも変わらん」
「俺と会ったのは二回目だろ?」
とても不思議そうな顔で言ったトシヤを、ピヴワヌは口を閉ざして数秒睨んだ。
それから舌打ちをして、トウゴの差し出していた容器を口に挟む。ぴょんぴょん飛び跳ねる兎の姿のピヴワヌが亜莉香の元へ真っ直ぐにやって来れば、目で追ったトシヤとゆっくりと起き上がったトウゴの視線が一カ所に集まった。
お面を付けていても亜莉香の存在を知っているトウゴは、立ち上がって姿勢を正すと軽く頭を下げた。瞬きを繰り返したトシヤの瞳に、身動きしない兎のお面が映る。
「…アリカ?」
名前を呼ばれて、お面が意味を成さなかったこと知る。
お面越しに目が合っても、弁解の声が出なかった。すっと視線を下げれば、視界に映っていなかったピヴワヌが軽く肩に飛び乗って、想涙花の容器を揺らした。
「ほれ、手に入れてやったぞ」
「ありがとうございます」
お礼を言いつつ、左手に収まった容器を見つめた。
透明な水の中に、花びら七枚の桜のような花が咲いている。花びら一枚に同化して、淡く赤い花びらが重なって見えた。
右手の木箱と左手には想涙花を見比べて、独り言のように呟く。
「両手が塞がりましたね」
「どちらから先に開けるのだ?」
「どっちがいいですか?」
「儂は想涙花の方が良いと思うぞ」
ピヴワヌの意見を参考に、ひとまず木箱を袖の中に入れようとした。
「――あ」
袖に入る前に手から滑った木箱は、重力に逆らえずに地面に落ちる。軽い音と共に衝撃で紐が解けて、蓋は呆気なく外れた。
僅かに出来た木箱と蓋の隙間から、真っ赤なルビーの宝石が覗く。
すぐにしゃがんで、木箱に手を伸ばした。左手に想涙花を持ったまま蓋を左腕に抱えて、右手に持ったルビーを月明かりに照らす。
鶏の卵より一回り小さい長円形で、ふっくらと盛り上がっている表面には傷一つない。裏面は平らになっていて、燃えるような深い赤は角度を少し変えただけで煌めいた。じっと見つめていると宝石の中が燃えているような、ゆらゆらと動いているような錯覚を覚える。
目が離せずに宝石を見つめたまま、亜莉香はほっと息を吐く。
「壊れてなくて良かったです」
「そんな簡単に壊れるものじゃないぞ?」
「そういう問題じゃないだろ」
ピヴワヌは平然と言い、一部始終を見ていたルカの顔が引きつった。腕を組んでいた身体を震わせて、口にするのも恐ろしいことにように言う。
「それが壊れたら、結界は瞬く間に消滅するかもしれないのに」
「そんな脆い結界のはずが――」
なかろう、とピヴワヌの呆れた声は、ガラスのひび割れるような音と重なった。
ルカの方に身体の向きを変えようとしていたピヴワヌの毛が逆立ち、社を囲っていた結界が砕けて降り注ぐ。きらきらと輝く欠片は、肌に触れても痛くはない。
温かな小さな灯りが消えるように、結界の欠片は地面に吸い込まれた。
真後ろからの攻撃に武器を構えるよりも早く、突風に襲われたルカは社から数メートル引き離された。亜莉香の真上を通し過ぎた風には緑色の光が混じって見えて、真後ろで靴音一つ聞こえた。
宝石と想涙花をそっと胸に引き寄せて、ゆっくりと立ち上がって振り返る。
お面を通して、赤しかなかった世界にやけに明るい白が混じった。季節外れの雪が降ったように、ヒナの真っ白な髪が揺れる。社の屋根の上にふわりと立って、おそらく黒い着物は濃い赤にしか見えない。
こんばんは、と軽やかな声がした。




