26-2
真夜中の林の中、淡く赤い花びらを頼りに獣道を歩く。
目を凝らさなければ気付かない獣道は細くて、道を隠すように脇には雑草が茂っていた。林の中なので木々が亜莉香の姿を月から隠して、辺りは暗くて時々転びそうになる。
木々の揺れる音がするが、人の気配はない。
道標の花びらを追いかけているだけで、どこに進んでいるのかは皆目見当がつかない。道があるだけましだと思うのは、天井を通って寝ていた建物の外に出たり、近くにいた警備隊の目をかいくぐるために地面にすれすれまで身を低くしたりしたせいだ。
すでに砂や土が付いた格好に、亜莉香は不満を漏らす。
「こんなことなら、やっぱり別の着替えを用意して貰えば良かったです」
「折角儂が用意したのに文句を言うな」
「私が想像していた着替えではありませんでした」
ため息交じりに言って、定位置のように肩の上にいるピヴワヌをちらりと見た。
「まさか、姫巫女の衣装を拝借してくるなんて思いもしなかったのですよ?」
「どうせ今年の祭りは終わりで、来年はまた新しい着物を仕立てる。もし何か言われても、儂がシンヤに口添えして何とかしてやる」
安心しろと言わんばかりに、ピヴワヌが胸を張った。
返事はせずに、亜莉香は自身を見下ろす。
意地でも他の着替えを用意して貰うべきだった。純白だった着物は破けていないが、すでに土や草の匂いが染み付いた。ルカが舞の時に身に付けていた緋袴は軽くて動きやすいが、着物同様に誰が見ても上品だと分かる代物。
いざという時に顔を見られないように、頭には兎のお面を付けている。
新品の足袋と草履を加えた本来なら汚してはいけない、姫巫女の衣装一式。トウゴの絵本はヤタに預けてきたが、胸元には髪飾りと簪を忍ばせてある。透から貰った髪飾りは花びらが欠けているため、トシヤから貰った簪は壊したくないがために、髪にはなにも付けていない。
漆黒の髪を揺らして、亜莉香は歩き続ける。
「今からでも遅くないので着替えたいです」
「ここまで来て、そんな愚痴を言っても仕方がないだろう」
緩やかな傾斜になっている獣道を進みながら、ピヴワヌが呆れた。
「お主の格好なんて誰も気にしない」
「姫巫女の衣装のことは、誰もが気にしますよ?」
「気にせんわ。そんなことより、神社の中で血が流れた事態の方が重大だろうな。特にお主の血でルグドリス共が集まって、神社に溢れかえっている」
匂いを探るように、ピヴワヌが鼻を嗅ぐ。
「複数の気配が、神社の中に充満しているようだ。そのせいで個人の気配が全く読めん。人なのか精霊なのか、それともルグトリスなのか」
話の途中で急に道が開けて、ピヴワヌの声が止まった。
少し開けた月明かりの下に、真っ黒な影が十人前後。それぞれの手に刃物が握られていて、うろついていたルグトリスの視線が一点に集まった。
口角が引きつった亜莉香の足が止まり、咄嗟の言葉が出ない。ここまで来るのに平穏過ぎたせいで、目の前にルグトリスが現れてもすぐに実感がないとも言える。花びらはルグトリスを無視して奥へと舞い上がり、ピヴワヌは小さな手を額に当てた。
何も見なかったことにしたい。それか全速力で逃げ出したい。
どちらも出来なくて、一歩足を引いて声を抑える。
「ピヴワヌが…守ってくれますよね?」
「…儂にだって限度がある」
逃げる以外の選択肢が思い浮かばない。
目を逸らせば襲いかかって来そうな雰囲気で、これ以上進むのは無謀だ。遠回りして花びらを追いかける方法を考えていると、ピヴワヌが後ろを振り返った。
「どうやら、道標は何もかも計算した上でお主を誘導していたようだ」
「どういうこと――」
ですか、と問いかけるよりも早く、二つの影が亜莉香の隣を通り越した。
紅色の長い髪と、桃色の髪が風になびく。
勢いよく駆け抜けたルカとルイは、手前にいたルグトリスを狙って突撃した。どちらも攻撃の隙を与えずに、ルカは焔を纏ったクナイでルグトリスの首を刎ねた。ルイはルグトリスの腹を蹴り倒すと、その心臓に焔を纏っていた小刀を突き刺した。
ルグトリス二人の姿が、焔に包まれて消える。
ルカとルイの登場に、ルグトリスが怯んだように距離を置いた。
クナイを構え直したルカと、ゆっくりと立ち上がったルイが背を向けて並ぶ。亜莉香を守るように、ルグトリスとの間に割り込んだ背中は心強いが、全く振り返らなくて何も言わない二人に、亜莉香は両手を胸の前で握りしめながら遠慮がちに訊ねる。
「えっと…お二人が何故ここに?」
静まり返っていた空間に、亜莉香の声はよく響いた。
「やっぱりアリカだったのか」
「正直、ここにいる理由を聞き返したいね」
振り返らなくても、その声で呆れていることは分かった。
「怪我をして、寝ているはずだったよな」
「そのはずだよ。怪我をしたから目を覚ますか心配していたのに、こんな場所でルグトリスに襲われているなんて」
「誰かが見張っているべきだったか」
「動けないようにするべきだったのかも」
ルカとルイの深いため息に、亜莉香は何とも言えない表情になった。話を聞いていたピヴワヌが、何気なく会話に加わる。
「そんなことしても、どうせ無駄だ」
「無駄って言わなくても」
思わず返事を返せば、ルカとルイが目を見開いて振り返った。不思議そうな顔の亜莉香と目が合って、その視線が肩の上の兎に移る。
「今の声って…?」
「まさかその…?」
「何だ、儂の存在にまだ気付いていなかったのか?」
亜莉香の肩で器用に立ち上がって、腕を組んだピヴワヌがふんぞり返る。調子に乗って余計なことを言う前に、亜莉香は右手の人差し指を口に当てた。
「ピヴワヌ、少し静かにしていて下さい」
「だが儂は――!」
「どう見ても兎」
「真っ白な兎だねー」
一気に興味を失くしたルカと軽い口調のルイの言葉に、ピヴワヌの顔が真っ赤になった。
「兎、兎と連呼するな!こっちを向いて、儂の話をきちんと聞け!!」
ルグトリスに向き直ったルカとルイの背中に向かって、ピヴワヌが騒ぐ。
ルカとルイは会話もなく同時に駆け出した。身近なルグトリスから倒していく姿を見ながら、亜莉香は未だ興奮が収まらないピヴワヌに訊ねる。
「もう姿を隠す気はないのですか?」
「隠そうとしておるわ!必要最低限の人間しか姿を見せるつもりはない!」
「その割に色んな人に姿を見せていますよ?」
「今日はこの土地に魔力が集まり過ぎているのだ!そのせいで魔力の強い人間なら儂を即座に見つけて、隠すのにも一苦労なのだぞ!だいたいヤタの小僧は元々顔見知りで、リーヴル家の人間は儂の存在を知っているから見られても構わんのだ!あとは儂の嫌いな奴とシンヤ以外には姿を見せん!」
不貞腐れたピヴワヌが早口で言い切ったが、全く説得力がない。ふとした拍子に誰かに姿を見られてしまっても、ピヴワヌは平然としていそうだ。
目の前では、怒涛の勢いでルグトリスの数が減っていく。
気が抜けて肩の力を抜けば、ピヴワヌがバランスを崩して落ちそうになった。すぐさま肩に捕まって、亜莉香を見上げて叫ぶ。
「落とすな!」
「はいはい、分かりましたから――」
この会話は前にもしたな、と考えながら、ピヴワヌを撫でると静かになった。
「それで私達は、どこに導かれているのでしょうか?」
「それこそ、花びらのみぞ知るのではないか?」
少し機嫌が戻ったピヴワヌが答えて、ルグトリスの奥の地面に舞い落ちている花びらを見る。ひっそりと存在する花びらを瞳に映していたのは亜莉香とピヴワヌだけで、最後のルグトリスが消えていなくなると、今にも消えそうな光がふわりと舞い上がった。




