03-2
飲み物を飲み終えただけなら、立ち上がってトシヤの方へは行かなかった。
包丁がぎこちなくまな板を叩く音と、心なしか焦げ臭い匂いが気になって、亜莉香はグラスを持ったままトシヤの傍へ行く。
カウンターで上手く隠れていた台所のゴミ箱は、空のプラスチック容器が溢れている。それは惣菜の入っていた容器で、見慣れた食品名が読み取れた。
とりあえず見なかったことにして、亜莉香は野菜を切るトシヤに声をかける。
「トシヤさん、ご馳走様でした」
「そこらへんに置いておいて」
「はい…えっと…手伝いましょうか?」
トシヤの目の前で山盛りになっている野菜が気になって、亜莉香は言った。
人参、玉葱、キャベツ、ピーマン、もやしなど、まな板の上に大きさが違ったり、切れていなかったりした野菜があった。最初に切った野菜はすでにフライパンの中で、三つあるコンロの一つで火をかけて放置されている野菜が、焦げた匂いの原因になっている。
野菜炒め、だと思う。
トシヤはまだ野菜を切っている途中。手を止めると、亜莉香と残っている野菜を見比べる。
「アリカ、料理は得意?」
「得意と言うか、家でよくしていたので、一通りは出来ると思います」
多分、と少し自信なさげに言って、視線を下げる。
言った後に、出しゃばったことを言ったかもしれない、と後悔するが遅い。両手をぎゅっと握りしめ、トシヤの言葉を待つ。
あのさ、とトシヤが申し訳なさそうに口を開いた。
「俺、野菜炒め以外上手く作れないけど、アリカは他に何か作れる?」
トシヤの言葉に、亜莉香はすぐに顔を上げる。
「難しい料理でなければ、作れるとは思いますが。えっと…希望はありませんか?」
「野菜炒め以外であれば、俺は何でも嬉しいけど」
「何でも、だと私も何を作ればいいのか分からなくて」
二人で向き合い、うーん、と悩む。
悩んでいる途中で、焦げている匂いが強くなった。フライパンの中に入っている野菜が黒く焦げているのが見えて、亜莉香は慌てて言う。
「トシヤさん!火を消さないと!」
「あ、やべ!」
慌ててトシヤが火を消した。
ほっと一息をつき、どちらかともなく目を合わせて、静かに笑い出す。笑ったおかげで気持ちは落ち着き、じゃあ、と亜莉香は微笑む。
「材料は何かありますか?」
「冷蔵庫の中のものは、何でも使っていい。使いたい食材はある?」
冷蔵庫の扉を、トシヤが開けた。今までずっと手に持っていたグラスをカウンターに置き、冷蔵庫の中を覗き込む。卵や牛乳、豆腐や肉、色々な野菜や和菓子などが冷蔵庫の中にあった。
何がいいかな、と悩みながら、亜莉香は訊ねる。
「皆さんが食べられないものはありませんか?」
「目が痺れない食べ物」
「それ、料理ですか?」
予想外の回答に、質問を重ねて振り返った亜莉香と目が合い、トシヤはしっかりと頷いた。
「トウゴとユシアが料理をして、食べ物以外を入れたことがあるんだよ。そのせいで、俺と爺さんは生命の危機を感じた」
その時のことを思い出したのか、トシヤの顔が青白く見えた。
この家の料理事情を垣間見た気がする。
「それでは、トシヤさんの好きな料理を作りますよ。何が好きですか?」
亜莉香の質問に、トシヤは腕を組んで少し考える。
「…卵焼き?」
「卵焼きですか?」
「出汁巻卵。無理ならいいけど」
小さな声で、トシヤは一言付け加えた。
卵は冷蔵庫にあったので、亜莉香は迷うことなく三つほど卵を取り出す。トシヤは先に切っている途中だった野菜を脇に寄せ、亜莉香のために場所を空けた。
卵を置いて、出汁を取るために周りを見渡す。昆布とかつお節が棚の上の方に押し込まれているのが見えて、亜莉香は背を伸ばす。あと少しで手は届かず、トシヤが後ろから昆布とかつお節を取った。
「これ?」
「はい」
真後ろにトシヤがいて、あまりの近さに驚くが、気付かれないように視線を下げた。トシヤは亜莉香の耳が微かに赤くなったのに気が付き、静かに傍から離れる。
「邪魔にならないように、カウンターに座っていようか?それか、ソファのところまで離れるけど?」
「…カウンターの方が、いいです。分からないことがあった時に聞けるので」
分かった、と言って、トシヤはカウンターを挟んで、置いてあった丸い椅子に座る。
ふう、と息を吐いて、亜莉香は小さく気合を入れる。
大きな鍋を用意して、水を入れる。昆布は綺麗な状態なので、十センチくらいの昆布を一枚だけ鍋に入れ、沸騰させないように弱火でじっくり十分程加熱する。
その十分の間が暇なので、面白そうに見ていたトシヤに訊ねる。
「トシヤさん、主食は何ですか?時間があるので、他にもう一品ぐらいは作れますが」
「主食は米だけど、最近ユシアが炊飯器を壊したから。米が炊けなくて、炊飯器を買わないといけなかったんだよ。だから主食はなしで」
「お米自体はありますか?」
亜莉香の質問にトシヤは少し驚き、頷く。
「袋の米は床下だけど、普段使う米は棚の脇の米櫃」
「あ、これですね」
見落としていた米櫃を見つけ、何合炊こうか悩んだのは一瞬。すぐに米を適量出して、研ぎ始める。米を研ぎ出した亜莉香に、トシヤは問う。
「炊飯器は使えないけど?」
「土鍋で炊きます。冷蔵庫にささみがあったので、野菜も加えて炊き込みご飯を作ります。時間はかかりますが、間に合わなかったら明日でも食べられますので」
亜莉香は迷うことなく置いてあった土鍋を手に取った。
土鍋に研いだ米と水を入れ、ささみを冷蔵庫から出すと、トシヤの切ってあった人参を少し加える。少し味付けを、と醤油と塩を加え、空いていたコンロの上に置いて火にかけた。
手際よく動く亜莉香が一息つくと、タイミングを見計らってトシヤが声をかける。
「他に何を作る予定?」
「そうですね。すぐに思い付いたのは、出汁を取っているので豆腐の味噌汁です…私、余計なことしていましたか?」
声をかけられ、途中から夢中になって作っていた、と今更ながら思った。
勝手に材料を使ってもいいと言われてはいるが、出過ぎたことだったかもしれない。トシヤの顔色を伺うと、怒っている様子はなく、いや、と即座に否定した。
「全然余計じゃない。俺は土鍋で米なんて炊けないし、二日に一回は野菜炒めを作って食べ飽きていたから、アリカが料理してくれて助かる」
「なら、良かったです」
安心して、出汁を取っていた鍋に目を向ける。
沸騰していない鍋を確認して、かつお節を足して中火に変える。土鍋の様子を伺いながら、味噌汁の豆腐を冷蔵庫から取り出すと、トシヤが思い出したように話し出す。
「そう言えば、前にルカとルイに料理させようとしたら、全力で逃げられたことがあったな。あいつら人の作った料理にけちつけるくせに、自分達では絶対に作らないんだよ」
「トシヤさんが、三食全員分作っているのですか?」
「いや、朝は各自食パンとか、ご飯に卵で済ませていたし。昼も仕事があって、適当に済ませているから。俺が作るのは夕飯だけだな」
仕事、と言う単語が心に引っかかり、亜莉香は顔を上げる。
「トシヤさんは、何の仕事をしているのですか?」
「俺? 俺は、午前中だけ配達の仕事を手伝っている。午後は家に帰って掃除とか夕飯の支度。最近はルカとルイの模擬戦の相手を付き合っているかな」
「もしかして、神社でも模擬戦に付き合う予定でした?」
そう、とトシヤは頷いた。
「私、皆さんの邪魔をしてしまったのですね」
申し訳なく思いながら、味噌汁に入れる長ネギをゆっくりと切る。
違うから、とトシヤが慰めるような口調で言った。
「黒い奴らが現れたら、そっちを倒すのが優先。ルカとルイの模擬戦に付き合うようになる前から、俺はよく街をうろうろしていたから。むしろ、俺がいたからアリカを巻き込んだ可能性もあるし」
え、と驚く亜莉香に、トシヤは肩を竦めて見せた。
「何故かよく遭遇するんだよ。ユシアやトウゴはあの黒い奴らの存在を知らない。街の人間も知らないだろうな。人がいない場所、今日までは俺が一人の時によく現れていたし、ルカとルイは何か知っているみたいだけど、何回聞いても教えてくれない」
「何なのでしょうか?」
「何だろうな?」
質問を質問で返され、亜莉香は言葉に詰まる。トシヤは手が止まっていた亜莉香の傍の土鍋に目を向け、軽く言う。
「アリカ、ご飯が吹きこぼれそうになっているけど?」
「え…あ!」
急いで火を弱めた。吹きこぼれる手前だったので、おそらく大丈夫だろう、と思うことにして、途中で止まっていた長ネギを切り終える。
あとは、と考えながら、目に留まったのはまな板の端に追いやられている野菜と、フライパンの上で半分焦げている野菜炒め。
「野菜炒めは、どうしますか?」
「適当に手を加えてもいいけど。何か出来る?」
「野菜炒めは…野菜炒めですよね。うーん…残りの野菜も入れて、あんかけ風にするのはどうですか?」
「じゃあ、それで」
分かりました、と返事して、亜莉香は残っていた野菜を均等に切る。焦げた部分は申し訳ないが取り除き、残りの野菜を加えて炒める。炒めている途中で、出汁の鍋の火を止めて、ザルにキッチンペーパーを引き、大きな別の鍋の中にこす。
出来上がった出汁の匂いがダイニングに広がり、トシヤが不思議そうに首を傾げた。
「それが出汁?」
「一応、出汁です。自己流なのでお口に合う保証は出来ませんが」
出汁はそのまま放置して、亜莉香は作りかけの野菜炒めに塩コショウや醤油を加え、出来上がったばかりの出汁も少し加える。水溶き片栗粉を加え、とろみがついたら火を止めて、後ろの棚を振り返る。
「お皿一つにまとめて盛り付けてもいいですか?」
「いいよ。皿も好きなものを使っていいから」
好きなもの、と言われ、目に留まったのは大きく平べったい、小さな赤い花の描かれた皿。その皿を取り出し、出来上がった野菜炒めを皿に盛りつける。
いつの間にか、土鍋からもいい匂いがしてきた。
土鍋の蓋を開け、炊きあがったのを確認して、すぐに火を止める。
残りは卵焼きと味噌汁で、空いているコンロは二つ。土鍋はそのまま置いておいて、出汁を最初に作っていた鍋で、そのまま味噌汁を作ることにした。出汁に少し水を加え、火にかけ、長ネギと玉葱を加える。沸騰したら豆腐を加え、弱火にして味噌を入れて、全て溶けたら火を止めた。
味噌汁の鍋に蓋をして、最後に卵焼きに取りかかる。
近くにあったボールの中に卵を割り、菜箸でかき混ぜる。完成したばかりの出汁とみりんを加え、よくかき混ぜると、野菜炒めとは別のフライパンに薄く油を引く。一度で全部の卵は入れず、数回に分けて卵は入れる。
形を崩さないように気をつけながら、卵焼きはすぐに完成した。
出来上がった卵焼きをまな板に置き、均等に切り分ける。
「出来た…」
「すごいな、美味しそう」
一部始終を見ていたトシヤの言葉に、嬉しくなって亜莉香ははにかんだ。棚を振り返り、卵焼き用の皿を探す。
「卵焼きも、皿に盛っておきますね」
「分かった。じゃあ俺は、茶碗やお椀を用意するか。トウゴはもう少しで帰って来ると思うけど、ユシアは時間読めないから。遅かったら先に食べるか」
言い終わるとすぐに、トシヤは亜莉香の横に来た。
トシヤが棚から取り出したのは、色違いの茶碗三つ、それからそれぞれ種類の違う茶碗とお椀を六つ。それらを手に持ち、トシヤが亜莉香の方を見る。
「アリカの分、これでいい?」
「何でもいいです」
「なら、今日はとりあえずこれで。どうせ、明日になればユシアがアリカの分を一式揃えるだろう。今日の様子だと、帰って来てからも五月蠅くなりそうだし、トウゴも騒ぎそうだし。アリカ、嫌なことあったら、はっきり嫌だと言えよ」
必要な食器を持って、トシヤがテーブルの方に歩きながら言った。
亜莉香は卵焼き用の皿を取り出し、視線を下げて呟く。
「嫌なことなんて、一つもないのに」
言いながら、幸せを噛みしめる。
今日出会ったばかりの人だけど、誰もが優しい。困っていれば手を差し伸べてくれて、話を聞いてくれる。それだけで十分で、もしもこれが夢だったら、と考えると、怖くなった。
本当は夢を見ていて、眠っているだけかもしれない。
目が覚めれば家に一人で、いつものように一人でご飯を食べる。
周りには、誰もいない。
「アリカ?」
名前を呼ばれて、ぎゅっと閉じていた瞳をゆっくりと開ける。
トシヤが不思議そうな顔で、亜莉香を見つめていた。その瞳に映る自分自身の姿を見て、亜莉香は息を吐き、ぎこちなく笑う。
「すみません。ぼーっとしていました」
「それはいいけど。疲れているなら、少し休んだ方がいいだろ。ほら、あとは俺がやるから、アリカは先に座って待っていろ」
「え、あ…」
問答無用で皿を取り上げられ、やることがなくなる。少しだけ悩むが、お願いします、と軽く頭を下げて、亜莉香は邪魔にならないようにテーブルの方へ移動した。




