25-1
歩く速度に合わせて、花びらは舞いながら灰色の世界の奥へ誘う。
足音が響き、腕を組んで歩いていた亜莉香は首を傾げた。
「やっぱり、リリアさんとは前に会った気がするのですよ」
「儂は知らん」
「見覚えがあると言うか、親近感があると言うか」
亜莉香の言葉に、肩に乗っているピヴワヌは呆れた。
「記憶の断片じゃないのか。どうせお主のことだから、思い出そうとしても思い出せん」
「そうですか?」
「そうだ。今は諦めて、花びらを見失わないように歩け」
命令されて、亜莉香は黙って歩く。諦めきれずに考え事をしていると、ピヴワヌが盗み見してから、わざとらしく大きな欠伸をした。
「それにしても…もう少し寝ていたかった」
「前より少しだけ大きくなりましたよね?」
話題を変えようとしているのに気が付いて、亜莉香は話に乗る。
「神社のどこで寝ていたのですか?」
「奥の森に小さな社がある。その近くにいると魔力が補充しやすいから、数日は眠ろうと思っていたのだが」
苦々しく言い、ピヴワヌは亜莉香の肩を叩く。
「お主が姫巫女など引き受けるから、精霊共が歓喜の唄を儂に披露。熟睡しようとする度に儂を起こすと思ったら、お主の怪我で大混乱だ」
相当根に持っているようで、ごめんなさい、と心の底から謝った。
「私も痛いのはこりごりなのですが」
「名前を呼べば、儂はいつでも駆け付けるのに」
不貞腐れた声に、亜莉香は瞬きを繰り返す。
「狭間まで来てくれたのは、私が名前を呼んだからですか?」
「それ以外に、儂が来ると思ったか?」
質問を返されて、亜莉香は肩を震わせて笑う。
「…笑うな」
ピヴワヌとは反対側に顔を向けて、口元を隠して笑いを耐えようとしたが無理だった。
出会いこそ恐怖を感じて殺されかけたはずなのに、すっかり心を入れ替えて守ろうとしてくれる。小さくて可愛らしい兎にしか見えない姿なのに、と思うと、亜莉香の方が守りたいと思ってしまった。
目が合って、ピグワヌが頬を膨らませる。
「儂が!お主を守るのだぞ!」
「分かって、いますよ?」
「笑いを耐えながら心にもないことを言うな!今でこそこんな姿だが、本来の姿になったら優雅で誰もが頭を下げる高貴な者だと言うのに…お主は信じてないだろう!」
騒ぎ出したピヴワヌを、亜莉香は何度か右手で優しく宥める。
怖いものなどなく、足取り軽く進めるのは一人じゃないからだ。
ずっと風に吹かれたように舞っていた花びらが、ひらりと地面に落ちた。水などないのに波紋が広がり、立ち止まった亜莉香の足元を通り過ぎる。
ピヴワヌが静かになり、景色は唐突に変わった。
爽やかな風が、亜莉香の頬を撫でる。
見渡す限りの青空と、菜の花畑の黄色が目の前に広がる。温かな太陽の日差しを浴びて、ぽかぽかした陽気。時折上空を蜜蜂が通り過ぎて、葉がこすれ合う音がした。
手を伸ばせば届く距離に、色素の薄い水色の髪の女性が立っている。
菜の花に溶け込む黄色の着物に、紺色の帯。長い髪をなびかせて、左手で髪を押さえていた。髪に挿している菜の花の簪が風で揺れて、簪に埋め込まれていた水色の宝石が太陽の日差しを反射した。
穏やかな空気の中、小さな男の子が小走りで亜莉香の横を走り抜ける。
「おかあさん!」
駆け寄った三才ぐらいの男の子を、澄んだ水色の瞳の女性が振り返って抱き上げた。
「あらあら、私の可愛い王子様。どうしたの?」
「花!」
「綺麗なゼラニウムね」
男の子が差し出した真っ赤なゼラニウムを見て、女性の顔が綻ぶ。
ぎゅーっと男の子を抱きしめると、嬉しそうな声を上げて男の子も抱き付いた。そのままくるくる回り出した女性と男の子の傍に、遅れてやってきたのは一人の男性。
紺色の長い髪を濃い灰色の紐で結び、無地の黒の着物と袴。頭を掻きながら狐みたいな呆れた顔の、優しい茶色の瞳で見つめる。
「お二人さん、そんなに回っていると目が回るよ」
二人に寄り添った男性は男の子の持っていたゼラニウムを一つ、女性の髪に挿した。女性の顔が輝き、男の子を抱いたまま男性を見上げる。
「素敵ね」
「君の方がね」
見つめ合った二人を交互に見て、男の子は不思議そうな顔をした。暇になって手足を動かせば、目の前を蝶が飛んで行った。
手を伸ばして落ちそうになり、慌てて女性と男性が支える。
笑い声が響き、幸せな家族を見て亜莉香はぽつりと言う。
「何だか羨ましいです」
「儂は見ていて恥ずかしくなるぞ」
眉間に皺を寄せて、ピヴワヌは難しい顔をした。
「あの甘ったるい空気はどうも苦手だ。儂の居場所がなくなる」
深いため息を零して目を背けようとするピヴワヌに、亜莉香は頭を寄せる。
「あの小さい男の子、トウゴさんに見えるのですか?どう思いますか?」
「…儂は会ったことがないが?」
言われてみればと気付いて、亜莉香は男の子を観察した。
まだ幼いが、面影はある。男性と同じ紺色の髪で、女性と同じ澄んだ水色の瞳。顔は父親に似ているが、幼い時の瞳は大きくて母親にも似ていた。
好奇心旺盛に目をきょろきょろさせて、その瞳が亜莉香を見た。
真っ直ぐに指差して、嬉しそうな声で言う。
「せいれい!」
舌足らずな言葉に、一瞬どきりとした。亜莉香或いは、ピヴワヌを指差したかと思ったが、真後ろから青い精霊が男の子の元へ向かう。
ふわりと男の子の周りを回って、遊び相手になる。
女性がそっと地面に降ろせば、男の子は精霊を捕まえようと、女性と男性の間を走り出した。精霊を追いかけ始めた姿に、女性は困った顔で右手を頬に当てた。
「また精霊と遊び出したわ」
「僕には見えないけど、そこにいるのかな?」
「ええ、水の精霊がトウゴと遊んでいるの。いつも同じ子だから、きっとトウゴを気に入って、よく遊びに来ているのね」
トウゴ、と女性は男の子を呼んだ。
心配そうな眼差しで、女性は菜の花畑の中に入りそうなトウゴを見つめる。女性の肩を男性が引き寄せ、心配いらないと髪を撫でる。
「大丈夫、精霊に愛されるのは悪いことじゃない」
「そうだけど。精霊が見える程の魔力を持っているなら、用心をしなくちゃ。最近魔力の強い人達が王家に呼ばれては姿を消している、なんて怖い噂もあるのよ」
「それは穏やかな話じゃないね」
「私達は巻き込まれてはいけないの」
悲しそうに女性が言い、男性は黙ってトウゴに目を向けた。
幼いトウゴは何も知らずに、無邪気に精霊と駆け回る。温かな風が吹いて、女性は髪を押さえた。その風に乗って、地面に落ちていたはずの花びらが浮かんだ。
淡く赤い光が再び舞い、景色は遠く彼方へ流れて消える。
灰色の世界に戻されて、ふわりと花びらが地面に落ちた。
「なるほどな」
「何が、ですか?」
一人納得したピヴワヌの言葉に、亜莉香は疑問をぶつけた。今にも風が吹いて舞い上がりそうな花びらを見つめたまま、ピヴワヌは淡々と言う。
「狭間や夢は誰かの想いが積み重なっている場所だ。あの花びらは道標として、お主をその誰かの想いが残る場所、過去へ案内してくれるようだ」
「勝手に過去を見て、誰かに怒られませんか?」
「誰に怒られると言うのだ?」
得意げになったピヴワヌが、肩の上で立ち上がった。
「過去は変えられんが、それを知る権利は誰にでもある。ついでに元我が主の顔も拝みに行こうではないか!」
「…道草はしませんよ?」
亜莉香は踏み出した。
再び舞い上がった花びらを追いかけながら、ピヴワヌは亜莉香の着物を引っ張る。
「少しぐらいの道草をしてもいいではないか?狭間とは現実とは流れが異なるのだぞ?」
「それなら尚更、道草をしないで早く戻らないと」
「融通が効かん。本当に、元我が主とそっくりだな」
頬を膨らましたピヴワヌに、亜莉香は右手を口元に運んで問う。
「その…元主さんはどんな方でしたか?」
「なんだ、気になるのか?」
頷けば、ピヴワヌは前を見据えた。
「一言で言えば――」
「一言で言えば…?」
「ちょっと、待て。今考える」
過去を振り返って、唸り始める。
「無理に思い出さなくても構いませんよ?」
「いや、一言では言い表すのが難しかっただけだ。そうだな…可憐な見た目に反して、戦闘能力は異常なほど高い薙刀の使い手だった」
「薙刀ですか?」
「ルグトリスに囲まれても、一振りで全滅させたのは儂でも引いたくらいだからな」
当時のことを思い出して、ピヴワヌの顔が引きつる。
「お強い方だった、の認識でよろしいのですよね?」
「その一言で片づけるな。儂より強くて、精霊共は影で赤い猛獣と呼んでいたぞ。その呼び名は儂も止めようと思ったが、妙に当てはまって黙認した」
「猛獣ですか」
小さく繰り返した言葉に、ピヴワヌは重い肯定をした。
「怒らせると、手が付けられんからな」
「赤、と言うのは、髪の毛のことですか?」
「それも含めて、あの子の薙刀は自らの魔力で作り上げる特別製。焔を操ることもあれば、赤い焔で浄化させるのも得意だったな」
ピヴワヌが遠くを見つめた。
「浄化とは?」
「そのままの意味だ」
そのままの意味が、全く理解出来ない。
そもそもルグトリスとは何だっけ、と考えているとピヴワヌが亜莉香を見た。
「何故、ルグトリスの正体を知らんのだ?」
「そう言われても、考えたこともありませんでしたよ?私はいつも襲われてばかりで、逃げていただけですので」
「それならお主が狙われている理由も、ずっと分からなかったのか?」
呆れ果てた深い息を吐いたピヴワヌに、亜莉香は微かに頷く。
「あー…あの子の場合は、毎度自分で自覚をしていたが、儂が勝手に話していいのか?いやでも、これはもう決定事項で覆せなくて、すでに巻き込まれてもいるわけで――」
頭を抱えたピヴワヌが独り言のように、声を落として早口で言った。
悩み始めたので、亜莉香は花びらに視線を向けた。
よく見れば花びらの大きさが最初の時より、ほんの少し小さくなった。亜莉香よりも高く舞った花びらが、再び地面に舞い落ちる。
ピヴワヌが気付かない間に波紋が広がり、亜莉香は足を止めた。




