02-5
裏路地から市場へ入ると、人が一気に増えた。迷わず進むトシヤの背中を亜莉香は必死に追いかけていたが、歩幅が広いトシヤと同じ速さで歩けるわけもなく、途中から早足で追いかけていた。
見失わないように、と思っていたが限界で、人混みで見えなくなる前に声を上げる。
「トシヤさん!待ってください!」
夕方、と言う時刻のせいか。それとも元々人通りの多い道のせいか。亜莉香の声は周りの音で掻き消されそうになったが、トシヤには届いた。
少し前にいたトシヤが振り返って、一瞬だけ目が合う。
その途端に、ドンッと、誰かにぶつかった。
「――っご、ごめんなさい!ごめんなさい!」
「謝り過ぎ」
トシヤを完全に見失ったと思った瞬間、近くから声が聞こえた。驚いて辺りを見渡す亜莉香の右手を引っ張られ、そのまま引き寄せられた。
トシヤの腕の中だと気づくのに、数秒。
頭一つ分背が高いトシヤの着物の色しか目に映らず、硬直した亜莉香は後ろから知らない人に押されて、慌ててトシヤにしがみつく。
自分から抱き付いてしまった事実に、恥ずかしさで顔が赤くなる。
耳まで真っ赤になった亜莉香の心情など知らず、トシヤは辺りを見渡した。
「もう少し人通りの少ない場所、通ればよかったな」
「そう、ですね」
何とか答えつつ、声が裏返りそうだった。
神社で助けてもらったときは肩を引き寄せられただけだったし、それどころではなかったので意識なんてしてなかった。早く離れたいのに、人が多くて離れられない。
トシヤの方から離してくれる気配はなく、動こうともしない。トシヤに顔を見られないことを願いながら、亜莉香は顔を上げた。トシヤは誰かを探すように視線を巡らし、亜莉香の方など見ていない。
何だろう、と思いながら亜莉香は問う。
「どうかしましたか?」
「いや、声が聞こえて」
「声?」
疑問を口に出せば、トシヤは遠くを見つめる。
「知り合いの声が近くで――」
トシヤの視線が亜莉香の後ろで止まった。
眉間に皺を寄せたトシヤが、亜莉香の後ろを見つめる。誰がいるのか気になって、亜莉香は少し身体の向きを変え、後ろを振り返った。
亜莉香とトシヤを見て立ち止まっている人物は、一人しかいない。
数歩先でにやりと笑う、紺色の長い髪の青年。
長い髪は後ろで一つに結び、濃い灰色の紐で結んでいた。黒い着物を着崩して、下駄を履き、狐のような顔をしている青年の瞳は、澄んだ水色。
片手を上げたかと思うと、楽しそうに歩み寄る。
「トッシヤくーん!こんな道端で抱き合っているなんて、なんて大胆!」
「違う」
「デート中!?デートの途中――ぐはっ!」
近づいて来た青年に対し、トシヤは亜莉香を背に隠すように前に出た。前に出た途端、青年の腹を思いっきり殴り、殴ったトシヤは痛さで蹲る青年を、軽蔑するような眼差しで見下し、低い声を出す。
「聞けよ、人の話を」
「えー。聞いているじゃん。聞いているから、その子はトシヤの恋人で、どこで出会ったのかを教えてもらおうと思っているだけで――」
「トウゴ、あと何回殴られたい?」
軽い口調の青年、トウゴの言葉を遮って、笑顔を見せながら拳を見せるトシヤは、誰から見ても怒っていると分かる。
そのはずなのにトウゴは気にせず、へらへら笑う。
「殴られても、俺は平気だって。トシヤも知っているでしょ?」
「…」
「むしろもっと殴ってもいいぜ!」
テンションの高いトウゴに、そうか、とトシヤが言った。無言でトウゴの足を踏みつけ、痛がり蹲る姿を見たとしても、腕を組んで淡々と尋ねる。
「そう言えば、何でここにいる?仕事に行けよ」
「いやー、休憩時間に女の子と歩いていたら。トシヤがデート中で、気になって後をつけていたよね!」
「後をつけるな」
心底嫌そうな顔で言い返したトシヤと対称的に、トウゴは笑みを絶やさない。
「恋人でも、恋人未満でもいいけど。トシヤに春が来たなら盛大に盛り上げないと――」
「トウゴ、いい加減にしないと…斬るぞ?」
いつの間にか鞘から抜いた日本刀の切っ先を、トシヤはトウゴの首筋数センチの位置で止めていた。トシヤに睨まれ、身の危険を感じたトウゴの表情から、笑みが消える。
数秒、無言の空気が流れた。
トウゴがゆっくりと口を開く。
「そ、それで…トシヤ、その子は誰?」
真面目な質問になったが、トシヤは日本刀を鞘に戻さず、素っ気なく答える。
「アリカ。新しい同居人で、今日からユシアの部屋に居候する」
「へえ、新しい同居人か…て、えぇええ!何それ!俺初めて聞いたけど!!」
「安心しろよ。お前に関わらせる気はない」
「いや、一緒に住むなら関わらないのは無理でしょ!?何言っているわけ!?」
真面目に言ったトシヤの言葉で、騒いで五月蠅いトウゴの首筋に切っ先が触れた。
「ちょ、日本刀危ない!斬れる!!!」
「あ、悪い」
棒読みで謝ったトシヤは、仕方がない、と言わんばかりの顔で日本刀を鞘に戻した。ほっと安心したトウゴが、一部始終を見ていた亜莉香の方を見る。
目が合って、トウゴはにっこりと笑った。
ずっと黙ってトシヤの後ろにいた亜莉香は、軽く会釈する。
トウゴ、と言う名前で聞き覚えがあるのは、診療所でトシヤとユシアが話していた、もう一人の名前。変人で関わらない方がいい、とまで言われていた人物に、どう接すればいいのか迷う。
さて、とトシヤが亜莉香を振り返った。
「これが、トウゴ。変人で俺の兄だけど、顔も名前も覚えなくて問題ない」
「いやいや、ちょっと待って。一緒に住むのに、顔も名前も知らないと不便で、不気味だろうから」
「それから、殴っても罵倒されても懲りないから気を付けろ」
「はぁ…」
「俺の話を聞いて!」
曖昧に返事をした亜莉香と、無視を始めたトシヤに、泣きそうな顔でトウゴが叫ぶ。
「確かに殴られても罵倒されても平気だけど、無視されたら傷つくから!それに俺は変人かもしれないけど、トシヤだって変わり者だろ!この街の市場でお前の名前は有名過ぎる!ルカとルイは見た目の性別が逆だし、ユシアなんて暴力女!」
「トウゴ、それ本人達に言ったらぶっ殺されるぞ」
「本人の前で言えるわけがないだろ!」
堂々と言い切った様子に、情けなくなってトシヤがため息をつく。
ルカとルイはその通りだ、と亜莉香も思ったが、口が裂けても言えない。余計なことを言うまいと、黙ってトシヤとトウゴを交互に見る。
兄弟、と聞いていたが、トシヤとトウゴは全然似ていない。見た目も性格も、声も雰囲気も似ていない。お互い好き勝手言い合える関係は、一人っ子の亜莉香から見たら羨ましい。
言い合ってはいるが、仲が悪いわけではないようにも見える。
「それで、アリカちゃんだっけ?」
「は、はい?」
名前を呼ばれ、傍観していた亜莉香は疑問形で返事をした。
トシヤを押しのけて目の前まで来たトウゴは、亜莉香の一歩手前で止まる。亜莉香の長い髪に手を伸ばし、瞳を真っ直ぐに見つめる。
「人酔いでもした?こんな綺麗な黒髪と瞳だから、周りの視線が気になる?」
「…えっと?」
瞳を覗き込まれ、どうすればいいのか分からず亜莉香は立ち尽くす。
「サラサラで、誰よりも綺麗な君の髪に、俺はずっと触れていた――っいてぇえ!」
「おい、馬鹿、死ねよ」
後ろに追いやられたトシヤが、三拍子で言った。そのままトウゴの髪をむしる勢いで引っ張り、首まで思いっきり後ろに下げる。
トシヤは冷ややかな表情を浮かべ、言葉を続ける。
「俺の知り合いに毛髪を高値で買い取る人がいるけど、今から行くか?」
「行かない!行く必要ないから!!」
「それか、その口を閉ざしにユシアの所に行くか」
「嫌だ!!!」
亜莉香はトウゴの行動以上に、トシヤの行動に驚いた。
背の高さを考えないで見ていると、どっちが年上か分からなくなる。泣き叫ぶトウゴの様子は哀れだが、それでも助ける気にはなれず、亜莉香は成り行きを見守るしかなかった。




