00 現世
窓の外で、深々と雪が降っていた。
天気予報では夕方には止むはずが、空には灰色の雲が広がっている。高台にある公立高校三階の廊下から、本来なら色鮮やかなに見える屋根の色は白一色に染まった。至るところに設置されている街灯の光が雪で反射され、辺りを明るくしている。
時刻は六時過ぎ。
普段より美しい景色に目を奪われて、少女は足を止めた。
「…綺麗」
小さく、少女の声は廊下に響いた。
普段はあまり利用しない携帯をポケットから取り出し、慣れない手つきでカメラを起動する。一枚だけ写真を撮ると、少女は微かに笑みを浮かべた。
携帯をポケットに戻し、再び歩き出す。
口を結び、真っ直ぐに前を見据える少女の顔は色白で、二重。
浮かべた笑みは消え、何の意思も感じられないような無表情で黙々と歩く。歩くたびに、漆黒の髪と腰スカートが揺れた。
少女の髪は長く、肩と腰の間ほどの長さ。後ろで無造作に一つにまとめていて、前髪は瞳が少し隠れる程度に切り揃えられている。髪と一緒に揺れるスカートは、黒チェックのプリーツスカート。スカートが少し隠れる紺のダッフルコートと、その下には灰色のブレザーと白いブラウス。黒いタイツを穿き、首には白いマフラーを巻いて、左肩に教科書やノートの入った重たい鞄。
薄明かりの電球しかない廊下に、少女の足音が微かに響く。
コツコツ、と音を立てるのは、黒いレースアップのショートブーツ。編み上げ靴とも言う。内履きの無い高校なので外履きのまま廊下を進んで、階段を下りて玄関へと向かう。
突然、ポケットに入れていた携帯が鳴った。
ビクッとしたのは一瞬で、階段を下りながら携帯のボタンを押す。
「…駅前で待っています、か」
画面に映った文字を、小さな声で読み上げた。
了解しました、とすぐに返信して、再び携帯をポケットに戻す。
階段を下りて、少し歩けば玄関に辿り着いた。
校舎の中心に位置し、誰もいない玄関。靴箱はないので、あるのはドアだけ。玄関の電灯は点滅を繰り返しながら、微かに光っている。
全体的に薄暗い玄関のドアの前に、立ち止まることなく進む。
右手で軽くドアを横に引けば、その隙間から外気の冷たい風が少女の頬に触れた。寒い、と思いつつ、外に出て、ドアを閉める。ふと目に留まったのは、白く曇ったドアのガラスに描かれた無数の落書き。
動物や意味不明な言葉や記号、挨拶のような文章や相合傘。
その中に、鳥居の落書きがあった。
片手で隠れてしまうくらい小さくて、誰もが見落としてしまいそうな落書きが何故か気になって、一歩横に移動する。目線と同じ高さにある落書きを正面から見つめ、両手を白い息で温め、その理由を考える。答えは出ず、うーん、と唸って、考えるのを止めた。
帰ろう、と少女が踵を返そうとした途端、落書きが微かに赤く光って見えた。
「え?」
驚くと同時に、落書きをもう一度見る。
瞬きを繰り返しても、落書きが微かに光っているように見えた。有り得ないのに、綺麗な赤い光が気になって、そっと手を伸ばす。
「――っ!」
触れた瞬間、ゾクッと寒気がした。
咄嗟に手を引いて、胸の前で両手をぎゅっと握りしめる。
嫌な予感。
静寂の中、妙に心臓の音だけが五月蠅くなって、深く息を吐いた。
触れてはいけないものに、触れてしまった。そんな気配を感じて、一歩下がろうと試みるが足が動かない。
身体が、動かない。
「…冗談でしょう?」
微かに震えた声が出て、もう一度足を動かそうと試みる。まるで地面に足の裏が引っ付いたみたいに、一歩も動けない。
怖い。
怖くて堪らない。
何かが、おかしい。
【――帰って来て】
「――っ!」
突然、頭の中に響いたのは、繊細で綺麗な女性の声。
【お願い、早く帰って来て】
繰り返されるたびに必死になっていく声と共に、頭に激痛が走る。痛い、と感じると同時に、奥歯を噛みしめた。右手で頭を抑えるが、痛みは引かない。
頭が、痛い。
痛くて、怖くて堪らなくて、涙が滲む。
知らない女性の声が、同じ言葉を繰り返す。早く帰って来て、と呼ぶ。
瞳をぎゅっと、閉じる。
周りの音が、消えていく。
息が出来ないくらい、苦しい。
少女の身体は徐々に淡く赤い光を放ち始めた。
身体が傾きかけた瞬間、その姿はきらきらと輝く赤い宝石の欠片のように砕けて、
消えた――