クジラ日和
ガラスの向こうに見える飛行場では、機体が整備を終えたところだった。巨大な階段が取り外され、白い巨体はゆっくりと前進を始めた。ガラスに顔をくっつけて夢中でその様子を眺めている子どもが、手で触るのは止めなさい、と母親に叱られていた。
「もうすぐだね」
佳乃子の声は弾んでいた。
亮介は電子チケットを眺めた。搭乗時刻までは後十分を切っていた。
「こんなに晴れるなんてな」
昨日のニュースでは、本日の天気は大荒れ。南からやってきた巨大な台風が、日本を横断して北に抜けていく予報だった。けれど、今朝になって急に状況が変わった。巨大な熱帯低気圧は温帯低気圧に、進路は北から東の方へ、大きく変わった。空を覆い尽くす雲は吹き飛ばされ、今、亮介たちの前には、文句をつけようがない清々しい青空が広がっている。
「もう行くの?」
と、大河が言った。不安に満ちた目で姉を見上げる。
「大丈夫だって大河、飛行機は絶対に落ちないから」
大河は姉から顔を背け、助けを求めるように亮介を見上げた。
「大河、あの飛行機には二つエンジンが付いてるんだんだ。片方が壊れたら、どうなると思う」
「落ちる」
落ちる、と言葉にしてその瞬間を想像してしまったのか、大河は表情を固くした。
「飛行機は、片方のエンジンが壊れても飛べるように設計されていて、不具合があったらすぐに引き返せる。近くに空港がなかったら海の上に浮ける。救命ボートだってついてる。何があっても大丈夫な万全のテクノロジーが搭載されてるんだ」
大河は、時速五メートルで迫る死神を前にしたみたいに緊張の面持ちだ。自分を迎えに来る白い機体に目を凝らしている。従兄弟の亮介も信用出来ないらしい。
大河を安心させる一番のプロは両親だが……その両親は、子どもを置いてリゾートで夫婦水入らずと来ている。
『あなた達でいたほうが大河も楽しいでしょう』
と、亮介と佳乃子は大河を預けられてしまった。
自分が八歳のときはこんなに怖がりだったかな、と亮介は思う。少なくとも、佳乃子は違っただろうな。亮介と同じ年の従姉妹は、時々、そこらの男以上に心臓が強いところがある。
「なに?」
「佳乃子は飛行機なんて怖くなかったよな」
「馬鹿にしてんの?」
からからと笑って亮介を叩く。痛い。
ぴんぽん、と放送を知らせるアナウンスが場内に流れた。佳乃子は、ビクつく大河の手を取った。
「さ、行くよ。落ちるときにはしっかり抱きしめててあげるから」
「そんなの意味ない」
大河は反抗の意思を見せ、佳乃子はなだめようとする。亮介は、貴重な夏休みをこの二人と一緒に過ごすことにしたのは失敗だったかもと思い始めていた。
『皆様にお知らせです。十四時三十分発、K2000のフライトは、天候不調により、ただいま出発を見合わせております。お急ぎの皆様におかれましては……』
場内に不安とざわめきが広がる。佳乃子と大河は、『金色夜叉』の像のような臨場感ある体勢で宙を見上げていた。
「天候なんて絶好調じゃんか」
佳乃子は、ガラスの向こうに広がる青い空を見上げた。大河はほっとして座席に座り直した。まるで歯医者の順番を勘違いしたみたいだ。
「どうしたんだろうな」
空には雲ひとつ見えず、スマートフォンに映る日本列島のレーダーチャートにも、端っこに見切れた台風の姿があるくらいだ。
飛行機の進路方向に台風があって、飛んでいる間に追いついてしまうとか? でも、もう勢力を失っているという話だったし……
搭乗口に立つキャビンアテンダントが、困った表情を見せないプロの笑みを浮かべたまま、詰めかける乗客に説明している。耳をそばだてても、ここからではよく聞こえない。
「クジラ」
と、亮介の気持ちを見透かしたみたいに大河が言った。
「クジラが何って?」
「キャビンアテンダントさんが、クジラが来るって」
「良い耳をしてるな」
大河はきょとんとした表情をする。
「クジラってどういうこと?」
佳乃子が言う。
「さあ?」
亮介にもわからない。
あーあ、と佳乃子は視線を宙に彷徨わせた。と、目線を四十五度の角度に上げたまま、口をぽかんと開けた。
場内を満たしていた不安の芽が、一斉に開花して大きなどよめきになったのはその瞬間だった。。
外を見渡すガラスに水滴が伝った。飛行場のからりと乾いたコンクリートの上に、楕円形の影がひとつ現れた。海からやってきた影は、ひとつふたつとその数を増していく。黒い楕円形のハンコを地面にぺらぺら押したみたいだ。
「雨か?」
パシャリ、とシャッターを切る音がした。
「なにあれ?」
空を見上げた佳乃子の目がきゅっとすぼまる。その視線を追って、亮介は顔を上げた。
息が止まった。
何かが浮かんでいる。ラグビーボールみたいな形をした巨体。飛行機が三台は着陸できそうなくらいのヒレ左右にがくっついている。
クジラだ。
彼らは地上の人々のことなど意に介さない様子で、ヒレと尾を優雅に動かしながら空を泳いでいく。
飛行機を待ちわびる誰もが、空に現れた巨大な群れに心を奪われていた。
大河が椅子から飛び降りた。そのまま飛行場に面したガラスのほうに走っていく。
佳乃子はスマートフォンの画面に大河の姿を捉えた。空を埋め尽くすクジラの群れを前に、大河はただ圧倒され立ち尽くしている。
「凄い」
「これじゃ飛行機も飛べないわけだな」
ひときわ大きなクジラが、背中から潮を吹き出した。宙に打ち上がった巨大な噴水は重力に引かれ、ガラスと地面を濡らした。スコールみたいに視界が閉ざされ、あっと思った後には、雨上がりの眩しい世界が目の前に広がっていた。水中に残った水滴の残滓が、陽光を散乱して虹を作り出した。
その虹はクジラの群れが視界から消えてもなお、小さな奇跡を証明するみたいに、旅路を前にする人々を見下ろしていた。
ぴんぽん、と、人々の目を覚ますみたいに、アナウンスが始まった。先程まではスキがなく、澄ましていたアナウンスの声は、ちょっとだけ興奮して上ずっている。
「遅延しておりましたK2000のフライトは、予定を変更し、十五時十分に離陸を予定しております。お急ぎの所、大変ご迷惑を……」
夢から覚めたみたいに、人々は空から視線を落とした。
佳乃子は、撮った写真をスクロールしながら、スーツケースの取っ手に手をかけた。取っ手がすっと伸び、カチャリ、という小気味いい音がする。
「後で見せてくれよ、撮り忘れた」
「今回の旅の一番の見どころだったかも」
亮介と佳乃子は、それぞれ右手と左手をぐっと引っ張られた。大河だ。
「早く行こうよ」
大河の瞳に、もう不安の色は浮かんでいなかった。好奇心の光は虹よりもずっと眩しい。飛行機が墜落する怖い想像は、空飛ぶクジラの圧倒的な光景で塗りつぶされてしまった。
「さっきまであんなに嫌がってたじゃん」
佳乃子と亮介は笑いながら、我先にと入り口に駆けていく大河の後に続いた。
今回は、とても楽しい旅になるような気がした。