覚え書き・芸術に疎い作家は二流である
「芸術から慰めを引き出そうとする
馬鹿者がいる。
コンサートホールは
辱しめられた者、傷ついた者で溢れている。
彼らは目を閉じ、青白い顔を
受信アンテナに変えようと努めている。
とらえた音が、優しく滋養豊かに
自分たちの内部に流れ込み、
若きウェルテルの苦悩のように
自分たちの苦悩が音楽に
なるだろうと想像しているのだ。
美が彼らに同情すると思っているのだ。
間抜けな奴らめ。」
(サルトル 『嘔吐』)
芸術は心の癒しではないし
現実逃避の手段でもありません。
それはやはり読書同様
精神活動の最も劇的な営みです。
芸術の否定は読書の否定と同様に
精神そのものの否定です。
最高峰の芸術は
人間の自覚せられざる未知の視力や
未知の聴覚を教育する力を持つ。
芸術を通して人間は
それまで気づくことのなかった
存在や価値、美、崇高さに
気づけるようになります。
このようなものに関心を向けないのは
作家としてどうこう以前に
知的生命体失格なのです。
幸いにも現代人は
情報収集手段にはことかきません。
その気さえあれば
敷居の高さなど意識せずに
どんどん芸術に触れることができます。
だから今これを読んでいる貴方も
今すぐブラウザバックして、
なろうもユーチューバーもソシャゲも
今すぐ全部閉じて
ドラクロワやセザンヌや
曽我蕭白やドナテッロを
検索して鑑賞しましょう。
YouTubeではワーグナーの
オペラ対訳を聴きましょう。
図書館に行けば
ネットの画像よりも
もっと鮮明で美しいカタログが
見られるし
クラシックのCDも借り放題です。
ネットサーフィン、
SNS、おしゃべりの応酬、
くだらない人間関係、
全部捨て去りましょう。
なろうのサイトを開くのだって
自分の書いたものを
投稿する時だけでいいのです。
よく『なろう』が大きくなったのは
アマチュアリズムを賞揚したからだとか
言っている人間がいますが、
実際流行やテンプレに乗っかって
プロデビューした人間が
たくさん出たのも事実だし
なろうが利用者を増やして大きくなって
メディアミックスしまくって繁栄してるのも
事実ですが、
安易な道を選ぶツケは
必ず回ってくるってことは知っておきましょう。