1.
『そう、彼らはかつて人間だった。後天的に■■■■を与えられたことで変異したのだろう。すべては■■■■を発揮するための処置だ』
――ある研究者の備忘録より――
マス目のように割れた白いパネルと眩く輝くライトの光。それこそ、『彼』が初めて視界に納めた風景だった。
物心がついたばかりの頃ではない。ほんの4、5年ほど前――少なくともオムツの世話にはなっていない――年頃の記憶だ。
それより前の記憶はきっと存在していた筈なのだが、今となっては到底探りようもないことだ。同一人物だと気付く痕跡など、この体には何一つ残されていない。生みの親でさえ、『彼』を眼前に捉えても顔色ひとつ変えずに過ぎ去ってしまうことだろう。
ともかく、始めて『彼』自身が見た姿は人間ではなく、キメラとしてのものだった。おおよそは人の外見を保ちながら、頭の横から伸びる耳は大きく尖り、後腰からは体毛に覆われたふさふさの尾が伸びている。鏡の奥から見つめ返す双眸は、狼のごとく鋭さを帯びた輝きを宿していた。
人間と獣、異なる2種族を混ぜてひとつに固めたような、不自然の極致を行く存在。もしも以前の姿を覚えていたのなら、悲鳴のひとつやふたつは上げていたに違いない。だが、幸いにも『彼』は、変貌に気付くだけの記憶を持ち合わせていなかった。
半人半犬の自らをまじまじと眺めていた『彼』は、突然病室に踏み込んできた白衣の人々に手足を拘束された。担架に乗せられ、長い廊下を運ばれ、薄暗く狭苦しい部屋へと押し込まれる。そうして、今度は数え切れない数の検査を受けることになった。
血を抜かれ、診察台に乗せられ、正体のわからない機械にかけられる。それが終わるや否や、ぐるりと周囲を白衣に取り囲まれ、問診と簡単な筆記のテストを強要される。食事を終えるや短い睡眠時間に入り、目覚める頃にはまた検査が始まりを告げる。
意味を問おうにも問いようがなく、逃げ出そうにも逃げ出せない。ただ実験動物のように淡々と調べられ、食事と睡眠を与えられる。そんな生活が一週間ほど続いた後、『彼』は何の予告もなく、再び別の場所へと移された。
そこは、今までの部屋よりもはるかに広く、彼と白衣以外の存在がいる空間だった。
獣の特徴を持った少年少女たちを目の中に捉えた瞬間、『彼』は心が波立つのを感じた。同じ境遇の存在を見つけたことへの歓喜――あるいは■■■■につながった感情に、胸が震えを抱く。『彼』は、一番近くにいた少年へと歩を進めた。
「――やあ」
どう呼びかけていいものか悩んだ末、曖昧に声を発する。少年は顔を上げると、にこりと『彼』に笑いかけた。
「ようこそ、シャウラ。ずっと待っていたよ」
「シャウラ?」
聞き慣れない言葉を反芻する『彼』に、少年は頷いて答える。
「うん。君の名前だよ。この施設の人が、みんなに名前を付けてくれたんだ」
「僕の名前を……? そう、なんだ」
戸惑いながらも、『彼』は嬉しさを覚えていた。その名を記憶として刻み付けようと繰り返し呟く『彼』を、少年は暖かな眼差しで見守る。
「シャウラ。そう、僕はシャウラだ――」
唱える度、自分と同じキメラ――猫の少年の姿が次第にぼやけ薄れていく。
記憶の奥底で揺らめく幻から、『彼』は自身の意識をすっと引き上げた――。
――瞑想から醒めたシャウラはゆっくりと目を開けた。その視野に、向かい合うようにして座る老人の姿が映る。
彼は、擦れて褪せた色合いの着物に身を包み、胡坐を組んでいた。軽く閉じられた瞼と力みのない表情は、彼らの座す道場の静寂を現しているかのようにも感じられる。揺らぎひとつ見せないその姿を前にして、シャウラは自身の姿勢を静かに正した。
「――うむ」
どれほどの時間が経っただろうか。老人は小さく唸ると、片膝をつきながらゆっくりと立ち上がる。その手には、彼の愛用する一振りの木刀が握られていた。
「さて、始めるとしよう」
シャウラは呼びかけに応じて腰を上げた。傍らに寝かせていた木刀を拾い、老人と向かい合う。
互いに深々と一礼を交わすなり、彼は刃先が向くように柄を握り直した。
「来い」
受けを前提とした構えを取り、老人が声を発する。と同時に、シャウラは大きく前へと踏み出していた。
「っ――はあっ!」
「ふんっ」
真正面からの兜割りを、前もってかざされた木刀が受け止める。みしりと軋みを生じながら止まった太刀を払い、老人は次の一撃を受けるべく体勢を転じた。
「せいっ! はっ! やあっ!」
立て続けに振るわれる木刀が道場内に打撃音を響かせる。稽古とはいえ、軽快なテンポをもった剣戟に遊びの気は一切ない。そんな本気の太刀さえ容易くあしらってみせるのは、まさしく手練ゆえの芸当と言えるだろう。
機敏に間合いを変化させながら、老人はシャウラの剣技にじっと目を向け続けていた。
「呼吸を乱すな。決して己の波に逆らってはならん」
「はい、師匠!」
やや急いた剣捌きに注意を受け、シャウラは剣戟のリズムをわずかに緩める。
何度打ち合おうと息は上がらず、されど隙は一部もない。自ら崩れることなく、相手の油断や焦燥を誘い続ける波状の剣戟。強引な仕掛けのない立ち回りを維持したまま、両者は幾度となく剣先を交わらせる。
「良い動きだ。だが――」
言うや否や、老人は急に構えの軸をずらした。隙だらけの体勢を取る彼を目の前にして、シャウラは好機を覚る。
一撃必殺の太刀筋へと意識を転じた彼は、持ち手に一際力を込めて刃を振るった。
「――素直さが前に立ち過ぎる」
次の瞬間、横合いから差し込まれた刃先が得物を絡め取った。
一瞬の剛力に引き抜かれ、剣が宙を舞う。呆気に取られるシャウラの胴を蹴倒し、老人は木刀を転がる彼へと素早く振り下ろした――。
「そら、首取ったぞ」
触れる直前で刃先を留め、老人は意地悪げな口調で告げる。彼は床に転がったもう一振りを拾い上げると、シャウラに投げて渡した。
「波を乱さず、読み合いに徹していたのは良い。だが、嘘に惑わされては元も子もなかろう」
「申し訳ありません、師匠」
自身の得物を受け取りつつ、シャウラは師の指摘に答える。
「――今日はここまでだ。暫く休息を取れ、愛弟子よ」
再び木刀を構えようとした彼を制して、老人は告げた。
「はい、ありがとうございました」
投げかけられた言葉に頷くと、彼は切っ先を下ろして柄を持ち替える。そして、打ち稽古の前と同様に、老人へ深々と頭を下げた。
シャウラが心身を休めるために立ち去った後、老人はなおも道場に留まっていた。
彼はひとり座して目を瞑り、先刻の稽古を頭の中で反芻する。
(なるほど、確かに十分な成長は得たといえるだろうな)
振るう一刀ごとの運びに問題はなく、それらの繋ぎ重ね方にも無理は生じていない。全てが教えたとおり、確実に修得できていると言ってもいいだろう。
(だが技としての会得に過ぎん。ひとつひとつが形取るだけの存在に留まっている)
そう言って、一連の打ち合いを辛口に評する。『素直』と言えば聞こえはいいが、その実態は応変さを欠いた形ばかりの技巧。何より、命のやり取りとしての『詰め』にどこまでも欠けている。
相手が乗ることを前提にした剣戟では、普段の稽古こそこなせても、剣客として外で渡り合うことなど到底できる筈がない。
(とはいえ、儂以外に相手をする者がいないのではな――)
日頃から競い合う門徒が居れば違ったかもしれないが、生憎と肩を並べる相手は彼の元にも、麓の里にもいなかった。老人以外の剣を知らないシャウラに自ずから気付くことを求めるのは酷だろう。
いずれにしても、彼に戦いの術として剣を使わせる必要がある。自分以外が手合わせに応じる機会こそ、そのきっかけとなる筈だ。
「はてさて、どうしたものかのう」
己に問いかけるかのごとく、老人はひとり呟いた。