1.
『世の中には急に止まれないものが三つある。乗り物と緻密な計画、猪騎士の突進だ』
――とある闘戯好きの男の備忘録より――
アルバトロスシティ南部――その東西を横切るように、スワロウ・リバーが流れている。上流の渓谷を飛び交うツバメの群れから名づけられたこの川は、かつて島の物流を担う『動脈』として機能していた。
島民の胃袋を満たす耕作地帯から始まり、平原の集落、東端の港までを結ぶ運河。敷き詰められた道よりも遥かに早く、多くの荷物を届ける輸送路には、絶えず数多の舟が行き交っていた。岸辺に築かれた船着き場では、作物や魚などを揚げ降ろす光景も頻繁に見られたという。
もっとも、居住地域が島全体へと広がり、運搬と連絡の手段が陸路中心となった今では、このルートを使う業者などいなくなってしまっている。現在は当時の面影を残す観光名所のひとつとして、にわかにその形を留めるだけだ。かつて岸辺を埋めるほどあった運搬船も、多くは姿を消し、遊覧用に手が加えられた数隻が渓谷の間を往復するだけになっていた。
商業地としての機能はとうに失われたが、それでも人の多い地域である。涼みに向いた水辺ということもあって、シティの住民からは憩いの場所として愛され、隅々にまで整備が行き届いている。
そのうちのひとつ、均され鮮やかな色彩なタイルを敷き詰められた堤防沿い。その道なりに沿って、黒猫の少年――ラザルヘイグは、足早に歩を進めていた。
「まったく。こんなところまで呼びつけられるとはね」
まったく立ち止まる様子を見せない彼は、くつろぐ人々を横目に愚痴をこぼす。尾を隠している上着の長裾をはためかせながら向かう先は、かつて街の中央市場があった噴水広場。待ち人の指定したその場所を目指して、彼の足は淡々と動き続けていた。
ラザルヘイグが呼び出しを受けたのはこの日の正午のことだった。依頼してきた人物は、よく見知った間柄の――『同居人』にして同じ境遇を抱える――ひとりの少女。トラブルに首を突っ込みがちな彼女だから、頼みごとというのも、どうせ碌なものではないだろう。
(とはいえ、いきなり断ると怒るから厄介なんだよね)
電話口で依頼を拒絶した時のことを思い出し、彼は軽くため息を漏らした。
理由をつけるまでもなく、面倒臭い特性を抱えたトラブルメーカー。それが彼女なのだ。性根は悪くないところが、一層の性質の悪さを生み出してさえいる。
「――っと、考え過ぎは良くないな。とにかく落ち合って話を聞かないと」
引き返したい気持ちをぐっとこらえ、彼は噴水広場の中へと足を踏み入れた。
往来に削られ磨かれた石畳と、その両脇を固める露天商を模した屋台の列。炎天下の中、観光客を相手にアイスクリームやタコサンドなどを売りさばく露天商の喉下からは、滝のように汗が滴り落ちる。それを買い求める客たちもまた、水滴をタオルや衣類の裾で拭い、干上がった喉を手にしたドリンクボトルで潤している。
声を張り上げ商売にいそしむ一団の居座る道から外れ、ラザルヘイグは大木の植わった緑地帯へと向かった。青々とした枝葉の層が日差しを遮る一角は、腰掛けたり寝転んだりして体を休める人々でやはり賑わっていた。
(さてと。彼女はどこにいるかな)
彼は辺りを見回し、待ち人の姿を探した。独特の風貌をしているからすぐに気付く筈なのだが――。
「おう! ここだ、ここにいるぞ!」
キョロキョロと視線を動かすラザルヘイグの耳に、聞き慣れた声が届いた。見ると、彼女とその友人が一緒に木陰の中で涼んでいる。彼は手を振り返すと、彼らのいる方へと歩み寄った。
「此度こそは馳せ参じてくれると信じていたぞ」
「ん、まあね」
微妙に芝居がかったような調子で話す少女に、ラザルヘイグは曖昧な声を返した。
両足を緩く伸ばしてくつろぐ彼女は、全身を重厚な甲冑で覆い固めている。どこかへ戦に出かけるかのような、気合の入った姿だった。もっとも、これが普段からの装いであることを知っていればなんのことはない。脇に抱える長大な馬上槍をちらりと眺め、ラザルヘイグは問いかける。
「また禄でもないことを考えついたわけじゃないよね、カウス」
「『禄でもない』とは無礼な。私は常に騎士として、高潔な精神を掲げ行動している。見て分かるだろう、この堂々たる武人の佇まいを」
「ボクには君が大道芸人かロケ中の役者にしか見えないよ」
あまりにも場違い、時代遅れな外見で胸を張るカウスに、彼は呆れ半分で言った。
この変人極まりない言動は、昨日、今日から始まったことではない。ここへやってくるよりも前から、既に片鱗を見せていたものだ。一体何がきっかけでこうなってしまったのか、長年付き合いのある彼にさえ皆目見当がつかなかった。
「まあいいや。とりあえず、ボクを呼んだ理由を聞かせてくれないかな?」
「良かろう」
尋ねる彼に、カウスは勿体ぶった口調で答えた。
「貴君を呼び立てたのは、またとない立身の好機を共に獲ようと考えてのことだ。ひとつ名を挙げれば、貴君も依頼を請け易くなるというものだろう」
「それはそうだけど。一体、何をやろうっていうのさ」
「うむ。実は番所より『住宅地を占拠する不届き者を懲らしめよ』との命を受けてな」
「番所じゃなくて、島嶼警備局」
一瞬眉を顰めるラザルヘイグだったが、横合いから助けの声が入るやすぐに合点がいった。
他方、カウスはといえば、友人の指摘に気恥ずかしくなったようだ。彼女はわざとらしく咳払いをして、赤面の表情をごまかした。
「――まあ、そうとも呼ぶ」
「呼ばない呼ばない」
「と・も・か・く! 私一人で赴いても良いのだが、せっかくの機会。貴君にも栄誉をと思い声をかけたというわけだ」
そう言って、ラザルヘイグの反応を待つ彼女。
対する彼は、それほど嬉しそうでもない表情を浮かべていた。
「それはどうもありがとう。両手離しでは喜べないけどね」
「どういうことだ?」
キョトンとした顔のカウスに、ラザルヘイグは大きなため息をついて言った。
「君の言う住宅地に心当たりがあるからさ。わざわざ外に任せるってことは、大方北部のスラムかその周辺。そうでしょ?」
「それがどうしたというのだ。不法に街を支配する悪党がいるのは確かなのだぞ?」
「ボクにとっては大問題なんだよ、カウス」
彼は肩をすくめる。
「十中八九、その悪党っていうのはギャングさ。流れのチンピラと違って、あの手合いはとても執拗で狡猾だからね。ボクは関わり合いになりたくないから遠慮させてもらうよ」
「随分と弱腰な。ただの格好付けた悪党ではないか」
消極的な彼の物言いにカウスは憤った。いつもはそれなりに乗り気なところを見せるだけに、一層腹立たしく思えてならない。
「あんたが言えたことじゃないでしょーに」
「どうやら私は貴君を見誤っていたようだな……。もういい、私一人で征く!」
脇から上がる指摘の声を遮って、彼女は勢いよく立ち上がった。長重な鉄槍を肩に担ぎ、傍らで涼気を堪能していた友人へと声をかける。
「ドルネシア。案内を頼む」
「もー、大事なことはすぐ聞き流すんだからさー」
ぼやきながらも、有翼の亜人――ドルネシアと呼ばれた少女は仕方なく腰を上げる。
羽先を二、三度震わせて汚れを落とすと、彼女はカウスへと向き直った。
「近くまで案内はするけど、そこから先はカウスだけで行ってよ。薄汚いスラム街なんて絶対に入りたくないんだから」
「当然だ。あくまで私の役目だからな。貴君はただ無事を祈ってくれさえすればいい」
「別に祈らないわよ」
ドルネシアが突っ込みを入れる。
そんな二人の様子を、向かい立つ黒猫は呆れた様子で眺めていた。
「まったく。君は本当にドン・キホーテみたいだね」
「狂人扱いとは失礼な。私は誠心誠意をもってこの道に殉じているのだぞ」
ムスッとした表情を浮かべるカウス。だが、その外見も言動も、騎士の道に狂ずる男と寸分違わないものだけに説得力はない。
「じゃあね、無鉄砲。無事に戻ってきたら何か奢るよ」
「また逢おう、腰抜け。貴君の息災を祈る」
これ以上話すこともない。
ラザルヘイグとカウスは、お互いに罵り気味の挨拶を交わすと、その場を後にした。