3.
「馬鹿力の相手は腕が疲れるね」
一面の光に包み込まれた結界の中で、少年――ラジーは独り言をつぶやいた。その周囲では、時間を早回しで戻すように、ありとあらゆるものが復元されていく。
砕かれ穴の開いた路面も。
破けた衣服も。
そして――今しがた絶命したばかりの対戦相手までもが元通りになる中、彼は血糊が消えたばかりの短剣を腰の鞘に収めた。
修復を終えると同時、ガラスの薄板が割れるように、彼らと野次馬たちとを隔てていた障壁が消滅する。それはすなわち、闘戯の勝敗が完全に決したことを意味していた。
生き返ったものの、気絶し仰向けで倒れている鬼人を放ったまま、ラジーは傍に転がっていたスーツケースを拾い上げる。
「さて、と。これでこの鞄はボクのものになったわけだ。といってもね……」
「あ、あのぉ」
ため息をつく彼の前に、立ち尽くした観衆の間から一人の男が遠慮がちに進み出た。スーツケースを奪われ強請られていた男だった。
「不躾な頼みかもしれませんが、そのスーツケースを返して頂けないでしょうか。とても大切なものなんです」
「大切なもの、ねえ」
これといって欲しいものでもない獲得品を手に、彼は思案を巡らせる。元々盗られたものなのだから、返すのは至極真っ当な話だ。
しかし、このままただで渡すというのも少々割に合わないように思えてならない。
「ひぃ、ふう、みい、足して、引いて――――20ドルかな」
ひとしきり指を折ったり伸ばしたりを繰り返した後、ラジーは男に言った。
「は、はあ?」
「代行料。本当ならもっと高く付くんだけど、サービスしとくよ」
「代行って……」
何も握っていない側の手を差し出す彼に、男は困惑した表情を向ける。どうやら、善意で自分を助けてくれたと思っているらしい。
ラジーは呆れ気味に肩をすくめた。
「これはビジネス?ってヤツなんだよ。おじさんなら分かるよね」
「そんな無茶苦茶な」
「この島じゃよくあることさ。ケンカを吹っかけられるのも、金でケンカを買うヤツがいるのもね」
戸惑うばかりの男を前に、彼はそう言った。
気を失ったままの青年が警官たちに引きずられていき、野次馬も騒ぎの終わりとともに姿を消し、オレンジストリートは元の喧騒を取り戻していた。
炎天下に曝され、体の火照った客たちが暑さしのぎにカフェへと押し寄せる。スイーツやドリンクを運ぶウェイトレスが忙しなく動き回る中、カウンター席のラジーはのんびりと午後のひとときを過ごしていた。
「おつかれさま」
仕事を終えた彼に呼びかけるデネボラ。その手には約束どおり、ミルクフロートの載ったトレーが抱えられていた。
「そういえば、スーツケースの持ち主さんは?」
「ボクに20ドル手渡すなり走って行っちゃったよ。ついでとはいえ、せっかく助けた相手だ。面倒なことに巻き込まれてないことを祈りたいね」
彼女に答えながら、ラジーは目の前に置かれたグラスへと手を伸ばす。
島の外でどのような喧伝がなされているのかは知らないが、この街を訪れる観光客の多くは無防備そのものだ。よほどの神経質か政府の要人でもない限りはボディーガードを付けない上に、大半が護身用に武器を持ち歩くことさえしないでうろついている。
もっとも、闘戯に巻き込まれない限りはいくら備えたところで意味はないのだが。
「どうかしら。幸薄そうな人だったからまた災難に遭っているかも」
デネボラは頼りなさそうな男の風貌を頭に浮かべつつ、面白がるように言った。
「確かにね」
頷くラジー。
彼は入道雲を思わせるクリームの山をスプーンで掬い、口へと運んだ。闘戯で熱を帯びた体に広がる冷気と甘味が、その表情をやわらかく緩ませる。
「はぁ――――やっぱり良い味だ。生きているって感じがするよ」
至福に蕩けた面持ちを浮かべて、彼はため息をこぼした。
命のやり取りを終えた直後とは思えない無邪気な笑顔。小さな子どものようにフロートを啜る彼を前にして、デネボラはわずかに表情を曇らせた。
「ねぇ、ラジー。貴方にだって、いくらでも他のやり方があるんじゃないの?」
不意に、彼女は諭すような口調でラジーに呼びかける。
「他のやり方?」
キョトンとした顔を向ける彼。その双眸をじっと見据えながらデネボラは言葉を続けた。
「死なないといっても、闘戯そのものは殺し合いよ。傷を負う痛みも、『死』の感覚も、決して夢や幻なんかじゃない」
彼女は自らの胸に手を当てる。はるか以前、私闘から負った致命傷を思い返すかのように。
消えた筈だった鈍い圧迫の感触が一瞬まとわりつくのを覚え、彼女の表情はわずかに強張った。
「時に本能や激情に駆られて闘うことは誰にだってある。それは仕方のないことよ。でも、お金を稼ぐ手段として闘いを挑むなんて、あまりにも危険で冒涜的な行動だわ」
「危険で冒涜的、か」
ラジーは懇願の言葉を反芻するように繰り返した。
彼女に言われるまでもなく、闘戯を挑むことの危うさは理解している。そうしたものに率先して首を突っ込もうとする友人を、彼女が大層不安に思っていることも。
わずかな間の沈黙――空けられたグラスの中で、融け崩れた氷が軽く音を立てた。
「お願いラジー。闘戯でことを収めようとするのはこれっきりにして。貴方ならできる筈よ」
「君の言うことはもっともだと思うよ、デネボラ。ボクの行いはいつも幼稚で、無謀に満ちている」
ラジーは淡々とした口調で言った。
「それでも、ボクにはこのやり方が一番合っている。闘いに生きることがとても楽しいんだ。命を糧にお金を得る、今の生き方が最高の幸せに感じられるんだよ」
「ラジー……」
「ごめん。でも、心配してくれてありがとう」
デネボラの複雑そうな面持ちを前に、彼はそう答えた。
アルバトロス、それは南洋に浮かぶ長閑な楽園。
すべての争いから隔絶された闘いの世界。
外界の思惑など関係なく、ただ兵たちは闘戯に興じる――。
※復元 均衡結界の内部で起こった変化は解放と同時に巻き戻る。人の死すら例外ではない。
※幻痛 闘戯で『死』を経験した場合、ごく稀に起こる現象。