2.
「おいオッサン、何か言い返してみろよ。さっきの気迫はどこ行ったよ、なあ?」
異を唱える兆しさえない空間に気分を良くしたのか、荒くれ者の青年は震えるスーツ姿の男に煽り言葉を投げかけた。
ここまで出来上がってしまえば、あとは搾れるだけの有り金を搾り取ってやるだけ――。そんな意図が見え透けるほどあからさまな態度で、彼は法外な取引を迫る。眺める野次馬たちも仲裁に入るそぶりさえ見せず、むしろ闘いを望んでいるようだった。
ついにスーツの男が観念し、財布の収まるポケットに手を入れたその時。
「その辺にしておきなよ」
当事者を取り囲む円の外から、高く明瞭な声が響き渡った。
「なんだテメェ、文句あンのか?」
あと一押しというところでかかった制止の声に、青年は腹立たしげな顔で振り返る。ざわめく野次馬たちを掻き分け、彼の前に進み出てきたのは一人の少年だった。
「クソガキがいい度胸してンじゃねぇかよ。なんだぁ、このジジイの肩持ちしようってのか?」
彼の目論見を知ってか知らずか、青年はせっかくの『仕事』に水を差した相手へと恫喝の矛先を変える。対する少年は、奥で立ちすくむスーツの男を一瞥すると、大して怯える様子も見せずに答えた。
「いや、そっちは別にどうでもいい」
あまりにあっけらかんとした物言いに、青年は面食らった。予想外の態度に返答の機会を損ねた彼をよそに、少年は朗々とした口調で言葉を続ける。
「ボクはこの馬鹿騒ぎを早いとこ終わらせてほしくて来たんだ。あんたらが揉めてる内容なんて知ったこっちゃないけど、今すぐこの場から退かないとこっちは困るんだ。だから手っ取り早く話をつけに来た」
「御託はいい。さっさと要件を言え、クソガキが」
困惑から醒めた青年が苛立ちを募らせる。少年は後腰に右手を回しつつ答えた。
「闘戯全裁。あらゆる揉め事の裁定は闘戯の結果で決める。それがこの島のルールだろう」
「あぁ?」
首を傾げた青年の鼻先に輝く刃が突きつけられる。
「あんたが盗ったスーツケースの所有権、この勝負をもって賭けさせてもらう。それで全部片が付く」
抜き放った短めの直剣を構え、少年は周囲に透る声ではっきりと宣言する。その瞬間、得物を手にした二人の周囲に光を帯びた壁が現れ、四方から包み込んだ。
均衡結界。
アルバトロス島でのみ現れるこの閉鎖空間こそが、島のルールを成り立たせる唯一絶対の現象。
内外を遮り、当事者以外への危害一切を封じる特性を持つ壁は、敗走をも許さないリングをその場に形成する。
結界が現れたことで、闘いの条件は整ったも同然の状況になった。
「テメェ……正気じゃねぇだろ」
「さあ、どうだろう。少なくともここではまともな部類じゃないかな」
不可思議な障壁に隔絶された内部で、両者は言葉を交わしつつ互いを強く見据える。
言葉の真意を探り合い弁解を重ねようと、ひたすらに無視を決め込もうと、この結界が自然に解けることはない。当事者同士が闘う意思と争う理由を得たその時点で、闘戯の条件はすべて揃っているのだ。
こうして死合うことを決めた以上、闘いは避けられない。
拳を交わし、剣を鍔迫り合わせた末に雌雄を決する以外、この空間を抜け出す術は存在しない。
「闘いに引きずり込んだ以上、テメェは覚悟できてンだろうな? 今更泣いたところでどうにもなンねぇがなあ!」
威嚇するように吐き捨てると、青年は剣を振りかぶる。高まる彼の殺気とともに、血の逸った野次馬たちの湧き立つ声が一段と大きくなった。
「覚悟なんて最初から決まってるよ。なにせボクは――」
「死ねやコラァッ!!」
少年が言い終える間もなく繰り出される太刀筋。
初めから首を狙っての横一閃。
絶命必至の剣戟だったが、彼はとっさに仰け反ってかわしてみせる。
「おっと危ない」
続けざまの剣戟の軸から体をずらし、峰を擦り付けるように受け流す。その瞬間、接触した刃から火花が強く散った。
膂力に身を任せた乱暴な振り方ではあるものの、それだけに受ける剣圧も重い。並みの人間であったなら、最初の一打ちだけで首と胴が分かたれていたことだろう。
衝撃と鋭利な切っ先、その両方を巧みに逃がし凌いでこそいるものの、相手の暴威に満ちた剣戟を前に、少年の立ち回りは防戦一方の様相を呈していた。
「嘗めた口利きやがってっ! このっ! クソガキがっ!」
「いいぞぉ! やっちまえ!」
斬りつける――というよりはむしろ叩きつけるかのような挙動。豪快に得物を振り回す青年の姿を前に、興奮した観衆から声が上がる。どちらの言い分に理があるかなど、野次馬にとってはもはやどうでも良いことだった。
盛り上がる場の空気に当てられ調子付いた青年は、一層派手な太刀筋を相手に見舞った。
「――――っ」
受け止めるにはいささか厳しいと取ったか、少年はとっさに跳んで距離を開ける。
一瞬遅れて過ぎた刃が勢い余って路面を割った。衝撃に砕けたコンクリートが四方八方に弾かれ、光の障壁に突き刺さる。青年は突き刺さった剣を軽々と引き抜くと、人間離れした剛力を周囲に見せつけるように言った。
「どうだクソガキ、これがオレの実力だ。弱い者いびりで小金稼ぎしてると思ってたンだろうが残念だったなぁ?」
一向に仕掛けない少年への煽りを口にしながら、青年は利き腕の剣を握り直す。
見れば、少年は片膝をついた姿勢で竦んでいた。どうやら今の打ち合いで相当参ってしまったらしい。無様な姿を視界に捉え、青年の顔が嘲笑の気を帯びた。
心折れたからと言って容赦する気などないが、威勢よく挑みかかった割には随分と情けない奴だ。
「なンか言えよ、なあオイ!」
若干拍子抜けの感を持ちがらも、彼は憎たらしい相手にトドメを刺そうと歩み寄った――。
「――手を抜いてるね?」
ふいに発された言葉に歩が止まる。
その怪訝さに眉を顰める青年をまっすぐに見据え、少年は淡々と言葉を続けた。
「『ボク相手なら一本だけで十分』、そう見立てたのかい?」
まるで冗談か強がりにしか聞こえないにもかかわらず、彼の表情には怯えも不安もまったく見えない。そこにあるのは強い不満――本気で自分を相手取ろうとしない青年への憤りだった。
「テメェ死にたがりか? オレの基準でやり合ったら勝負になンねぇだろ」
青年は、信じられないといった調子で言い返した。
これまで闘戯に興じる機会は幾度となくあったが、目の前の少年ほどに狂った要求をしてくる相手はいなかった。
そもそも、どれほど熟達した戦士でも、相手が手を抜いてくれるならありがたいと考えるのが普通だ。優位さを潰して全力での仕合を臨むのは無策の極み、無謀そのものでしかない。それを敢えて選ぶとあれば、自殺願望があると捉えるのが適当だろう。
「ああ、でも――」
――だが、彼にとっては好機だった。目の前の小僧は、ただの一刀ですら防御に徹さざるを得ない相手。ならば、本気を出せば為す術などある筈もない。自分から望んで殴られたいと言っているのだから、大人気ないと責め立てる面倒な輩も口出しすることなどないだろう。
彼なりの慈悲に抑え込んできた暴威。それを遺憾なく振るえるとあれば、頭の悪い下等種族の誘いであっても応じない手はない。
「――テメェがいいってンなら遠慮はしねぇ。お望み通り寸刻みにぶった切ってやるよ」
腰の得物を新たに引き抜く。左右一対、二刀の構えとなったことで手数は単純に倍化した。
「行くぞクソガキ、言い出したからには容赦しねぇ!」
踏み込みとともに路面が軋む。繰り出された連戟が、続けざまに少年へと振り下ろされる。
が――彼の太刀筋はいずれも剣の腹に受け流された。
「まだだっ!」
切っ先を返しての横薙ぎ。
続けて回転を加えながらの二戟目、三戟目を押し出すも、間合いを離した少年をわずかに掠めるだけだった。
「クソがっ!」
さらに踏み込んでの剣戟すら、明らかに不利な短身の得物に弄ばれる。相変わらず仕掛けて来ないにもかかわらず、少年は余裕の動きで彼の攻撃を捌ききり、かわしきっていた。
「この、クソガキ、がっ!」
縦、横、袈裟に逆袈裟と乱雑な軌跡が宙を裂く。太刀筋をかわされ、あらぬ方へと弾かれる度に剣筋には一層の怒気がこもり、振り回す刃の唸りは一段と大きさを増していく。
ありえない。
人間風情にこうも軽々とあしらわれるなど、上位種族たる青年にとってはありえる筈のない状況だった。いや、仮にそれ以外の種族が相手だったとしても、これほど翻弄され、愚弄されることなどあってはならない。
何よりも下賎で貧弱な種族、それも子供を相手取っておいていいように振り回されるなど――。
「がああアアア゛ア゛ッ!!!!」
本能的な怒りに達した瞬間、彼の意識から一切の遠慮が失われた。
もはや外面の取り繕いなどいらない。目の前の敵を磨り潰すためには不用だ。観衆から悲鳴が上がるのも構わず、彼は本来の異形へと変貌を遂げた。
口から飛び出した牙とこめかみを突き破った角で怪物の形相と化した顔。
筋肉がひときわ隆起し、上半身を覆っていた衣類は圧に耐え切れず四方に裂ける。
肉に包まれた骨が肩先を大きく突き破ると、新たな一対の腕となって残りの剣を掴み取った。
「ブチ殺す……! 人間風情は……殺すッ!!」
四腕の鬼人とでもいうべき獰猛な姿へと変化し、彼は地響きのような咆哮を上げた。
ボロ切れと化した靴を引きちぎり、踏み締めた足が衝撃を発するほどの膂力を持って巨体を押し出す。先ほどとは比べ物にならない速度で、鬼は少年目掛けて突進をかけた。
「っ――――!」
防御を固めてなお、受けきれない剣圧を伴った連戟が少年の体を大きく押し飛ばす。後方に跳ね飛ばされながらも、彼は両脚をばねに着地を決めた。
人の域から外れきった剛力の刃。
技と呼べないほどに乱雑だが、他方、技ではいなしようのない暴威。
殺意に満ちたその剣に、真っ向から勝負を挑むなど到底できたものではない。
今少年の眼前に立つのは、正真正銘、殺戮を撒く異種の化け物だった。
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛――――ッ!!!!」
もはや人語ですらない吠え声を響かせながら、異形の鬼人は一息に射程を詰めた。
反応の暇すら与えず二刀が退路を断ち、残りの二刀が潰し斬るべく少年目掛けて振り下ろされる。破壊の一撃によって叩き割られた地面は粉砕し、濃い土煙となって結界内部を覆い尽くした。
「ああ、そんな――っ!」
「こいつはひでぇ……」
破滅的な一場面を目の当たりにした観衆から悲鳴が上がり、ため息がこぼれる。
闘戯につきものとはいえ、助かりようもない無残な状況を前に、思わず目を覆う者も少なくはなかった。
余波で吹き飛ばされたのか、端切れと化した少年の帽子が空を舞い落ちていく。肝心の本体はといえば、煙幕の中に隠れたまま、完全に沈黙を決めていた。
「フゥー、グウ――――ォ」
衝撃と凶刃が相手の身を砕ききったと確信したのか、鬼は息を吐いて手先を緩める。
倒れたのであれば、彼を封じ込めている結界もじきに解ける筈だ。彼は本能に染まっていた意識を理性の側に振り戻すため、牙の並ぶ口から深く息を――。
「なるほどね、確かに勝負はできなさそうだ」
――吸い込みかけたまま、動きが止まった。
土煙の晴れた戦場、確かに仕留めた筈の少年が、ほぼ無傷のまま目の前にいる。幻でもまやかしでもなく、実体そのものがこちらを見据えている。
その事実を視覚で捉えた瞬間、鬼人の自信に満ちた意識が揺らいだ。
ありえない。
信じられない。
こんな状況起こりえる筈がない。
思考が叫びを上げる。戸惑いに体を震わせながら、彼は問いただした。
「なンでだ。なンでやった筈のテメェが――!」
「どんな強力な攻撃も当たらなければ意味はない。ただ単純に、アンタが外しただけだよ」
立ちふさがる少年は淡々と応じる。その体に、帽子を吹き飛ばされ、衣類を浅く裂かれた以外の損害はまったく見受けられない。
一方、着衣に覆い隠していた部位が露わになったことで、彼の本性を示すものもまた露呈していた。
黒髪から突き出した、ネコ科の獣を思わせる大きい耳。同様の長く獣然とした尾が後腰から伸び、意思を持って揺れている。
『獣人』というよりは、人間に獣の形質を無理矢理継ぎ足したような、どこか歪な印象を抱かせる姿。その在り様を見たことで、鬼人は人外を相手取っていた事実をようやく把握した。
「テメェ……キメラか! 人間風情に化けるたあいい度胸じゃねぇか!」
「少なくとも、アンタみたく振舞うためにはやってないよ。隠した方が話を通しやすいだけだ」
そう言って、彼は短剣を逆手に構えた。
「いい加減長引かせるのも癪だ。終わりにしよう」
「成り損ないが、いい気になってンじゃねぇぞ!」
煽られた鬼人が青筋の浮き立った形相で吠える。彼は、四振りの剣をそれぞれ乱暴に引き抜くなり、アスファルトを砕くほどの勢いで右足を踏み出した。
衝撃音と同時、詰まった距離からの剣戟が殺到する。
「死ねやァ゛――――!」
振り下ろされた剛腕は、空気の唸りとともに破壊の衝撃を撒き散らした。
だが先ほどとは違い、渾身の一撃は少年を捉えるに至らない。続けざまに振り回され、突き出される刃もまた同じ。見透かされたように一瞬で退いた後を、遅れて到達するばかりだった。
「威力は高く、速度も決して劣っていない。まともに受ければ一撃の重さが技量を強引に磨り潰す」
軽々と回避を続けながら、少年は相手の太刀の癖を指摘する。
「だけど、その分精度は悪い。数で補っても、腕ひとつが繰り出す攻撃の隙は埋めきれない」
「ゴチャゴチャとうるせぇ!」
剣筋に一層の怒気が籠もる。四手の連戟も、左右から挟み込むべく繰り出された一撃をもかわされたことで、鬼人の顔には明らかな焦燥の色が滲んでいた。
「クソが……。クソがクソがクソがぁっ!!」
自棄気味の横薙ぎを宙返りで避けた少年は、体力を消耗し息を荒げている相手を今一度見据えた。
「今度はこっちの番だね」
「なにを――」
鬼人が訊き返すよりも早く、少年は懐へとまっすぐ飛び込む。
手の中にあるのは、刃渡りこそ短いが、狙って突き立てれば急所に届きうる剣。突撃の勢いも重ねた一刀は、十分に必殺となりうる威力が籠もっている。本能的な危機感が体を衝き動かし、鬼人の両前腕は自然と前方に翳された。
だが、庇うよりも先に刃は届いていた。交差に動く腕の隙間を掻い潜り、逆手の剣は首筋に深く食い込んでいく。
「言っただろう、戦いにならないって」
少年の言葉を最期に、鬼人の意識は闇へと沈んだ。
極太の骨すらも斬り割られたその首は、噴き上がった血飛沫を浴びながらゆっくりと落ちていく。少年が着地したと同時、鬼の巨体は胴を仰け反らせながら地面にくずおれた。
※キメラ 人間の派生種族。厳密には、後天的な要因によって動植物の形質を得た元人間のことを指す。