1.
『この地球上で、アルバトロス島ほどに騒がしく平和な場所はない』
――とある旅行者の手記より――
昼下がり。シティの目抜き通りであるオレンジストリートは、今日も行き交う大勢の人々でごった返していた。
照りつける太陽とアスファルトの熱気に蒸された肌を汗が伝い、枯れた喉をうるおすアイスドリンクのボトルも大粒の水滴に全身を濡らしている。
ここアルバトロスは、太平洋の南半球側、低めの緯度帯に位置する大きな火山島だ。亜熱帯特有のまとわりつくような暑さに苛まれ、ひさしひとつない歩道を行く人々の目線は涼気に包まれたカフェやバーの店先辺りを揺れ泳いでいた。
そんな官公庁街の端――片側三車線の産業道路と接する角地に建つ『セントバーディカフェ』。周辺で働く職員行き着けのオアシスは、昼の休憩ついでに涼風に浸りたい人々で混み合っていた。
ホールの壁上辺に据えつけられた大型クーラーは爽やかな風を吐き出し、シーリングファンの攪拌によって心地の良い冷たさが店内全体を満たす。外の灼熱地獄とガラス一枚隔てた楽園の中で、客たちは飲食をゆったりとした気分で楽しんでいた。
カウンターの一席に腰掛けた少年もまた、涼みついでの遅い昼食にありついている所だった。
屋内にもかかわらず目深に帽子を被ったまま、彼は厚手のベーコンが挟まったホットサンドイッチを口いっぱいに頬張る。後腰に吊り提げているものでもあるのか、咀嚼の度に羽織った上着の長裾が上機嫌にはためいていた。
「ラジー、今日も来たのね」
カウンターを挟んで薄紅色のエプロンドレスを着たウェイトレスが声をかける。アイボリーカラーの癖のついた髪からは、明らかに人外とわかる巻き角と長く尖った耳が飛び出していた。
「ふがふが――んんっ。食べてる最中に話しかけないでよ」
ラジーと呼びかけられた少年は、口の中のサンドイッチを飲み込むなり答える。
微妙に流し切れなかったらしく、彼は皿の傍にあったコップを取ると冷えたミルクを喉に通した。
その姿を見て、ウェイトレスは口端を上げて笑う。
「もう焦っちゃって、ラジーはせっかちさんね」
「君が急かすからだろ、デネボラ。ボクにはボクなりのリズムがあるんだから……」
ラジーは呆れ気味にぼやいた。彼女との付き合いこそ長いものの、自分本位なタイミングで繰り出される言動には未だについていけない時がある。もちろん、彼女自身に悪気があるわけではないのだが。
「まあ、カウスほどぶっ飛んだ頭じゃないだけマシかな」
「炎天下の街中を甲冑姿で歩くよりはまともってこと?」
「うん」
デネボラの言葉に頷きつつ、彼はサンドイッチに噛り付く。美味しそうに味わう姿を、デネボラは微笑を浮かべ眺めていた。
その時、通りの方がにわかに騒がしくなり出した。
どうやら店のすぐ前で揉めている人々がいるらしい。威圧的に怒鳴りつける声と、必死に懇願する声――二種類の男性の声音が窓越しに喧しく反響し、ホールに流れる音楽を遮った。
通りに面したテーブルだけでなく、奥で談笑していた客たちまでが、表の騒ぎを気にかけて窓側に顔を向け始める。ラジーとデネボラも、窓の外の椿事を気にして窓の外へと目をやった――。
「お願いですから返してください!」
嘆き混じりの声音を上げながら、ビジネススーツに身を包んだ男性が必死に両手を伸ばす。その手を払いのけた屈強な体格の青年は、意地悪げな表情で大声を張り上げた。
「あぁ、なんで返さなきゃならねえンだ? こいつは俺が拾った俺の持ち物だぜ」
「そのスーツケースは元から私のものです! 貴方が足を引っ掛けて転んだ時に手から離れただけで――」
「足を引っ掛けただぁ? デタラメ言ってンじゃねぇぞオッサンよぉ!」
青年の高圧的な物言いに、スーツ男は「ひっ」と小さく悲鳴を漏らす。それでも必死に食い下がるのは、相当大切なものを強奪されたからだろう。腰を引き気味にしながらも、彼は毅然と反論した。
「お願いします! その中の試作品がないと、三年がかりでセッティングした商談が台無しになってしまうんです!」
「知るかよ! こいつはオレのもんだって言ってンだろうが!!」
縋りつく男を黙らせようと、青年はより一層声を荒げる。
傍目に見てもスーツ男の言い分が正しいのは明白だったが、説得した程度で引き下がるほど潔い相手ではない。お互いの主張が一周して引けなくなったことで、二人の周囲には近寄りがたい緊張感が生まれていた。
カフェ店員のひとりが仲裁に警察を呼ぶべきか確認しかけた時だった。
「ったく、仕方ねぇな」
膠着した状況に耐えられなくなったのか、青年が口を開く。渋々ながらも言い分を認めてくれたと受け取ったスーツ男は、ひとりほっと胸を撫で下ろした。
――が。
「そうまでしつこく噛み付くンならよぉ、いっちょここでやり合って白黒決めっか?」
「や、やり合うって何を」
「この島で揉めた時にやることっつったら決まってンだろ?」
急な『提案』に動転する男を見るなり、青年はニヤリと口角を持ち上げる。野次馬たちが遠巻きに眺める中、彼は腰に提げた筒から納まっていたものを引き抜いた。
両側に刃を入れた肉厚の直剣。明らかに戦闘用とわかるそれを掴み、スーツ男に切っ先を向ける。
「闘戯だ。テメェとオレで、このスーツケースを賭けて殺り合うンだよ!」
「ひぃっ!?」
突然武器を突きつけられたことで、スーツ男の血色の悪そうな顔が一層青白くなる。後ずさりする彼に刃先をぎらつかせながら、青年は余裕ある口調で言葉を続けた。
「それができねぇってンならこいつは渡せねぇなあ? その懐に収まってる札束で買うなら別だけどよぉ」
こいつは相当高くつくぜ、と青年は下品に笑う。
無茶苦茶な要求にもかかわらず、不思議にもそれを咎めようとする者はいない。通りがかった警官ですら遠巻きに様子を見守っている有様だった。
「あらまあ。何だかとげとげしい雰囲気ね」
外の緊迫した空気とは真逆の暢気な口調でデネボラがぼやく。
この島で引ったくりや強請りのような悪事は珍しいことでもないが、こうして事を構える状況を目の当たりにするのは生まれて初めての経験だ。自分には直接の危害が及ばないのも相まって、彼女は興味深々といった調子で外を眺めていた。
とはいえ、店の前で繰り広げられる椿事が迷惑極まりないのは明白だった。
現に、騒ぎを眺める野次馬たちのせいで扉付近の歩道は塞がり、店に行きたがる人々を邪魔してしまっている。彼らを一刻も早く退かさなければ今日の売り上げが最悪に落ち込むのはことさら言うまでもないことだ。
「困ったわね……放っておくと長引きそうだわ」
デネボラはそう言いつつ、片頬に手を当てる。
この手のトラブルを後腐れなく対処できるのは、彼女が知る限り彼くらいしかいない。普段なら呼び出しても早々求めに応じないが、幸運にも今日に限っては店内で食事を摂っている最中だ。けれども――。
わずかに逡巡した後、彼女は意を決して向かい合う友人に声をかけた。
「ねえラジー。表の人だかりを捌いてくれないかしら。扉を塞いでいる人たちを追っ払うだけでいいの」
「いくら出すの?」
ラジーはサンドイッチを頬張る合間に訊き返した。
「そうねえ、50ドルではどうかしら?」
「安過ぎるね。アポイントなしなんだから盛ってくれないと割に合わない」
「70ドルとミルクフロートのサービスだったら?」
冗談半分にデネボラが告げると、彼の帽子と後腰の裾ががさりと蠢いた。
「80ドルで」
その一言を発するなり、ラジーは背高のカウンターチェアからフロアに着地する。指先に掴んでいた残りの一口を詰め込むなり、呑み込んでまっすぐ店のドアへと歩いていった。
「80ドルとミルクフロートね。あれこれ言う割には吊り上げないのが気になるけど――」
「人の商売とやり口には詮索しないことだよ」
そう言って、彼は店の扉に手をかけた。
※ 島の通貨はUSドル。
※ 闘戯……同意の元に行われる即席の決闘。島での闘いは、基本的にすべて闘戯である。