2回目の駿くんの誘い
朝からやけに外が騒がしい。カーテンから覗くと、電線がブンブン揺れている。まさしく春の嵐だ。こんな日は仕事に行くのがおっくうになる。
しかーし、今の私はちょっと違う。学生の頃のような淡いときめきが、心の中を支配し始めてるからだ。そう、バツイチ子持ちの彼のことで・・。
それにしてもすごい風だ!雨も少し混じっている。このまま風が吹きつづけたら、桜の花も散ってしまうかもしれない。
今度の日曜日、龍崎先生と駿君は延期になってた花見に出掛ける予定らしい。それまで花が満開であってくれればいいけど・・。
キイーン!!
今日もあの音で一日が始まる。そう、歯を削るときに出る、なんとも表現のしようがない不快な音。クリニックで働く私たちでさえ、あの音はなかなか慣れるものではない。
でもなかには、それが大好きで、ドクターになったなんて変わり者もいなくはないらしい。
レントゲンを撮るために椅子に座っているのは、23才、ロングヘアーのOLだ。
奥歯の痛みを訴えて、このクリニックに来院してきた。
耳には清楚なピアスがはまっていて、爪も綺麗に揃い、薄いマニキュアが塗ってある。
「じゃあこのまま動かないでくださいね。先生準備出来ました」
綺麗な女性は、歯並びまでキレイなのね!
「じゃあ虫歯のところを削りますね。その前に麻酔をします」
「えっ!注射ですか?」
「もしかして苦手?」
「はい、痛いのはちょっと・・」
「麻酔しない方が、削るときにもっと痛いですからね。注射はすぐ終わります。痛くないようにしますから」
「はあ・・」
「椅子を倒しますよ」
注射も好きな人はいないよね。あの針が、あの針が皮膚や歯茎を突き刺すのだから!まだ苦ーい薬の方がましだわ。
このOL も相当注射嫌いのようだ。それにしても龍崎先生、若い女性には優しいんだね。言葉が柔らかく親切!なんか焼きもち焼いちゃうな。
わたしは恐怖に顔がひきつる女性の瞳の上にタオルをのせた。緊張がこっちにまで伝わってきそう。
「注射の痛みを和やわらげるために、まず表面麻酔からしていきますね」
「はい」
「はい、口を開けて・・塗りますよ」
「・・・」
「よし、じゃあ麻酔しますね」
その言葉で瞳の上のタオルがわずかにふるえた。おそらくぎゅっと目をつぶったのだろう。
そしていよいよ注射針が、彼女の歯茎を突き刺した。
麻酔の液体が、ゆっくりと押し出されてゆく。
「はい、終了。痛かったですか?」
「いえ、そんなには」
「△△さん、注射痛くなかったでしょ」
「ああ、思ったよりは痛くなかったです」
「龍崎先生、腕いいんですよ!下手くそなドクターに当たっちゃったら、注射だってよけい痛いですからね」
「助かりました。でもこれから歯を削るんですよね。私そっちもすごく苦手で・・」
「あーあ、あのキーンって音でしょ」
「はい」
「じゃあ特別にいいものをお貸ししましょうか!?」
「いいもの?」
そして私はポケットからあるものを取り出した。
「はい!これよ」
「ん?・・耳栓・・ですか」
「そう」
「なるほど!」
私は△△さんに耳栓を手渡した。
「さあ、今のうちにはめちゃって」
「はい」
そこに先生がやって来た。
「じゃあ椅子を倒しますよ」
「・・・」
「始めますね。痛かったら手をあげて教えてください。はい、口を開けて」
「・・・」
「△△さん、始めますから口を開けてください」
「・・・」
何を言っても反応の無い△△さん。
不思議がる先生。
「ん?」
「先生、あれ!」
私は耳栓を指差した。
キーン・・。
午前の診療が終わり休憩室に行くと、受付の千穂ちゃんと駿くんが、仲よくご飯を食べているところだった。
「寿さん、お疲れさまです」
「お疲れさま」
「理沙お姉さんもこれからご飯?」
「うんそうだよ」
「ねえねえ、みてみて!千穂お姉さんのお弁当おいしそうでしょ!」
「えっ」
「いま卵焼きもらったんだけど、甘くておいしかったよ。パパのはしょっぱいんだ!」
「ふーん」
「卵焼きって、甘い派としょっぱい派で別れるんですよね!寿さんはどっち派ですか?」
「私はしょっぱい派かな」
って、私のお母さんの味がだけどね。
千穂ちゃんは、若いわりに毎日お弁当を作って持ってくる堅実派だ。男の人って、やっぱ料理の上手な女性の方がいいに決まってるよね。
こうなったら料理教室でも通ってみようかな・・。男を射止めるには、まず胃袋からって言うもんね!
「そういえば駿くん、入学式はいつなの?」
「今度の月曜日!」
「そっか。楽しみだね!」
「うん」
そうだ、龍崎先生も入学式に出席するのかな?
「ねえ、駿くん、パパも入学式に行くって言ってた?」
「まだわかんないって!お仕事がお休みが取れたら行くってさ」
「そうなんだ」
先生どうするつもりなんだろう・・。
「ねえ、お姉さん、この前動物園行けなかったでしょ」
「うん、お熱が出ちゃったんだよね」
「それでね、今度の日曜日に行くことになったんだけど・・」
「駿くん、パパと動物園に行くの!」
「うん」
「いいわねー!いっぱい動物さんがいるよ」
「知ってるよ。ライオンとかトラトとか、あと・・キリンにゾウだ」
「よく知ってるね」
「だって、ぼくもう1年生だもん!」
「そうだったね!じゃあ駿くんまたあとでね。寿さん、先に戻ってますね」
「うん」
ふうっ!危ない危ない。このまま駿くんが龍崎先生の話題を出したら、変な誤解を招くとこだったわ。
「それで、動物園がどうしたの?駿くん」
「・・お姉さん、一緒に行かないかなあと思って」
「駿くんは、お姉さんに一緒に行ってほしいの?」
「うん」
「いいよ!」
「えっ!ホント」
「うん!パパがいいって言ったらね」
「やったあー!!」
駿くんのとびきりの笑顔。これが子供なんだろうなあ。自分の気持ちを素直に表情や態度に出して。だからみんな、大人になんかなりたくないって思うんだよね!
コンコン
「はい」
「龍崎です」
「あっ!パパだ」
駿君は慌ててドアを開けた。
「ねえパパ、理沙お姉さんが動物園一緒に行ってくれるってさ!いいよね」
「えっ?」
「お邪魔でなかったら」
「邪魔なわけ無いですよ。大歓迎です!」
「よかった」
「でも、いいんですか?本当に」
「勿論です!でも桜は散っちゃってるかも知れないですね、今日の嵐で」
「そうですね。けどメインは動物園ですから」
「そうですね」
そして今日も私は指定席に座り、家までのドライブを3人で楽しんだ。
「じゃあ、また」
「はい、ありがとうございました」
「あの・・今日電話してもいいですか?」
「えっ!」
「迷惑かな」
「いえ・・待ってます!」
「よかった!」
「お姉さん、バイバーイ」
「バイバイ」
そして、私はいつものようにBMW が角を曲がるのを見送った。
先生から電話がくる!先生から電話がくる!・・。当然ながら私の気持ちは落ち着かない。
スマホの着信ボリュームを最大にしてみたり、バイブにしてみたり・・。
シャワー、今のうちに浴びちゃおうかな・・でもその間に電話が来たら最悪だし。
結局私は、ご飯も食べずシャワーも浴びず、テレビも音楽もつけず、ただひたすら先生からの電話を待っていた。
そして
ブーブー・ブーブー・・。スマホが震え出した。それは夜中の11時過ぎのこと。画面には龍崎先生の文字!
私は大きく深呼吸をしてから、通話ボタンを押した。
「もしもし・・」