駿君の誘い
♪ピッピッピッピッ・・。
午前6時45分、目覚まし時計が朝を告げている。しかし、今朝はなかなか布団か起き出せない。
結局7時15分、私は渋々ベッドを降りた。
シャワーを浴びる時間はないな。
目覚まし時計の時刻通り起きれたら、シャワーの時間もあったんだけど、さすがに今日は無理よね。
一方こちらの部屋では
♪ピッピッ・朝です!起きてください、ピッピッ・朝です!起きてください・・。
スマホからの厳しい言葉が響いている。
「うう・・頭が痛ーいっ」
「起きあがれなあーい。仕事いきたくなあーい」
そんな声を出しても誰も聞いてはくれないよね。
そしてこちらでは
「パパ、今日のお弁当なあーに?」
「今日は卵焼きとウインナーとエビフライ」
「わあーい」
「あとニンジンも入れとくからな。ちゃんと食べるんだぞ」
「わかってるよ」
「よし出掛けるか!今日は車がないから電車だ」
「やったあー!ぼく電車大好きだもんね」
「そうだったな」
午前7時45分、私は家を出て駅に向かう途中、コンビニに立ち寄りサンドイッチと紅茶を買い、そして板橋区役所前駅の階段を下りていった。今日は土曜日だ、昨日のように電車が混んでいることはないだろう。
私が乗り込むのはいつも一番最後尾の車両。その事に特に意味はないけど。
電車がホームに着きドアが開いた。乗り込むなり、聞き覚えのある声が私の名前を呼んでいる。
「理沙お姉さん!」
この声は駿君。
「駿君、どうしたの?」
「パパがもしかしたらお姉さんが乗ってくるかもって。だからぼく待ってたんだよ」
「でパパは?」
「あそこにいるよ」
駿君の指差す方に顔を向けると、ちょこんと挨拶をしてくれる龍崎先生の姿があった。
私は駿君と一緒に先生の方に歩み寄った。
「先生、おはようございます」
「おはようございます。もしやと思って、駿に見てきたらって言ったんですよ」
「そうでしたか」
「ホントは車通勤なんですけど」
「あっ、昨日は歓迎会でしたもんね」
「ええ」
「先生たちはどこの駅からですか?」
「志村坂上です」
「志村坂上!」
「はい」
「駿君、今日もリュックがパンパンだね。またお弁当入ってるの」
「うん、そうだよ。ニンジンもちゃんと食べなさいって!」
「そっかあ、偉いね」
15分程で水道橋の駅に到着。
私はルミのことが気になり、電車に乗る前メールを入れていた。
そして今、やっと返信が届いた。
「今電車に乗ったから、ギリギリ間に合いそう」
「ふうっ」
「どうかしたの?」
「ルミです。今電車に乗ったとこだそうです」
「そう、もしかして二日酔いかな」
「おそらく頭ガンガンだと思いますよ」
「それはお気の毒に」
「まあ自業自得ってとこですね」
「厳しいね」
「そうですか・・」
駅から5分程歩くと、私達の勤める歯科医院の入ったビルに着く。
「おはようございます」
受付の二人はすでに制服に着替えている。
「おはようございます。あっ駿君今日も来たのね!待ってたわよ」
瑞希ちゃんも千穂ちゃんも二人とも笑顔が素敵よね。あれも若さのなせるわざなのかしら。それとも育ちの良さ?
私は制服に着替え、女子休憩室でサンドイッチの袋を開けていた。
するとドアをノックする人が。
ルミかなぁと最初は思ったけど、外から聞こえてきたのは駿君の声だった。
「理沙お姉さん、入ってもいい」
「いいわよ!」
私は開けかけたサンドイッチをさりげなく袋に戻しながら
「駿君、朝ごはんは食べてきたの」
と一応聞いてみた。
「うん、パパと一緒に食べたよ」
「なに食べたの?」
「フレンチトースト」
「わぁーいいなあ。それもパパが作ってくれたの」
「うん。お姉さんサンドイッチ食べるんでしょ」
「えっ!」
バレてたか。
「ぼくに遠慮しないで食べていいよ」
「そう、ありがとう。じゃあお言葉に甘えて。そうだ駿君もひとつ食べない?」
「ぼくはいいよ。お姉さんの分が少なくなっちゃうでしょ」
「うん・・」
その頃ルミは、神保町の駅からダッシュの真っ最中だった。ダッシュといっても頭はガンガンだし、気持ちは悪いわでほとんど歩いてるのと変わらない。
そして、私がサンドイッチを食べ終わるのと同時に、休憩室のドアがノックもなくゆっくりと開いた。
「うえっ、気持ち悪っ!」
「ルミ、第一声がそれなの」
「仕方ないでしょ」
「そんなんで仕事になるのかしらね・・」
「ルミお姉さん、なんだか顔が怖い」
「ぷっ!」
駿君のその正直な一言、吹き出さずにはいられなかった。
「駿君、ルミお姉さん着替えるから、ちょっと外に出てようか」
「はあーい」
ドアを出ると歯科助手の栗山さんが、ちょうど休憩室に入ってくるところだった。
「山崎さんの具合はどう?さっきちらっと見かけたらなんだか青白い顔だったから」
「相当参ってるみたいですね」
「お姉さんの顔怖いよ!」
「えっ?!」
「子供の正直な感想です」
「納得です。それでこれを今買ってきてみたんだけど」
「ん?」
「二日酔いによく効くって評判のドリンク!」
「相変わらす優しいですね栗山さんは」
ホントに優しくて、気の効くおばさんだ。歯科助手のかがみってとこかしらね。これで元気を取り戻してくれるといいけどな。でないと私の仕事が2倍になっちゃうよ。
そんなこんなで、ルミも診察室で副院長の助手をやっている。
「山崎さん、右の口角をしっかり押さえて!」
「はい・・うえっ・・」
患者さんのではなく、慌てて自分の口を押さえるルミ。
「山崎さん大丈夫?」
「はい・・うえっ・・」
異変に気づいた患者の方も気がきではない。目隠しをされているのだからなおさらだ。
「あのー、ホントに大丈夫なんですか?なんかさっきから『うえっ、うえっ』って」
「心配要りませんよ。彼女昨日ちょっと飲みすぎちゃっただけですから」
「えっ!二日酔いですか」
「大丈夫、腕はいいですから」
「なんか不安だなあ」
そして私は、龍崎先生とコンビを組んだ。
患者は50才台のおしゃべりおばさん。左下の銀歯が取れちゃったとかで。
「あれ、先生新顔だね」
「はい、昨日からです」
「内科でも歯医者でも病院っていうと気が滅入るもんだけど、先生みたいにいい男がいると思うと、なんかこう病院に来るのが楽しくなるね」
「それはどうも。ところで取れた銀歯はどうしました?」
「それがさあ、食べちゃったみたいなのよね」
「食べちゃった!?」
「うん。でもそのうちお尻から出てくるでしょう」
「それはそうですけど。万が一お腹がいたくなったら病院に行ってくださいよ」
おばちゃん、銀歯を食べたかあ。無事に胃から腸をぬけて、外に出てきてくれるといいですね。
今日の診療もなんとか終り
「お疲れさまでした。今日は忙しかったですね」
「土曜は学生さんとかサラリーマンの予約が多いからね」
「明日は休診日ですけど副委員長はゴルフかなにかですか?」
「うん、今の季節が一番いいんだよ。先週まではまだまだ風が冷たかったからね。龍崎先生は?」
「私は子供と花見にでも行こうと思ってます」
「そりゃあいい!出勤の時に見かける桜並木も満開だ」
「ええ」
「ルミ、さっさと後片付けして帰るわよ」
「うん」
「今日はお互いゆっくり休みましょうね」
「そうね」
「駿、お待たせ!帰るぞ」
「はーい」
「忘れ物はないか」
「うん、大丈夫」
私とルミはクリニックを出るとすぐに左右に別れる。
「じゃあまたね」
「うん、お疲れー」
私は水道橋駅、ルミは神保町駅を利用してるからだ。
私が駅に向かって歩いていると
プップッ
後ろから小さくクラクションを鳴らす車があった。振り向くと
「理沙お姉さん!」
駿君。龍崎先生。
「送りますよ」
「いいんですか」
「どうぞ!早く乗って」
「お姉さん、早く早く」
「うん」
私はちょっと周りを気にしながら、龍崎先生の車に乗り込んだ。
「すみません」
「いえ、どうせ同じ方向ですから」
「ねえねえお姉さん、パパの車カッコいいでしょ!BMW だよ」
「中古ですけどね」
「でもすごくカッコいいね!」
「でしょう!」
しばらく走ると左手奥に桜並木が見えてきた。
「桜満開ですね」
「ええ、実は明日、駿と二人で花見に行こうと思ってるんです」
「あそこの桜ですか」
「いえ、どうせだから上野公園まで行ってみようかと」
「良かったね駿君、パパとお出掛け出来て」
「動物園にも行くんだよ!ねパパ」
「うん、でも人でいっぱいだろうな」
「そうですね。春休みだから」
「理沙お姉さん」
「ん?」
「お姉さんも一緒にいこうよ!明日」
「えっ?」
「こら駿、お姉さんは他に用事があるの」
「そうなのお姉さん?」
「いや、別に・・」
「じゃあ決まりね!パパいいでしょ」
「無理にお誘いしたらダメだよ」
「ちぇ!つまんないの」
駿君、それはさすがに無理だよ。一緒に行ってワイワイ騒いでみたいけど、誰かに見られたりしたらそれこそ大変だもの。それに、大人の男と女だよ、その延長線上に何があるかわかんないし・・。
「パパ、明日何時の電車でいくんだっけ?」
「午前9時」
「お姉さん聞こえた?」
「う・・うん、午前9時」
「待ってるからね!」
「駿君・・」
「寿さん、気にしないでください。さあ、着きましたよ」
「はい、ありがとうございました」
「それじゃ」
「お姉さんバイバイ」
「バイバイ」
そしてBMW は角を曲がり見えなくなった。
明日かあ。特になんの用事もないし、家でゴロゴロしてるだけなんだろうなあ。
明日午前9時、私はどうしているんだろう・・。