蝉の声
夏の十六時四十二分に飛んでいる蝶は、蛾であろうか。蝶と蛾は、夜行性か否かだけで決まるのだと昔どこかで聞いた。橙色と白、そして黒い斑点の散った二対の翅。この電車の外にいるあれは、どっちだろう。そんなことを考えている内に発車のベルが鳴る。
車窓の縁にひらひらと揺れていた薄い翅の主は、ゆっくりと動き出した電車に驚き、飛び去った。やがて、後方へと小さくなる。僕は、再び一人になった。線路の脇には、赤紫だった紫陽花が枯れてくったりと頭を垂れ、静かにその生を終えている。
自分の中身がきちんと男性であるか実は女性であるのか。
考えようとすればするほど、僕の思考は濃い霧に埋もれてしまう。はっきりと答えを知った瞬間に、何かとんでもない痛みを負いそうで、怖い。あと数日で僕は二十七歳になる。ここ十五年ほど、ずっとそんな調子である。
女性の格好がしたいとは思わない。だが、女性の細くて柔らかな腰を抱きたいと思ったことはない。男性ならではの遊びに加わりたいとは思わない。だが、男性の厚い胸板に抱かれたいとも思わない。
恋愛対象としては、どうなのだろうか。僕の初恋は、小学三年生の時。華奢で無口で、いつも窓辺でぼんやりしているショートカットの女の子が大好きだった。触ったら壊れてしまいそうな雰囲気が、美しいと思った。声をかけるでもなく、僕は彼女の長い睫毛が静かに上下するのに見惚れていた。今だって、彼女の横顔ははっきりと思い出すことが出来る。思い出す度、清廉な彼女の髪の一本一本までが甘い香りがしそうな気がする。彼女は、小さくてもきっぱりと美しいスズランの一房のような人だった。
しかし、僕の今までの人生の中で一番愛しいと思えた人は、少し年上の男性だった。彼は大学の先輩で、家が近いから、と、何かと僕を気にかけてくれる快活なスポーツマン。二歳違いの彼の隣で馬鹿な話をして笑っている時が、僕は何よりも幸せだった。大きな口を開けて笑ったり、何の躊躇いもなくひょいっと僕の好きなものを手渡してくれる。爽やかで優しくて、いつだってもぎたての夏みかんのような人だった。
僕は、両親にとってはごく普通の長男だった。要領の良い弟にとっては、都合よく使える兄だったと思う。つい数時間前間では、女性の恋人もいた。彼女は職場の後輩で、もう付き合って二年になるだろうか。
僕の抱いていた底無しの恐怖、そして違和感。それを家族も彼女もきっと理解できないだろう。いや、僕自身がそれを口に出したことも素振りで示したこともないのだから、理解どころか発見すらできないに違いない。あの子はどうしたのかしら、あの人は何故私と別れたのかしらと、二週間くらいは悩んでくれるかもしれない。
両親は、決して悪い大人ではなかった。共働きながらも精一杯家庭を整え、息子二人を大学まで出し、僕はおかげであまり『足りない』という思いをしたことがない。野球中継やテレビドラマを娯楽にする、ごくごく普通の親だったと思う。参観日や季節の行事ごとにもよく来てくれていた。
ただ、二人とも少し、精神的に粗雑ではあった。他人の気持ちを軽んじるところがあったし、自分と異質な者に対する理解は皆無に等しい。くだらないゴシップや偏見で他人に冷たくしたり、子供を意のままに動かせないと途端に不機嫌になる。多忙を理由にすればいくらでも正当化できそうであるが、とにかく彼らは自分たちに理解できる世界だけを大切にしていた。
そんな中で、当然、僕が自分に関する恐怖を表に出すことはなかった。力の無い子供が親に手放されれば、生きてはいけない。なるべく二人を怒らせないよう、できれば褒めてもらえるよう、進学して家を出るまで努めて従順であり続けた。就職した今とて、昨日まで毎週実家への電話は欠かさなかった。
恋人であった彼女もまた、良い人だ。空気を読んで流行りに乗って、よく泣いてよく笑う人。いつだってきちんとつけまつげを忘れない、なのに財務諸表の読み方がいつまで経っても覚えられない、かわいい人だ。映画館では居眠り、レストランで舌なめずり、安いプレゼントで泣き出したりする。自分にはない人間的な魅力。その抜けたような彼女の持つ魅力が、僕にはとても眩しかったのだ。
彼女に別れを伝えた時、大きく見開かれた目にみるみる涙が溜まって溢れていったのを、一人で電車に揺られている今でもすごく申し訳なく思う。涙はばさばさとした人工的な睫毛に当たって砕けて、彼女は悲鳴のような恨み言を零した。僕はそれを聞かないように早足でアパートから駆け出していた。彼女の部屋のテーブルに残した預金通帳とカードと暗証番号のメモは、我ながら最低な贈り物だと思う。僕が今まで貯めた二百万円で、彼女に何をどうしてほしいというのか。ただ、自己満足の罪滅ぼしに過ぎない。
実は、僕はそもそもスマートフォンで縛り付けられて休日を全て捧げあうような恋愛は嫌いだった。彼女のことはかわいいと思っていたけれど、スズランの初恋のような静謐とした感情を惹起されたことはなかった。夏みかんの片恋のような、深く脳に染み渡るような幸福感に浸ったこともない。ただなんとなく、仕事の打ち上げで一般的な「いいカンジ」になったから恋人として暮らしていたのだ。
彼女はいい人だけれど、僕とは歩くペースも見たい景色も違っていた。仕方がないのかもしれない。彼女は平成生まれの無邪気な女性。皆が行ったというテーマパークなら行きたい、皆がやっているというゲームならやってみたい、皆が恋愛結婚がいいというならそうしたい。そう思うことに、何の罪もないのだ。
しかし、僕がこれから一生それに耐えられるか。それが問題。幾晩も考えたけれど、彼女と暮らし子供を育て、夫や父としての役割を自分がきちんとやり遂げられるという結論には至らなかった。僕は、そもそも、普通の男性としての自分がよく分からないのだから。
彼女も僕の両親も、それを知らない。皆、僕を普通の男性の一人として認識していて、僕が自身の中身について恐怖に脅えているとは思っていない。だから、そろそろ具体的に挨拶周りのことを考えなくちゃなと父は笑い、二世帯住宅もいいわねえと母はパンフレットをめくり、式を挙げるなら三月がいいなと彼女は頬を染めたのだ。
僕は、よく夢を見る。自分が奇形の化け物になっている夢だ。性器はおろか、手足や頭部すらも形を成さずにヘドロの塊のように僕は存在している。目は見えているし耳も聞こえているのだが、果たして目や耳という器官があるのかすらもあやしい。生き物というよりも植物の成れの果てのような、そういう存在になっているのだ。
夢の中はいつもと変わらない街があって、でもずっと夜が来ない。そして何よりも人間がいない。たまに犬や猫とすれ違って、悪戯に噛まれたりする。動くとたまに僕は千切れたりして、それでも何かから逃げるように這い回る。
ぶよぶよとした気持ちの悪さの中で、僕は目が覚める。布団の中で思わず自分の手足を動かしてみては、意味のない安堵に包まれる。大概もう外は明けようとしていて、目覚まし時計が鳴るまでの数十分を茫漠として過ごすのだ。恐怖を認識した子供の頃から、こんな夢を見続けている。
電車がゆっくりと速度を落として、駅に停車する準備を始める。携帯電話も腕時計も無いので正確には分からないが、さっきの駅からは十分程度走っただろうか。その間に車窓に映るのはひたすら無垢な色々の緑だった。すくすくと伸びて風に揺れる稲、手を広げているような木々の群。七月の夕陽の中で、緑たちは楽しそうに煌いている。
ききい、と細い金属音を響かせて、僕の乗った電車は完全に停まった。先程停まった駅と同じく、ここも無人駅らしい。二つ折れの老人が、二人寄り添って降りた。ワンマンの車掌が指差し確認をして、発車のベルが鳴る。次の駅名のアナウンスがぼそぼそと流れたが、聞いたことの無い地名ではっきり聞き取れなかった。その内に電車はまた速度を取り戻して走り出す。あまり上質ではなさそうな冷房の風が車内に吹いた。
僕は、この路線に乗るのは初めてだ。左手の中で丸まってしまった切符は終着駅の名前が印刷されている。通勤で使ういつものあの都会の駅から、私鉄を跨いでやって来たこの東の町は所謂寂れた田舎だ。この路線に乗り込んだときから幾つも駅を過ぎたが、その半分ほどは無人駅だった。時折、制服姿の学生と老人が乗り降りする。それも、無愛想に固い席が備え付けられた車内を満たすような数ではない。一つの車両に、五人か六人。それが二両繋がって、青々とした水田の間をがたんごとんと無口に走っていくのだ。
もう大分終着駅へ近付いたからだろうか。車内は、僕と中学生らしい女の子一人だけになった。前の車両にはもっと人がいるのかもしれない。しかし、大勢の気配は無かった。
今日は平日だったのだと、中学生の制服を見て思い出す。最近では珍しいセーラーの白い夏服は、それだけでなんとなく涼を感じさせる。日に焼けた頬に頭の高い位置で一つに纏められた黒く長い髪が似合っていて、健康的だ。そういう趣味の人間でなくても、どこか、何とはなしに好ましいものだろう。
しかし、今の僕にはその中学生の女の子すらも今朝別れてきた恋人を連想させた。彼女が一心不乱に弄っているスマートフォンが、どうしても今朝のあの緊張を思い出させるのだ。
「今までありがとう」
そう言った僕のことを直視するまで、彼女の視線はスマートフォンの液晶画面に釘付けだった。ラインをチェックしないと不安だ、ツイッターで情報を見ないと、と言いながら、彼女は一日中電子機器に入り浸っている。最近は職場でも電車の中でも喫煙所でも、大体皆こういう姿勢。そうでない人は、新聞を開いて難しそうにしているか居眠りをしているか。つまり、彼女のしていることは、くだらなくも高尚でもなく、ごくごく普通のことなのだ。人の目を見ないで時間が過ぎるだけ。
僕は、最後の挨拶くらいは、きちんとしたかった。彼女がいつも出勤するのは朝の八時前。その前に言っておきたかったから、七時に彼女の部屋を訪ねた。夜に別れ話をすると、どうしても余計なものが絡んでしまう。これは経験則でもあった。
迎えてくれた彼女はメイクの途中で、いつものつけまつげが目立っていた。驚いただろうに、あまりうるさく言わないでくれた。忙しい時にごめん、と持ってきた通帳と諸々をテーブルの上に置く。彼女には見えないように、できるだけ静かに。
彼女は少し笑顔を見せてからコーヒーを勧めてくれた。同棲こそしていないものの、互いの部屋に泊まったことは何度もあるから、僕は冷蔵庫の中にアイスコーヒーの紙パックがあることを知っている。でも長居が出来ないからとそれをやんわり断って、メイクをしながらスマートフォンをタッチしている器用な彼女に一言だけ言った。
「今までありがとう」
これしか出てこなくて、彼女の見開かれた目は少ししか直視できなかった。でも、目を見なくてはいけない。思わず息をするのを忘れそうになる。自分が他人をこれほどにはっきりと意思して傷つけたことは今までない。加害者になる、その罪悪感は重く、心臓が胸から溶けて出てしまいそうな気持ちの悪さを感じた。
「どういうことなの」
彼女が言いたいことは、もっと沢山あっただろう。眉根を寄せて大きな涙の粒を瞳に湛えた彼女にもう一度ごめんと言って、僕は彼女の部屋を逃げるように後にした。ドアが軽やかに閉まる音。あとは、自分の靴の音。履き古したナイキは、全然軽くなかった。
その足で、いつもの駅へ向かう。朝の街をTシャツにジーンズ、スニーカーにぼさぼさの髪でふらふらと歩いている僕は、不審に見られていたかもしれない。本来なら自分もいつものスーツに革靴で会社に向かうべきところだった。
また電車が遅くなる。田園風景から林へと緩やかに移行する景色の中で、女子中学生は降りて行った。前の車両からも、学生服が数人まとまって降りていく。よく見れば空は山入端から橙に染まっていた。じわりじわりと、空は厳しい陽射しの手を緩めてきている。たなびいている雲は薄く、白桃を皮ごと潰したような不思議な色をしていた。
車内のアナウンスが、今度ははっきりと聞こえた。次が僕の終着駅なのだ。なんとなく、嬉しかった。
昨夜、実家には電話をしなかった。電話をして何とかなるものでもないし、両親が話を聞いてくれる気がしなかった。僕が僕の中身をどう思っているかなど、両親には明日の連続ドラマの続きよりも気になるものではないだろう。
新卒時代から長く暮らしたアパートの解約手続きをしないで出てきてしまった。いや、それどころか、荷物の整頓すら碌にしていない。急に主を失った家具家電のことを思うと、ちくりと胸が痛む。こういう時になって、後のことを弟に頼んでおけば良かったと初めて気がついた。だけどもう何ヶ月も連絡を取っていないし、弟はいつも社交的で忙しそうだ。頼んだところで無駄だったと思う。彼もまた、僕の中身に興味などないだろう。
携帯電話は、昨夜風呂に沈めてしまった。ついでに、と、パソコンもぼちゃんと放り込んだ。卒業文集や手紙の類も、小さな浴槽に泳がせた。あの部屋は暑いけれど、ああしておけば発火することもないだろうと考えたのだ。仕事の資料を放り込めなかった辺り、自分にはやはり度胸というものが備わっていないのだと思う。これは僕でなくても課の人間なら役に立つはずだからと言い訳をしながら、洗濯籠一杯にコピー用紙を詰めた。
それでも、禊の済んだような気持ちになれた。だから、少し眠った後すぐに、彼女に別れを言いに行けたのだ。
何度経験しても慣れない街の夏の暑さを引き摺って帰宅したあの日。習慣で点けたテレビの中で、知らない人たちが笑っていた。手を叩いて口を大きく開けて仰け反って。それが日本語なのか関西弁なのかネット用語なのか、分からないまま音は僕の身体を取り囲んで笑っていた。
その時、僕はもう自分が駄目だと分かったのだ。今まで自分の中で上手く閉じ込めていた恐怖が一気に溢れ出た。
自分は男だ。どうして先輩のことが愛しくて、忘れられないのか。付き合っている彼女はいい子だ。どうして結婚することにこんなに違和感を覚えるのだろう。家族はごく普通だ。どうして僕はいつも一人なのだろう。
どうして僕はこんなにも怖がりながら生きている?生きるために怖いのか、怖いために生きているのか。どうか誰も気付かないでくれ、こんな不安定な僕の恐怖に。
僕を包んだテレビの笑い声は、あっという間に生きてゆく力を喰らってしまった。
錆びた音と草いきれの中を、僕は一人ホームへと降りていた。しばらく留まっていた二両の電車はやがてゆっくりと終着駅へ向かって走っていった。
この駅は、もう駅舎すらも錆びれきっている。木製の屋根をくぐると、赤のペンキが剥げたベンチが一脚と、自動発券機、蜉蝣の墓場になった古い時刻表とアナログ時計が掲げてあるだけだった。
駅舎の中は死んだように無音だった。無人の出入り口でかろうじて細く息をしているらしい飲み物の自動販売機も、虫よりも密かに存在している。それを背に、僕は目の前に広がる林へと分け入った。鬱蒼と茂った樹木は時折かさかさと葉を揺らして僕のことをいぶかしんでいる。太陽はもう力を失っていて、木々の間から見える空色もアプリコット色に追いやられていた。もうすぐ、群青が夜を連れてくる。僕も、行かなくてはいけない。
闇雲に真っ直ぐ歩いている途中、腕を蚊に食われた。今はそれすらもあまり不快ではなく、どうせなら蚊の食料くらいくれてやるさという心持がした。辺りはぐんと暗くなって、視界も悪い。最初は見分けられていた木々の葉の色も今は全て同じ色に見える。正確には、夜が其処だけ一際濃い色に凝っているだけだ。それでも、僕の目的はここで何かを見つけることではないのだから構わなかった。
踏み込む度に草の青い汁の匂いがする。時折聞こえるミミズクの鳴き声は良い供だ。生に耐えられないほどの怖がりなのに、夜に呑込まれかけた森で一人歩いているのにはちっとも脅えていない自分が不思議だった。
あの時。テレビの中から自分を笑われた時。僕にはその向こうに沢山の人間が見えた。
実家の両親。弟。付き合っている彼女。級友。職場の同僚。担当教官。近所のおばさん。今まで僕が偽って生きた時間一緒に過ごした人が皆で僕を嘲笑ったのだ
頼むから止めてくれ。そのアブラゼミの合唱のような音を、止めてくれ。僕は分かっているんだ。僕は異常者なんだ。病気なんだ。性同一性障害とか同性愛とか、そういう枠にも入らないような出来損ないなのだ。誰からも保護されることの無い、僕は害虫だ。
それを隠していたのだ。皆と変わらない顔をして、ひっそりと息をしていた。なのに、あの時、初恋のスズランは、踏まれてしまった。片恋の夏みかんは、ぐしゃぐしゃに轢かれていた。
僕は、一年前、あの先輩が結婚するとメールをくれた時に死んでおくべきだった。あの時は、第一志望の大学に落ちた時よりも、実家の猫が死んだ時よりも、辛かった。結局仕事を言い訳にして式には出なかった。その日は会社を休んで、一人で布団に包まって泣いていた。どうしても涙が止まらなくて、全身が焼けて砕けたらこんな痛みなのだろうかと思った。
十五年前、あの子が転校して遠くの県へ行ってしまうと知った時に死んでおくべきだった。あの時は、ただ、あの子の小さな手をとって何か言いたかった。恋や愛にしたかったわけでもなく、妖精のような儚い彼女に触れてみたかった。これでもう二度と会うことは無いのだと、子供心に分かっていた。喉の奥から締め上げられるような悲しみで、僕の春は終わっていったのだ。
昨夜のことだった。
蝉が鳴いていた。テレビの笑い声の合間に。
じいじいと、どこから入ったのか、僕の部屋の玄関で。茹だる様な暑さを縫いとめていくように、蝉が鳴いた。僕を嘲笑うように。
僕は死ぬことにした。
いつの間にか森は濃く練られたインディゴに染まっている。どれぐらい歩いただろうか。もう来た道も分からなかった。振り向いても前を向いても、知らない森の中。怖くはなかった。ここで死んだほうが、今まで僕の中に澱のように溜まっていた恐怖に殺されるよりは楽なのだ。
夏の夜の匂いがこんなにも水っぽいのは、ここが森だからだろうか。長い間街で人工的な温度に慣らされた身体には不思議と優しい。全ての音が足元に眠り落ちているような夜。勿論暑さは感じるが、どこからか細く風が吹いている。それが頬や髪を撫でる度、僕も森の一部になっていく。
そうだ。このままどろどろの植物になってしまえばいい。この優しい森に漂う水分になるのだ。害虫だった僕も、この夜の森で静かに朽ちていけばきっと救われる。嘘と恐怖で埋め尽くされた脳を捨てて、木の養分になる。そうすればきっと、もうあの夢は見ない。僕は名実共に人間ではないものになれる。あれは、悪夢ではなく、予知夢だったかもしれない。
夜の森を歩きながら、初めて僕は快い気持ちを手に入れた。
じいー…
不意に頭上から機械の起動音のような音が降ってきた。
じい、じい
どこから聞こえるのだろう。首を捻って見上げてみても、そこはもう木と夜の境の無い夜空があるだけだ。
蝉はあまり暑い日中は鳴かない。だから、夜中に鳴くことだってあるだろう。さしておかしいことではない。
ジージー
じーじーじー
じいいい
ジイジイ
じいいいいいい
少し、吸う息が苦しくなる。音が確実に大きくなって、範囲も広がっているのだ。自分の吸える酸素がどんどん蝉の声に浸食される。急に、冷たい汗が背中を流れた。
じんじんじんじん
怖い。汗が止まらない。それが、じっとりと冷たい。見えない声が高く低く響く度に、心臓が競り上がってくるような感覚を覚える。口内から内臓まで、不安が染み渡っていく。脚が動かない。聴きたくないのに、耳を塞ぐ手すら動かない。
じゅわじゅわじゅわじゅわ
じじじじじじ
じゅわじゅわじゅわじゅわ
それは頭上だけに止まらず、僕の周りの空間全てから響いてくる。そんなことがあるはずないのに、足元に埋まっている幼虫までが鳴いている。そう思えるほど、今や森の中は蝉の声で埋め尽くされていた。
じんじんじん
ジイジジジジジ
じゅわジュワじゅわジュワ
怖い。怖い。怖くて、動けない。
じじじじじじじ
笑われている。眼に見えないものが、大勢で、全員で、全方向から、僕のことを笑っている。嘲笑のシャワーが森に木霊して僕を、僕を。
じじじじじじじじじじじじ
押し潰す。
ここは、もう、僕のことを受け入れてくれる森ではない。僕を、僕を。
じんじんじんじいじいじい
じゅわじゅわじゅわじゅわ
街から逃げた。親から逃げた。彼女から逃げた。仕事から逃げた。生活から逃げた。僕は分からない僕から逃げた。あのテレビの声から逃げた。逃げて、逃げたのに。
ドーム上に犇めく蝉の声が、鼓膜を破って心臓を揉むように僕に刺さってくる。
一瞬、目の前が明るくなった。真昼の太陽をそのままぶつけられた様な閃光が広がって、すぐに消えて、僕は真っ暗の中に呑み込まれていった。
夢を見た。子供の僕は夜の森に座り込んで、隣にはあの子がいる。静まり返った濃い緑の中で、あの子は微かに笑っていた。よく着ていた真っ白の半袖ワンピース。あの子が転校したのは春先の肌寒い時だったのに、夢の中で会った彼女はその半袖のワンピースで僕の隣に座っていた。やっぱり、清らかな甘い匂いがした。
いつも見ていた細い手首を掴む。瞬間、それは先輩の大きな手になって、僕は隣へと顔を跳ね上げた。さっきまで小さなあの子だった顔は逞しい先輩のそれになっていた。記憶にある中でも一番優しい顔で僕を見ている。濁って僕に纏わりつく緑の闇を、爽やかな柑橘の匂いが払う。
「あ、」
あの子に言いたかった言葉も、先輩に言えなかった言葉も、飲み込んだ。もうそれを口にしても意味がなかった。握った手はいつしか大人の僕自身のものになっていた。
僕は夢の中でひとりの人間だった。得体の知れない悪寒も漠然とした恐怖もない。ただ、そこには僕の姿をした僕がいて、心の中にずっと住み着いていた僕の手をしっかりと握っていた。ばらばらに漂っていた脳と体と神経がぴたりと収まるべきところへ収っていく。蝉の声に気を失う前の湿った平穏とは違う、からからに乾いた静けさがそこにあった。
「さようなら」
僕が握っていた手はやがて消えていた。濃い緑の闇も消えていた。胸にあれだけ重く圧し掛かっていた恐怖は、ころりと僕から剥がれて死んでしまったようだった。
僕は、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
大分眠っていたのだろうか。周りはすっかり夜が解けて白い朝靄に包まれている。伏していた顔に付いた露を払って、ゆっくりと上半身を起こした。吸い込んだ空気から、草のしとやかな水分が身体に染み込んでいく。丸まっていた手足を出来るだけ大きく伸ばすと、無理な体勢で地面に長く寝ていたことを思い知らされた。
肩や膝の関節が、じんじんと痛い。首も寝違えているようだ。腕も脚も、痺れたように重い。立ち上がると少し頭からふらついた。水分不足、空腹、暑さで消耗している体力。沢山の問題はあるが、とにかく僕は生きていた。
来た時はとても距離があったように思えたが、実は僕が止まった場所は駅からさほど離れていなかった。頼りない足取りでも、朝日が昇りきる前に古い駅舎に戻って来れたのだ。虫に奉られている自動販売機で缶の麦茶を買う。ジーンズの前ポケットには、丁度前日の乗車券の釣銭が百二十円。がこんと鈍い音がして、思ったよりも冷えた缶が出てきた。
人工的な水の味が喉を通る。缶の中身を一気に飲み干す。空になった缶をくず入れに入れて、大きく息を吐いた。見上げた朝の空は、今日も晴れそうだ。
時刻表と掛け時計によると、この無人駅を通る始発まではあと二十分。もう使わないと思っていた財布を尻ポケットから取り出し、駅舎に備え付けられた自動発券機で乗車券を買う。
この駅のホームは相変わらず無表情だ。来た時と変わらない。僕だけが、昨夜と変わっていた。
まず、自分の部屋に帰ろう。好物を食べよう。帰り着いたらもう夕方だろうから、途中のコンビニで買えばいい。財布の中にはまだ二千円と少しある。
浴槽を空にして、ゆっくり湯に浸かろう。草の汁と土で汚れた体を洗って、爪も切ろう。壊れた物も要らない物も、あとで捨てに行けばいい。どうせ、これからの僕にはどれも必要ないのだろうから。
二日の無断欠勤は、仕事に大いに響くだろう。もしかしたら、クビかもしれない。そうだとしたら、新しい職を探すことになる。運良くクビにならなくとも、重い叱責は免れない。確実に減給、降格だ。
そして今の僕にはあまり貯金がない。無一文とまではいかなくとも、今までと同じようなそれなりの生活は出来ない。最低限の食物を摂り、最低限の清潔を保つ。
それでいい。
それでいいのだ。
一晩で僕は結構なものを手放した。仕事、恋人、信用、財産、良い長男の立場。自分の中身を偽って苦しい夢を引き摺って、今まで必死に手に握っていた殻だ。その下には、ただただ不確定な恐怖があった。
一晩で、大切なものを手に入れた。殻の無い、透明で弱弱しい僕の中身。無人駅のホームで朝焼けに照らされる、縮こまった足・触角・翅。見えないけれどずっと僕の中にあったもの。隠さずとも曝さずとも、僕が僕のままで生きていくために持つべきだったものだ。
遠くの方で電車の音がする。
もう、蝉の声はしなかった。
了