126.じいや…っ
何だか書いている内に、大公さんがどんどん頭のおかしいキャラに…。
私の顔を見て暫しポカンとした後。
一頻り道端でお爺さんと騒ぎ立てていたお兄さん。
だけどそんな彼はいま、ハッとした顔で立ち上がりました。
それはそれは、とても素晴らしく腰の軽い動作でしたが…
がんっ
「おぅふっ!!」
お兄さんの膝に頭を乗せていたお爺さん。
お兄さんが立ち上がった結果、必然的に後頭部を地面に打ち付ける羽目に…
うわ、痛そう…。
でもお兄さんは、それまで絶叫するほど心配していたお爺さんの惨状にも気付かないご様子なんですが。
いや、あの、お爺さん、後頭部抱えてのたうち回っちゃってるんですけど。
しかも。
ぶぎゅるっ
「ごはっ!?」
茫然とした顔つきで、こちらに足を踏み出したお兄さん。
その足がまともに地面で転がりまくっていたお爺さんの背中を踏んでますけど…
背中を踏んであげるには、お兄さんはちょっと育ち過ぎだと思われますが。
ねえ、それは気のせいですか?
お兄さんの上背は、百八十㎝に届くほど。
お爺さん、背骨折れないかな…。
お兄さんに踏みつけられて、ああ…
昆虫の標本のようにお爺さんが動かなくなっちゃってるんですけど。
でもそんなお爺さんの身に起きた惨劇を気にすることもなく。
ただただ何故か、私の顔を見つめてくるお兄さん。
こんな凝視されて、私は一体どうすれば…
頭の中に、選択肢が瞬時に展開されました。
1.戦う
2.倒す
3.毒霧攻撃
4.逃げる
5.脅す
6.お爺さんにトドメを刺す
さあ、どーれだ?
言葉にできない、緊張感。
張りつめたそれを破壊する使者は、遥か後方から私を追ってやって来ました。
「りゃ、リャン姉さんいたー!」
「急ぎ過ぎだ、リャン姉! 置いていくなんて酷いだろ!」
ぱたぱたと。
背の竜翼を動かし、飛んでくる少年少女。
竜の膂力で、リリフの腕に抱えられた天使が優雅に手を振っています。
「リャン姉様ぁー。せっちゃんですのー」
あれこそまさに、マジ天使。
本物の天使が降臨しましたよ!
さあ、よく見てください、お兄さん!
あの超絶美少女をしてこそ、天使と称するべきではないでしょうか!
そして、天使と共に魔王陛下や半魔少年も…。
「リアンカー? 先走るのは構わねーけど、慌て過ぎだろ」
「………ていうか、何この状況」
半眼でこちらを見るむぅちゃんの目は、露骨に冷たく眇められていました。
現在の私を取り巻く状況。
→ 妙に潤んだ目で私を見つめ、微動だにしないお兄さん。
そんなお兄さんに背中を踏まれ、倒れている老人。
そしてそんな二人を前に、身構えている私。
………うん、カオス。
その状況を見据えて、むぅちゃんは再度言いました。
「ていうか何、この状況」
「うん、なんだろうね…」
私も分かってないんだよ、むぅちゃん…。
私は困惑も漲っていましたが、同時に少しほっとしました。
だって、私の最強の楯が来てくれた…!
もう形振り構う必要もなしと、私はまぁちゃんを楯にすることを決めました。
さささっと即座に、まぁちゃんの背後へと退避です。
「リアンカ? なんだ、どーした?」
「まぁちゃん、あのお兄さん頭おかしいよ!」
「ああ?」
まぁちゃんの背中で小さくなりながら、私は未知の感性で動くよくわからないお兄さんをびしっと指さしました。
「あの人、私のこと天使って言うんだよ…!? 頭おかしいよ!」
「あ゛ぁ゛?」
ぎらり、と。
まぁちゃんの濡れたように光る一睨みが、頭のおかしいお兄さんを貫きます。
それは、そん所其処らの十把一絡げなら背筋から凍りついて卒倒しそうな、そんな素敵な一睨み。
…が、
「お、おおぉぉぉぉ…天使の傍には、なんと戦神が!? いやさこの優美さ、もしや芸術の女神…!? なんたる完璧っ!」
………頭のおかしいお兄さんは、絶好調に頭のおかしさを継続したままでした。
まぁちゃんの美貌が神々レベルの神々しさというのは、納得しますが。
今から大鬼百匹狩ってくるぜ…! 蹂躙しちゃうぜ! と言わんばかりの、この鋭い眼光。
この凶悪さを前に、しかもどう見ても男性の体つきだっていうのに、芸術の女神言いおった…。
居合わせた全員(まぁちゃん含む)、「え…っ?」という顔になってしまいます。
このお兄さん、精神系の状態異常にかかってない?
うんそう、混乱あたりの異常になってない?
今までに感じたことのない種類の戦慄が、背筋をスキップで駆け上がりました。
そんな愉快そうな調子で寒気に襲われるなんて初体験なんだけど…!
私の正気を疑う目に、気付いているのかいないのか。
さっきから発言内容の奇抜なお兄さんは頬の紅潮と目の潤みが、どんどんヤバさを増していきます。
そしてすすす、と静かに流れるような歩調で近寄って…
「ぐふっ はうっ よろれいひっ」
…地面に延びているお爺さんの背中を、踏みおった。
律儀に三歩分踏んで、こっちに寄って来ました。
えぇー…
あのお爺さんにさっきまで「死ぬな」って言ってたのは、何なんですか…?
いや、でも、踏まれてるお爺さんも何だか余裕がありますね…。
お爺さんを全く顧みないお兄さんはふわふわした足取りで私達に接近します。
その得体の知れない独特の個性に、私達はどう反応したものか。
とりあえず、私・まぁちゃん・子竜はびくっと肩を震わせました。
…魔王様も、肩を震わせちゃったよ。
「ああ、我が誘いの守護天使…! 例え傍に麗しの女神がいようとも、貴女こそが我が運命…」
「………っ!!?」
ぐ、ぐあ…っ
きききらきらした目で上目遣いに見上げられながら、手の甲にキスされた…!?
あ、あああああぁぁぁあぁぁ…殴りたい!
何だか無性に殴りたい殴りたい殴りたい殴りたい…!!
私は半分泣きそうな顔で、即座に奪われた右手を奪還すると、その甲をまぁちゃんのマントで拭いました。
それはもう、ごしごしというよりもぐぉしぐぉしという感じに。
得体の知れない気持ち悪さで、まぁちゃんも私も、身震いMAXだよ…!
「待ておい、人の服で拭うんじゃねえ…!
それよりも殺菌消毒用のアルコール持ってただろ、リアンカ!」
「タワシ! タワシはどこ…!?」
「待て、待て待て待て! タワシで何すんだっ!?」
「えぐる」
「傷跡が残るだろーが!!」
「ふ、ふふふ……我が天使も女神も恥ずかしがり屋の照れ屋さんだ」
「「ぶち殺す…っ」」
「わあ! まぁ兄さんとリャン姉さんが本気で目に殺意を…!」
「止めろ、こんな道端で惨劇起こしたら証拠が残る!」
「リャン姉さまー、証拠が落ちてたら完全犯罪になりませんのー」
「いいから、やりたいようにやらせたら? 満足したらとんずらして、勇者さんに擦り付けよう。もしくは今から物陰に引きずり込むとか」
「ふふふ…鋭い眼差し、凛々しくて一層素敵だ……!」
「誰か! あの変態黙らせろ…!」
「このままじゃ、惨劇一直線。あの人おかしい…」
「この熱気で頭煮えてるんじゃない?」
ぞろりと、闇の中から。
空間を歪めて、まぁちゃんが武器を取り出します。
今回は骨まで粉砕したいという意思が表れたのか、取り出されたのは粉骨砕身(文字通り)モーニングスター。
一方の私は骨まで溶かしてやろうかと、危険物用のポーチから濃硫酸を探します。確か、ここに入れていたはず…。
「ああ、天使…天使、我が天使…!
神は私に、紅い翼の使徒を使わして下さった!」
……そうしている間にも、止むことなく垂れ流しの賛辞に背筋がぞわぞわ気持ち悪くて仕方ありません。
「そんな言葉は、せっちゃんを一目見てから言えってのよ…!」
「そうですの。リャン姉様は天使じゃありませんの。姉様は女神様ですのー」
「あのお兄さん以上の節穴が此処にいた…!?
いや、せっちゃんは節穴じゃないはず……なのに、その認識は一体…!?」
「せっちゃん、ちなみに何の女神だ?」
「みゅ? お姉様の女神ですの! 世に遍く妹を可愛がってくださいますのー!」
「どこの百合女神だ、そいつ!?」
「せっちゃん、せっちゃん、私そんな女神になったつもりはないからね!?」
「うゅー?」
こて、と首を傾げるせっちゃん。
いつもなら問答無用で可愛いと思うんですけど…
近い場所におかしい人がいるせいで、心底から和めません。
「ああ、我が天使はなんて初々しく、照れ屋さんで可愛らしいんだ…!
愛らしさで脳天弾け飛びそうだ!」
「そんまま、マジで弾けさせたろーか!?」
「リャン姉、後ろに下がって。この人、本当に頭おかしいから」
「う、うわぁぁああんっ 声かけるんじゃなかったぁ…!」
興奮を高めているのか、傍目にもヤバいお兄さん。
うん、声をかけたことを本気で後悔しています…。
私を背後に庇い、まぁちゃんとロロイが前面に出てくれていますが。
じり、じり…僅かずつ寄ってくるお兄さんに、二人も顔を引き攣らせています。
怖いと思う筈はありませんし、たぶん気持ち悪いんだろうな。
何だか走って追って来そうで、逃げるに逃げられません。
捲くのは簡単かもしれませんけれど、変態のお兄さんに背中を見せることは単純に何だか嫌でした。
涙目で対峙する、私達。
未知の領域に足を突っ込んでるっぽい変態さん。
なんだか変態さんは、幸せそうに良い空気を吸っています。
怖いなー…。
このまま本気で脳天割るか、と。
私達が犯行の決意を固めようとした刹那。
そのギリギリ寸前で、後方から走る音。
え、新手?
「リアンカちゃーん、まぁの旦那ー☆」
……………サルファだよ。
また、面倒な。
「も☆ 置いてくなんて酷ー! あの衣装、着替えに手間取るんだから、さー?」
空気を読めていないのか、奴はいつも通りの様子でたったかたったかこっちに向かってきます。
………この変態、サルファに擦り付けられないかな。
しかし、予想外や予想外。
奴はお兄さんの姿を視認するや、目を見開いて驚き顔。
走る勢いも強引に抑え込み、急停止。
そして茫然とした顔で、お兄さんを指差し言ったのです。
「あ、あれー…☆ たいこう、でんか…」
随分と引き攣った顔で、それだけを言うサルファ。
その声に、ずっと私の顔をガン見して視線なんて逸らしてもくれなかったお兄さんがふいっと顔を上げて…
サルファの姿を認め、ひょいっと気軽な様子で右手をあげました。
「おおぅ、フィサルファード・フィルセイスではないか!」
「うわー……本物だぁ。グレ殿下おひさー…」
「うむ、フィサルも久しゅう! 息災であったか!?」
「はいはーい、そりゃもう☆」
………私達一同、置いてきぼりですね。
何でしょうか、この気安い空気、雰囲気は。
まぁちゃんは顔を引き攣らせ、サルファの耳を引っ掴みながら怒鳴りましたよ。
「この変態、てめぇの同類か…!!」
それは私達の思ったことを、そのまま代弁してくれる言葉でした。
耳をぐいぐい引っ張られながら、サルファも困り顔です。
「えー? 友達ってか主筋?
うちの国王の弟さん…ほら、今この国にお祝い言いに来てる大使の」
「そんな人いたっけ」
「いるいる。いるんだって! この人、うちの国の大公グレスィガム殿下」
「あー…そういや、てめぇの親父が警護してるんだったか?」
「そうそう、それそれ!」
「ふむぅ…フィサルよ、そういった言い方は残念至極。
そなたは我が同朋、我が朋友、我が真の友ではないか」
「………と、あちらの変態さんは言ってるぜ?」
「えー…殿下ぁ、いきなり初対面で変態呼ばわりされるって何やったの」
「ふむん? 生涯の我が守護天使に運命的な出会いを果たしたので、この思いのまま気持ちの丈を言葉として表現していただけであるが」
「ああ…殿下ぁ、初対面の人に殿下の暴走モードはきちぃっすよー」
「何故か!?」
「率直に言って、ただの変態にしか見えねーっす」
「何故に!?」
「いや、だから殿下の暴走モードきもいもん☆」
「………ふむぅ、不服である」
そう言って頬を、ぷっくりと膨らませて。
私よりも年上のはずのお兄さんは、大層子供っぽく不貞腐れて見せました。
本当に、何この人?
「うちの殿下ねー…情熱が迸っちゃうと、言動が意味不明になっちゃうの☆ 基本的に言動はきもいけど人畜無害だよ☆」
「気持ち悪い時点で、無害じゃないわよ」
「そう言わんでくれ、我が天使。確かに先程はそなたという天使に出会えた感動感激故に何を口走っておったのか、実はよく覚えておらんが。今こうしていても、再び現実という名の儚い虚像を打ち砕き、夢想の彼方で言語表現の限界に挑戦しとうなるが」
「この時点で何言ってんのか訳わかんない…!!」
「殿下ぁ、落ちつこ☆」
はいはいどうどう、はいどうどう。
馬を宥めるような扱い方で、大公なんちゃらさんの背を撫でるサルファ。
うん、やっぱりこのまま擦り付けて逃亡しようか。
そんな欲求に支配されつつある、そんな気怠い今日の昼下がり。
そして誰もに忘れ去られたお爺さんは、一人木陰で「よっこいしょ」と身を起こし、肩をトントンしながら渋いドクダミ茶を一気に飲み干していました。
爺さん、超余裕。